2017年11月10日金曜日

書くためのデザイン


 名古屋市の大須という街で作文教室を開くために、準備をしている。
 年内の開校をめざして、いまは教室の内装をつくっている。
“矢部史郎+山の手緑”で文章を書くときは、山の手緑が監修し私が書いているのだが、デザインの作業では役割が交替する。私が監修し、山の手緑が具体的な製作をしている。



 書くための空間デザインは、私の経験に基づいて、床や巾木からつくりなおしている。契約した部屋は一般的なオフィス用で、作文のためにつくられた空間ではないからだ。そもそも作文のためにつくられたアトリエというものは、日本にはほとんど存在しない。大学にもない。現在の大学の教室設計は、残念ながらアトリエとは正反対のものだ。あんな留置場のような配色をした抑圧的な空間では、学生たちが苦労するのも無理もない。

 私が取り組まなければならないのは、人がどんな環境で考え文章を書くのかということを、具体的に示していくことだ。
 まずは教室の立地に、大須という街を選んだ。私が実際に散歩をして、ここならいけると思ったからだ。
作文を書くためには、散歩ができる環境でなければならない。作文という作業には、“書いている時間”と“書けないでいる時間”があって、大切なのは“書けないでいる時間”をどうやって過ごすかである。書けないでいる時間は、外に出て散歩をしなくてはならない。散歩をする街は、殺風景ではいけない。複数の欲望の線が交錯するダイアグラムがなくてはならない。今回借りた教室は“赤門”という交差点にあるのだが、ここからは大須、矢場町、上前津、東別院、あるいは新堀川を超えて鶴舞へと、徒歩圏内に複数の風景を見ることができる。書けないでいる苦しい時間に、たっぷりと散歩をすることができる。

 教室の床は、もともと敷かれていたネズミ色のカーペットをすべて剥がした。かわりに、ブラウン・ベージュ・モスグリーンの三色でタイル模様にした。
 机は、一人に一台ダイニングテーブルを用意した。天板は1m×1.5mなので、充分な広さだと思う。テーブルの高さは65cmにするか70cmにするか迷ったが、足を組んでもぶつからないように70cmにした。机と椅子は、アール・デコから派生した50年代アメリカの様式。これだけだとあっさりしすぎているので、ハンガースタンドやパーテーションなどの調度品を使って、アール・デコに寄せる。目指すのは、コーヒーを飲みながらぼんやりとすごすことのできる空間だ。
 作文という作業には、“書いている時間”と“書けないでいる時間”があって、大切なのは“書けないでいる時間”をどうやって過ごすかである。ここで絶対に避けなければならないのは、自己嫌悪や無力感に支配されて、書くことを放棄してしまうことだ。自己嫌悪の感情に負けないために、自己愛を供給しなくてはならない。“書いている時間”だけでなく“書けないでいる時間”も含めて、“私は大切な時間を過ごしている”と感じられるようにしなくてはならない。そうした自己愛を備給するための空間、椅子、あるいは、コーヒーやタバコといった嗜好品が必要になってくる。
 
 書くための空間デザインは、いわゆる「デザイナー」にはできない作業である。「デザイナー」は、デザイン作業やデザインの歴史は知っていても、書くということがどういうことかを知っているわけではないからだ。
 いや、この際ついでに言うことにするが、一般的に言って、「デザイナー」の無知というのは甚だしいものがある。怒りをおぼえることもしばしばである。
 「デザイナー」の無知の代表的な例としては、「子供用学習机」のデザインがある。ひどいものである。硬い椅子、狭い天板、視界をさえぎる配置、まるで拷問器具のようなデザインだ。デザイナーが児童教育に無知であるために、子供たちは「子供用学習机」に向かうたびにストレスを感じ続けるのである。あんな机で勉強をしろというのは、客観的に見て無理な要求である。結局、子供たちは「子供用学習机」を嫌って、キッチンのダイニングテーブルで宿題をやることになる。そうなると「子供用学習机」とはなんなのか。子供にも学習にも寄与しない、机ですらない、たんなる粗大ゴミである。
「デザイナー」たちの教育にたいする無知・無関心は、児童教育だけでなく大学教育にまで及んでいる。大学の空間デザインは、これまたひどいものだ。再開発されるたびにひどくなる。大学で過ごす人々が何をするために集まっているのか、彼らがどんな時間を過ごし、彼らからどんな力を引き出さなければならないのか、そのことに少しでも想像力を働かせれば、あんなひどいデザインにはならないはずだ。2000年代以降、大学や大学生は、“素敵なもの”ではなく“ダサいもの”になってしまった。その大きな要因には、大学建築の失敗がある。


 まあそれはさておき。
 いま私たちが設計している作文アトリエは、もちろん研究生のためにつくられるものだが、私自身のためでもある。私が何かを書くときに、もっと快適に書きたいと思うからだ。書くために深夜のデニーズに通うのも悪くはないが、どうせ教室をつくるのなら、私にとっても快適に過ごせるような空間にしたい。