2012年4月28日土曜日

ダナ・ハラウェイを読む

風邪のような症状で一週間ほどダウンしていた。熱はないのだが、とにかく体が痛い。筋肉も関節も痛い。医者に行ったところ、B型インフルエンザの検査をすすめられたのでやってもらったのだが、結果は不検出。B型ではない別のウイルスだろう、と。風邪薬と抗生剤をもらって、4日間ぶっとおしで寝た。
この一年間、0ベクレルをめざしてきたが、東京に出て何泊か滞在するとやはり外食はしてしまう。なるべく食べないようにしているのだが、どうしても腹は減る。つい食べてしまう。あと、ビールを飲んでしまう。安全性を考慮すれば、洋酒とか中国酒とかマッコリにしなきゃいけないのだが、他人がビールを飲んでいるのを見ると、ついついビールを。東京で、ビールは、危険だ。そういう調子だから、たぶん自分が想定している以上に放射性物質を摂りこんでしまっているのだと思う。

きのうから少しづつ動けるようになったので、ちょっと書く。

いま、ダナ・ハラウェイを読んでいる。
ダナ・ハラウェイはアメリカの生物学者でありフェミニストでありアナキストなのだが、日本では80年代に『サイボーグ宣言』という本が翻訳されている。2000年には『猿と女とサイボーグ』という翻訳も出ている。
彼女の論はなにかというと、大雑把に言うと、女性や人種をめぐる本質主義的な「人間」観・「人間主義」に対して、機械を貪欲に呑みこんで融合してゆく生命=サイボーグを対置させた人。女も母親もいない、サイボーグがいるのだ、と。えーまじっすかみたいな。そんな超絶フェミニストだ。
 これは次に出す本でも展開する話なのだが、いまわれわれはこの『サイボーグ宣言』の内容を字義どおりに読むことができるのではないかと思う。というか、我々はすでにサイボーグになっているのではないか。
3月12日以降、放射線の戦争状態におかれた人々は、片方の手に空間線量計を装着し、もう片方の手にスマートフォンを溶接し、そういうサイバーオーグの主婦たちが、汚染地域をサーチしている。線量計とスマートフォンと主婦のハイブリッド。主婦のような、機械のような、獰猛な昆虫のような、群れ。こういう人たちが、というか「人」の概念を超えた人間機械が、全国で放射性物質をモニタリングし、政府の原子力政策やガレキ拡散政策を突き上げていく、というわけだ。

なんてことを妄想していたら、だんだん元気が出てきた。
もう負ける気がしない。
絶対に勝てる。


追記

明日は福岡でトークイベント。
会場は Art Space Tetra というギャラリーです。
近所の人はぜひ



補足

 IT技術の研究者から見れば、人間とサイバー空間の融合は、ずいぶん以前から始まっていた現象だと言うかもしれない。それはそのとおりなのだが、ちょっとだけ違う。
ダナ・ハラウェイが指摘するのは次のことである。
現代の軍が要請するサイバー技術の思想とは、C³I (シー・キューブド・アイ)、三つのCと一つの I に要約される。すなわち、指令(comand)・管制(control)・伝達(communication)・情報(intelligence)である。しかし、主婦たちがこの技術を呑みこみ、脱構築するとき、指令と管制の二つのCは除去されるのである。あるいは私なりに言いかえれば、指令と管制に対する激しい敵対性が、C³I を換骨奪胎し、コミュニケーションとインテリジェンスのみが暴走するサイバネティックスの闘争機械が誕生するのだ。
われわれが味わったこの一年の経験とは、政府が放つコマンドとコントロールが表面に露出して、そのおぞましい姿をいやというほど見せつけられたということだ。そうした経験を共有する者たちには、だからもうコミュニケーションとインテリジェンスしか残されない。それだけがあればよい。3・12以後のサイバネティックス-サイボーグとは、敵対性という決定的な契機によって生みなおされたのである。

2012年4月11日水曜日

大河ドラマ 『平清盛』

ひさしぶりに海賊研究者として書くが、NHKの大河ドラマ『平清盛』である。
 年の始めはうきうきしてして見ていたが、最近はちょっとがっかりしている。
 海賊が出てこないじゃないか。
 もっと海賊を出せ。
 前回のあれはなんだ。藤原摂関家の宮廷政治? そんなものはどうだっていい。狭苦しい京都の宮廷なんか映してなにが楽しいのか。視聴者(私)が求めているのは、獰猛な海賊たちのいきいきとした姿だ。だいたい脚本がおかしい。平氏の跡目争いという問題を、兄と弟のセンチメンタルなお話にしてしまってよいのだろうか。平氏の棟梁を誰が継承するか、それは武士と海賊が口角泡を飛ばして激論する大問題であるはずだ。平氏という郎党の階級的性格を左右する殺気立った問題であるはずだ。
 そんな話は史実にない? あたりまえだ。海賊の記録なんかのこっているはずがない。だからそこはリアリズムの手法を駆使して、ちょっとした嘘を挿入すればよいのだ。リアリズムというのは、ちょっとした嘘や演出を挿入することで、視点を定め、リアリティを増幅させる方法である。そういう嘘がなければ、海賊のような潜勢力を歴史の表面に浮上させることはできっこないんだから。
 だからもう史料があるとかないとかじゃなくて、毎回毎回、海賊を出してほしい。清盛が何かを悩むときは、必ず背景が海。清盛が酒を飲むときは、必ず海賊団が登場。毎回しつこいぐらいに海賊。それぐらいやってほしい。

2012年4月9日月曜日

測定行為と対象の問題

愛知県岡崎市の保育園で使用されていた干し椎茸から、1400Bq/kgのセシウムが検出された。
 これは東海ネットの市民放射能測定センターで測定したものだが、報道では保健所で検査したと報じられているので、たぶん我々のあとにもう一度保健所で測定したのだと思う。2度チェックしたのだから間違いはないだろう。

 で、問題は1400Bq/kgという数字である。これをどう解釈するかだ。
 実際には1㎏の椎茸を一人の子どもが食べるわけではない。
 1㎏の椎茸を250人の児童が食べたとして、1400Bqを250人で割って、ひとり5.6Bq程度だ、という考え方がある。
こういう言い分は一見するとなんだかもっともらしいのだが、実は気休めにすぎない。
なぜなら、このセシウムは、1kgの椎茸にまんべんなく均一に付着しているわけではないからだ。とうぜんムラがある。
椎茸のある断片4グラムは0.2Bqで、ある断片4グラムは20Bqみたいなことは、充分ありうる話だ。
単純な割り算をやって「これで約5ベクレルぐらい摂取かな」なんて考えていたら大間違い、それは放射能をなめすぎだ。

 さらに測定者として問題にすべきなのは、いま我々の入手できる測定機材では、一人の児童が摂取する4グラムという小さな分量を測定できないことだ。干しシイタケなら300グラム前後、水に戻した状態なら900グラム前後、そういう大きな分量で測定しなくてはならない。このひと固まりの中に、どのような濃淡があって、そのムラの分布がどうなっているのか、そのばらつきの幅の上限はどこまでになるのか、現在の測定技術では把握しきれない。
 把握しきれないにもかかわらず、我々は1キログラム「あたり」という測定結果を出すのである。我々の測定行為が、キログラム「あたり」なんて言い方をしてしまうものだから、「ではグラムあたりではこうですね」というミスリードを誘発してしまう。「あたり」というのは本当はとても便宜的な表現にすぎないのに。

 この問題は、ミクロな次元だけでなく、マクロな次元での汚染調査でも共通した問題である。
 ここでいま悩んでいる。考えどころだ。
 単純な線形モデルが通用しないなかで、当面はとにかく椎茸を避けるしかない。

追記
 ちょっと説明不足の感があるのでもう少し書くと、「1400Bq/kg」という数値もそれほど信用できるものではない。なぜなら、一つのロットに含まれるセシウムは均一ではなく、ムラがあるからだ。
 たとえば段ボール一箱に20袋の干しシイタケがあったとして、これらがすべて同一の濃度であることはありえない。すべての袋の濃度を均一にしろという方が無理。だから、濃度の高い袋から低い袋まで、20種類の椎茸袋があるということになる。ここから、乾燥状態なら6~7袋、水に戻すなら3~4袋を取り出して、サンプルをつくるのである。こうしてつくられた試料サンプルについて、その数値が高いとか低いとか漠然と言うことはできる。しかし、1400という数値自体は、実は根拠が薄弱なのだ。この椎茸20袋のなかには、1400Bq/kgを超過するものが必ず存在している。そこにある最大の濃度が、どれぐらいなのかはわからない。推測することも難しい。
 問題は試料サンプルをつくるという行為が、結果を大きく左右してしまうことだ。サンプル作成のプロセスは必然的に、選別と希釈のプロセスを含んでいて、最も危険な汚染濃度を隠してしまう働きをする。そして、ある兆候を示しているにすぎない漠然とした数値が、なにか再現性を備えた不動の数値であるかのようにみなされてしまう。本当は試料の数値に再現性はない。さらに問題なのは、「基準値」というものを設定してしまうことで、サンプル作成が結果を左右するような事態が生まれてしまっているということだ。
 というわけで、我々測定者は、「測定という行為自体が結果の数値をつくりだしている」という、ちょっとパラドキシカルなプロセスに投げ込まれるわけである。
これはまあ、ある意味おもしろい話なんだけど、現場は悩むところだ。

2012年4月3日火曜日

察しろよ

一般的に言って、男は幼稚だと思う。本当に物事の道理をわかっていない、ペラい連中だ。しかし幼稚な者を放置していては事態が前に進まないので、もう一度阿呆な男に再考を促したい。

 放射性物質による健康被害は、ガンや白血病の発症率ではない。我々が問題にしているのは心筋梗塞でもなければ免疫不全ですらない。問題の中心は、それらとは別の健康被害である。
 我々がどのような健康被害を想定しているのかは、書かない。それをおおっぴらに書いてしまうと、いま我々が必死で護ろうとしているものが毀損されてしまうからである。 
 私は生命が無条件にあることを望んでいる。そのことが当人にすら全く意識されないでいる状態を幸福だと思う。だから、乱暴な言葉づかいでこの問題を口にしたくない。問題をはっきりと提起しなければならないが、それを提起する言葉が問題を修復不可能にしてしまうことが明白なので、口にできないのである。そして誰もあまり口にはしないが、いま給食センターに猛抗議をしている人々は皆はっきりと認識している問題がある。
それが放射能問題の中心である。

この問題の深刻さに比べれば、人間が生きるか死ぬかなんてまったく瑣末なことだ。ガンになる、免疫機能がおちる、それはそれで問題だが、我々が真に怖れているのはそういう健康雑誌のようなレベルの話ではない。阿呆なじじい例えば小出裕章などが考えている「健康被害」と、我々が考えている健康被害とは、まったく次元が違うのである。
放射能問題の本質を、もういちど深く再考してほしい。