2013年12月30日月曜日

大阪旅行


 大阪へ2泊3日の旅行に行ってきた。

 1日目は池田市の杉村昌昭さんを訪ねて、暮れの挨拶。いつもの居酒屋で「杉村派」の忘年会に参加。解散後は前瀬くんと二人で梅田にくりだし、いつものバーで飲む。

 2日目は原口くんが幹事をつとめる「都市文化研究会」に参加。私は名古屋からの報告ということで、1989年の「デザイン博覧会」やタイルメーカーのINAX(現LIXIL)がジェントリフィケーションに果たしたやくわりという、とても名古屋色の強いレジュメを出した。この会で、酒井隆史さんや福岡に移住した森元斎くんと再会。十三(じゅうそう)という街で深夜まで飲んだ。


 大阪には「キタ」と「ミナミ」があって、十三は「キタ」の中心地梅田から電車で二駅。駅の東西にアーケードがのびていて、居酒屋や風俗店が集積した歓楽街になっている。住宅も多い。ここで、駅から徒歩7分のワンルームマンションが、2万5千円。安い。東京からの移住を検討している人は、ぜひ一度、十三に行ってみてほしい。ここには都市の密度があり、万華鏡のように変化する景観がある。名古屋の街がポスト近代の特徴を強く持っているのに対して、大阪の街はがぜん近代だ。建物の遮蔽は弱く、飲み客の歓声や食べ物の匂いが街路にはみ出している。ここではただ路地を歩いているだけで、環境に包まれているという安心感をおぼえる。環境を剥ぎ取られた名古屋の街とは対照的だ。ただ、こういうあたたかい街に暮らしていると、思想の強度はいくぶんか落ちてしまうかもしれない。人間的な暮らしをしたいならだんぜん大阪、思想の強度を求めるなら名古屋の酷薄さをおすすめする。

2013年12月20日金曜日

無防備被曝の恥ずかしさ



 私はまったく知らないが、南郷某という右翼漫画家が死んだらしい。
この男は、放射性物質を放出する福島第一原発に肉薄したり、被曝を怖れるなという安全デマを漫画にしていた。排外主義で知られる「在特会」系右翼ともつながりがあるようだ。
 39歳で孤独死。こういう人間が死ぬのはよい。メシがウマイとまでは言わないが、酒席の話題にはちょうどよい。

 放射能はそれほど危険ではないという説を信じたり、放射線防護のために活動する人をバカにしたりしてきた者が、これから大量に死ぬ。これはとても恥ずかしいことだ。人間とはなんてマヌケな存在なんだろうと思う。

 私はこういうマヌケどもと同類にならぬよう、今後も気をゆるめず放射線防護を継続しようと思う。もしもいま命を失くしたら、このマヌケ右翼と同じ統計記録にカウントされてしまうことになる。そんな不名誉な扱いを受けるくらいなら死んだほうがましだ。いや、だから、死んではいけない。絶対に、死んではいけない。

 いまはどんなにバカにされても、生きよう。


 生きろ。
 


2013年12月18日水曜日

地方権力の没落過程



 大友良英の「プロジェクトFUKUSHIMA!」について、短い文章をある雑誌に送った。今の段階ではまだ雑誌名を公表できないが、順調にいけば来月の号に掲載される。この問題については、様々な要素を検討しなければならないため、何度かに分けて出していくことにした。まずは第一回分をまとめて入稿した。

 今日も山の手緑と議論しながらノートをつくっていたのだが、話題になったのは「風評被害」説の追認問題である。福島第一原発の爆発後、経済産業省と福島県は「風評被害」キャンペーンを開始した。多くの人はこの説に否定的か懐疑的かであったのだが、大友らはひじょうに早い段階で「風評被害」説を追認する。ほとんど鵜呑みといってよい早さだ。その判断の早さはなにからきているのか。

 ひとつには出身階層の問題がある。「プロジェクトFUKUSHIMA!」の呼びかけ人たちは、福島高校の出身者である。福島高校は、県を代表するトップクラスの進学校で、多くの政治家を輩出してもいる。大友と遠藤が「風評被害」説をいちはやく追認した背景には、彼らが福島高校出身者であることが影響していると考えられる。
 「風評被害」説は、その当初から政治的な態度表明として唱えられてきた。それは「裸の王様」を裸だとは言わないでくれというキャンペーンだった。はじめから無理があった。汚染調査の技法もなければサンプル採取の規則すら確立されていないなかで、安全性をめぐる議論ははぐらかされ、たんなる政治的要求にすりかえられてしまう。「絆」「応援」「東北を差別するな」と。
 私の友人の観測では、この件をめぐって「東北差別をするな」と声高に叫んでいるのは、仙台一高の出身者である。これは目立つ。たとえば朝日新聞の樋口という記者は、二言目には「東北差別ガー」とまくしたてるので(しかもフェイスブックで)界隈ではとてもうざがられているのだが、彼は仙台一高出身である。
 私は愛知県立旭丘高校(旧制・愛知一中)に通っていたから、こういう「地方エリート」を知っている。彼らは、県庁や銀行や大企業の椅子を約束された、地方権力の「遺産相続者」たちである。「中央」とのパイプも太い。彼らが下々の人間のことを真剣に考えるとは思われない。彼らを突き動かしているのは、己の遺産の喪失を阻止することだ。

 放射能汚染は人々から奪う。奪われるものが大きい者と小さい者とがあって、大きく失う者たちは、声を荒げて「反差別」を訴える。

 そして国にも地方権力にも代表をもたない階級は、移住を開始する。このとき、「プロレタリアに祖国はない」ということがたんなるお題目でなく事実として実践される。
 労働階級に「ふるさと」はない。それは没落する階層のみる幻想だ。

2013年12月11日水曜日

”残酷さ”について


 フランスの反核グループが私にインタビューをしたいということで、スカイプをつないで2時間ほど話をした。海外の活動家と議論して有益なのは、自分の考えていることが整理されていくことだ。外国人には、こちらがあたりまえに感じているニュアンスが伝わらない。問題の構図を明確なかたちで言葉にしなければ、何が起きているかを説明することもできない。これは子供に話をすることと似ているが、子供を相手にするよりもずっと抽象度の高い踏み込んだ議論ができるので、楽しい。外国人と話すことは、自分のためになる。

 今日の議論で、私の口から出たのは、“残酷さ”という言葉だった。「私たちは現実の残酷さを受け入れるか否かで迷っている」と。自分でも驚いた。こんな言葉が自分の口から出てくるとは思わなかった。
 彼らの質問はとてもシンプルなものだった。「なぜ汚染地域からの退避が遅々として進まないのか」というものだ。その要因はなにか。さまざまな事実をあげ、問題の構図を示し、状況を説明していった。しかしなにかが足りない。なにか言い残していると感じて、最後に、“残酷さ”という言葉が出た。

 放射性物質の拡散は、大量の死者をうみだす虐殺行為である。それが1万人の規模なのか100万人の規模なのかはまだわからないが、これから多くの人々が理不尽な死に方をして、我々はそれを目の当たりにすることになる。放射能汚染は、残酷である。
 そしてそれにもまして、移住は残酷な決断である。
 私は事件が起きた2週間後に、東京から名古屋に移住することを決めた。私は私自身が率先避難者になることで、問題解決の方向性を提示したのだが、このことは同時に、これまで付き合ってきた東京の人々に死を予告する行為でもあった。「ボンヤリしていると死ぬぞ」と、宣告したのだ。それに応えてある人は「全員が移住できるわけではない」と言う。そして私は言う。「全員は生きられない」と。

 フランス人は私の心理状態を指して「罪悪感」という言葉を出してきた。私は少し戸惑った。この表現は、不当だが、正しい。正しいが、不当だ。
 私がこの事態に際して罪悪感をもつ理由はない。原子力政策を決定・推進したのは私ではないし、放射性物質を撒き散らしたのも私ではない。今回の原子力公害について私はもっぱら被害者である。まずはこの単純な事実を確認しておきたい。小出裕章にかぶれた爺婆が「原発を止められなかった私たちにも責任がある」とつぶやく。私は明確にそれを否定する。必要なのは自分が被害者であるという自覚と、被害者を結合する階級意識である。私たち被害者が、自責の念にかられたり罪悪感を抱いたりすることは、支配と被支配の敵対関係を曖昧にする倒錯であり運動破壊行為である。私は小出裕章を許さないし、反核運動は小出的傾向を排除しなくてはならない。
 しかし。
 私がこれまでこうしたことを歯切れよく語ってきたかというと、そうではない。小出に対する批判は2011年の秋の段階でおこなったが、それは、彼らの心理状態や共有されている感情それ自体を批判するものではなかった。そこまで踏み込んで言及するには、1年の時間がかかった。また、「移住するなら仲間と一緒に行きたい」という者に対して、「全員は生きられない、残るという者は置いていけ」と言うまで、2年の時間がかかった。
 なぜ、こんなに時間がかかってしまったのか。罪悪感などというものから身を引き離して生きてきた私が、こんなにも長い時間を費やしてしまった。歯切れよく語るには躊躇するなにかがあった。足元につきまとうなにかがあった。それを「罪悪感」というなら、もしかしたらそうなのかもしれない。
 しかし私は断固として否認する。そして「罪悪感」という言葉にかえて、“残酷さ”と言う。
 私は、あるいは私たちは、起きている事態の残酷さに怯え、足がすくんだのだ。




 今日スカイプで話したフランスの活動家は、ドゥボールやポスト・シチュアシオニストの流れをくむ人たちだったので、「復興」政策のスペクタクルについて踏み込んだ議論ができた。短いがとても濃密な時間だった。おそらく来年は、私が直接フランスに行って話すことになるだろう。若い活動家たちは、日本の活動家の意見を求めている。それは現場からの実態報告ということにとどまらない。爆心地で生まれたあたらしい思想枠組みと、新たな対抗戦略を、求めている。責任は重大である。考えるべきことがありすぎる。

 私と山の手緑はいまこの作業を開始している。たいへんな大仕事だ。この作業に加わりたいという人、または、作業に立ち会って間近で見たいという人は、名古屋に来てほしい。

2013年12月9日月曜日

移住者たちの美しさ



 名古屋には移住者たちのNPOが複数ある。移住者支援のNPOではなく、移住者が主体となって運営されているNPOだ。そのうちの一つに私は参加していて、といってもあまり熱心な会員ではなくて、もっぱら飲み会に参加しているだけのぐうたら会員だ。
 昨日は名古屋市内の会場に集まり、小さな子供たちのためのクリスマスパーティーと、大人たちの忘年会が催された。移住者をとりまく状況は深刻で息の詰まるものだが、飲み会はとても盛り上がった。

 女性たちが美しくなっている。何人も子供を産んだ母親たちが、まるで20代のように若々しくなっている。このグループがつくられてからの1年間で、驚くほど変化した。育児に忙殺され疲れているはずのひとたちが、どんどん若くなり、美しくなっている。
 なぜ彼女たちは美しくなったのか。

 ひとつには状況がそれを強いたということがある。彼女たちは新しい土地で生きていくために、美しくならなければならなかった。人並みに美しいというのでは足りない。味方になるものがほとんどいないなかで、他人を惹きつける美しさを身につけなければならなかった。

 もうひとつは報復感情である。彼女たちは生活の基盤を奪われ、ほとんど裸同然の状態で焼け出されてきた。職場でも、地域でも、家族や親戚にも理解されず、まったく孤立した状態で移住を決意した。このとき移住者は、「絶対に幸せになってやる」と、固く胸に誓う。これはただ救済をもとめているのとは違う。移住者にとって「幸せになる」こととは、それ自体が、自分を踏みつけにした社会への復讐なのである。だから私たち移住者は、白髪交じりの疲れた顔で惨めな姿をさらすわけにはいかない。それは敗北に敗北を重ねることになる。政府と東京電力とこの社会全体に報復するために、移住者は強い目的意識を持って美しくなっていく。
 彼女は美しさに磨きをかけながら、報復の機会をうかがう。
 まるで全ヨーロッパを敵にまわした近代海賊のように。


 いま名古屋には海賊のような主婦が徘徊している。

2013年12月7日土曜日

『 a sick planet 』を入手



 パリ在住のSさんに奨められて、ギー・ドゥボールの未邦訳本を入手。
 Guy Debord『 a sick planet 』(英語版)を買った。
 これはドゥボールが原子力問題について書いた文章。フランスでは2004年に出版されている。シチュアシオニストはどんな角度から原子力体制を批判したのか。とても興味深い。


 本が届いて見てみたら、表題の「 a sick planet 」 は15ページほどの短い文章。
 日本語訳ができたら、このブログで紹介します。


追記

 菰田真介くんと猿飛僧助さんが翻訳してくれました。
 日本語全文はこちら