千葉の水道水、22日に一般規制値超えるヨウ素
千葉県と複数の自治体で構成する北千葉広域水道企業団は29日、江戸川を水源とする北千葉浄水場(流山市)で22日に採取した水から一般向けの国の暫定規制値(1キログラムあたり300ベクレル)を超える336ベクレルの放射性ヨウ素を検出したと発表した。
北千葉浄水場から直接送水しているのは野田市、柏市、流山市、我孫子市、八千代市、松戸市、習志野市。県営水道を通じ、鎌ケ谷市、船橋市、白井市にも送っている。
同企業団によると、22日の水は現在の水道管にほとんど残っていないが、長期間水道を使っていなければ「バケツ1~2杯の水を捨ててから使って」と呼びかけている。
一週間もたってから数値を発表しても意味ないだろう。
どうすんだよ千葉県は。どうすんだよ日本政府は。
と、一応言ってみる。棒読みだけどね。
いまさら驚いても遅い。こうなることは充分予測できたことだ。そしてこの正しく予測されるべき予測は、公的なものとしてはあらわれないのだ。原理的に。
いまテレビを見ると、災害にまつわるいくつもの美しいエピソードが紹介されているのだが、私が一番感動したのは、ある小学校での避難の話だ。
ある小学校が津波に襲われた。教員は生徒たちを引率して避難をさせなくてはならない。その小学校の防災計画は、校舎の三階(最上階)または屋上に生徒を避難させるというものだった。しかし、このとき現場にいた教員たちは、津波の規模が想定を超える大きさだと直観した。彼らは防災計画にはない方法、つまり、校舎を出て裏山に避難することを決めた。子供たちを裏山に登らせた後、巨大な津波が校舎を飲み込んでいった。
このエピソードが教えているのは、人間が災害の現場を生きる(生きられない)ことが、私的なものの領域に支配されているということだ。
公的な防災計画などというものは、あくまでガイドラインにすぎない。それは防災コンサルタントみたいな書類屋が、行政からもらった予算と時間の中でソツなくまとめたものにすぎない。本当に生きるか死ぬかを決するのは、防災計画の出来不出来ではない。ある一人の人間がある一回的な現場のなかで、私的なものに身をゆだねるということだ。
ある小学校では、ある教員が、「やばい」と感じ、防災計画を無視したからこそ、生き残った。こうした経験は、災害のあらゆる現場で起きていることだろう。災害がある種のユートピア的な経験として感じられるのは、この私的なものの回復が広範に現出するからである。
原子力災害も例外ではない。政府が情報を隠蔽しているとか場当たりの無計画だとかいう問題は、それはそれとして政治として批判するべきなのだが、より主体的により根源的に重要になってくるのは、この災害を生きるという経験を、各々がどれだけ私的なものとして生きるか、ということだ。ちょっと文章が込み入ってしまった。ちょっと舌足らずで説明不足になってしまうのだが、要するに、いま一回的な災害のなかで私(私たち)が言うべきは、「私的なことは政治的である」てことだ。