2023年3月4日土曜日

働かないアリの解釈について

  

 アナキスト大杉栄は、ファーブルの『昆虫記』の翻訳に力を注いだ。大杉は、アリの生態観察から集産主義や相互扶助の論理を説き、日本アナキズム思想の始祖と呼ぶべき存在となった。

 

 時代は下って現在、アリの生態研究には新たな発見が加わっている。

日本の研究者が2012年に発表した論文によると、「働きアリ」のうちの2割は、まったく働かずにブラブラしていることがわかったのだという。「働きアリ」集団には、働いているアリと働いていないアリがある。仮にこの集団から働かないアリを除外して、真の「働きアリ」集団に純化してやる。すると、このうちの2割が働かないアリになってしまうというのだ。つまり「働きアリ」集団は、常に2割の働かないアリを保持しながら、働いているというわけだ。

 

 働かないアリの存在をどのように解釈し説明するかについては、まだ定説がない。この2割の働かないアリにどのようなイメージを投影するかは、自由である。

 2割の働かないアリはたんなる怠け者だ、という解釈もありうる。

この2割は予備役であり、不測の事態に備えた補充要員であろうという解釈もある。

この2割は全体の生産力に寄生するヤクザ・棒心・寄食者であるという解釈も成り立つ。

どのような説明が正解なのかは、まだわかっていない。

 

 

 私が働かないアリに投影するイメージは、預言者・批評家としてのブラブラアリである。働かないアリは、ブラブラしながら状況を見ている。彼は働いているアリが見ていないものを見ていて、まったく違う角度から問題を眺めている。働かないアリは、働いているアリが知らないことを、知っているのだ。

 

 

 かつて、首都圏反原発連合の野間某は、だめ連のペペ長谷川を激しく攻撃し、大衆運動からの排除を試みた。

首都圏反原発連合が生まれる以前、だめ連は東京の反戦派青年のなかで敬意をもって迎えられる存在であった。まさに働きアリ集団が保持する2割、ブラブラアリの代表的存在が、だめ連のペペ長谷川だった。私たちはみな、ペペ長谷川が怠け者の役立たずであることを知っていた。その上で彼を愛し、議論を交わし、ときに助言をもとめていた。有名な大学教授の講演よりも、喫煙所で交わすペペ長谷川の言葉に、重きを置いていたのだ。

 反原連の野間某がペペ長谷川を激しく攻撃したのは、たんに怠け者が目障りだということではないだろう。それだけなら、あえて攻撃する必要はない。野間が怖れたのは、怠け者に正当な地位を与えてきた運動文化、怠け者との交流を知の源泉としてきた運動文化に、強い警戒心をもったのだ。素人が陥りそうな誤りである。

 首都圏反原発連合は、2年ほどで雲散霧消してしまった。怠け者の役立たずに敬意を払わないような運動は、知的に後退し、運動の再生産に失敗したのだ。

 

教訓

 社会運動には、怠け者が必要だ。

役立たずを愛し、もっと彼の話を聞くべきだ。

 

 

 

 

2023年2月16日木曜日

ぺぺさん

 

深夜に電話が鳴った。ぺぺさんが亡くなったという。

「だめ連」のぺぺ長谷川さんが亡くなった。

 

彼に最後に会ったのは、昨年の夏。

私に遺していった言葉は、ふたつ。

「ウクライナ反戦、どうするか問題」

そして

「このフェスはいま日本で一番おもしろいフェスだよ!」

 

昨年の夏、前触れもなく、ペペさんから電話がかかってきた。名古屋に遊びに行くからトークしよう、と。ぺぺさんに呼び出されたら、断れない。名古屋駅まで会いに行ったところ、もうすでに眼をらんらんとさせて、キマっていた。彼は、ゆっくりとシリアスな表情をつくりながら、ノリノリで、「ウクライナ反戦どうするか問題」をきりだした。

 ウクライナ戦争をめぐっては、その認識に大きな分岐が生まれていた。ロシア政府の軍事侵攻・国際法違反を批判する人々と、NATO・米英政府の策動を批判する人々と。左翼全体に分岐が生まれていたし、小さなアナキストグループのなかでも分岐が生まれていた。「これは日本だけの話じゃなくて、ヨーロッパの左翼もこの問題で割れてるらしいんだよ」と、ぺぺさんはニヤニヤしながら話していた。

 私は昔イラク反戦運動に加わってはいたが、2011年以降は原子力問題に絞って活動している。遠い外国の戦争よりも、いま日本で進行している放射能汚染が優先課題だからだ。頭から放射性物質を浴びせられながら、それより優先する課題などないはずだ。そんな私にたいしてウクライナ戦争の話題をむけるというのは、ずいぶん的外れだなあと思った。が、不愉快な気持ちにはならなかった。ぺぺさんはいつもヘラヘラと酔っぱらっているけれども、その中味は実に昔気質で、けれんみのない議論を好む。ドがつくほど真面目なのだ。彼は、誰も議論したがらないでいるウクライナ戦争について、バラバラになった仲間を集めてじっくりと議論するための方策を練っていたのだ。

 ぺぺさんの意図にそうような返答は、何もできなかった。気持ちは受け取った。しかしこの件について、私は、役立たずだ。反戦運動をどうするかという問いだけが、のこった。

 

 

 その後ひと月ほどして、ぺぺさんは再び名古屋にやってきた。豊田市の矢作川の河川敷で開催される「橋の下世界音楽祭」に遊びに来たのだ。河川敷にテントを張って、二泊三日の音楽フェスだ。私も誘いをうけたので、豊田に向かった。初日はどしゃ降りの雨で、私はテンションが下がりまくりだったのだが、東京から到着したぺぺさんは、すでにキマっていた。深夜には雨が上がり、私も気持ちがのってきた。夜の河川敷に光る電球の連なりが、キラキラと美しく輝いていた。一曲が20分にも30分にも感じられ、長く深い高揚感に包まれる。雨でぬかるんだ泥道がとても気持ちよくて、はだしになって泥の感触を楽しんだ。バンドが終わった深夜からは、トランスで3時間ほど踊りくるった。

 ぺぺさんは眼をらんらんとさせて言った。

 「俺も全国いろいろまわってるけど、ここはいま日本で一番おもしろいフェスだよ!」

彼が私に教えてくれた最後の言葉は、熱いフェス情報だった。

 

 

私が知るぺぺ長谷川は、いつもヘラヘラニヤニヤしていて、その実ものすごく真面目に考えていて、同時に、遊ぶことに本気だった。おそらく彼にとって、遊びは、闘いであった。

人間あんなふうに生きられたら、幸せだとおもう。

たぶん、悔いはないはずだ。

 

 ペペさんの冥福を祈ります。

 

 

2023年1月30日月曜日

立憲議員がえらそうに(怒)

 

「育児休暇中のリスキリング」提案について、国会で岸田首相が詰問されている。

岸田首相は育児の大変さがわかっていないのではないか、と。

字面だけを見れば、まったくそのとおり。

産後の疲弊や、乳児の世話の大変さを少しでも知っていれば、こんなバカげた提案は却下されてしかるべきである。

だが、質問している議員が立憲民主党だ。これではまるっきり猿芝居である。

お前らにそれを言う資格があるのか、と言いたい。立憲民主党の議員は、岸田とは違って育児の大変さを認識しているというのか。

 

 

昔の話を蒸し返す。

 2011年3月、福島第一原発の爆発事件のあと、日本政府は「原子力緊急事態宣言」を発令した。原子力基本法の大原則となっていた一般公衆の放射線防護は覆され、被ばく受忍政策へと大転換した。食品について1キロあたり100ベクレルの受忍、空間線量で年間20ミリシーベルトの受忍が、原子力緊急事態宣言下で強行された。

 全国各地で、市民による食品検査と不買が広がった。この動きの主体となったのは、乳幼児を抱えた女性たちである。当時の民主党政権は、汚染食品の規制を求める声にまったく応えなかった。むしろ、汚染食品の不買に対して、「風評被害」などという中傷をくりかえしたのだ。まるで乳幼児を抱える女性たちが異常者であるかのようにレッテル張りをおこない、攻撃したのだ。

 その時以来12年間、緊急事態宣言は解除されず、被ばく受忍政策が継続したままである。日本では1キロあたり100ベクレル未満の汚染食品が、合法的に流通する状態が維持されている。「風評被害」はまったく終わっていない。いまも私たちは食品の産地をチェックしながら、買えるものだけを慎重に選ぶという緊張を強いられているのである。

 12年間もそんなことをし続けてきたのかと驚くかもしれない。よく飽きないなと言うかもしれない。だがこれは、飽きる飽きないの問題ではない。自分以外の人間の命に責任を持つということは、そういうことなのだ。

 民主党系の議員連中に、この大変さがわかるわけがない。

彼らは育児に悩む女性たちに対してなんら説得する努力もしないで、一方的に被ばく受忍を要求してきたのだから。

 

立憲民主党の議員がこの件でえらそうに詰問する資格はない。

恰好つけやがって。ばかが。

 

 

2023年1月19日木曜日

怪談が退屈になっている傾向について

一週間ほど頭痛が続いているので、病院に行った。たぶん血圧の問題だろうと予測していたのだが、医者の診断は違った。血圧は不調の原因ではなく、結果なのだという。不調の原因となっているのは、高いストレスによる肩こり。肩こりは確かにあるのだが、これは不調の結果だと考えていた。私は原因と結果を取り違えていたのだった。

 

 最近の生活を振り返ってみると、確かにストレスを抱えてはいる。だがそれはいつものことであって、とりたてて言うほどのものではない。おそらく問題は、ストレスの解消方法がうまくいっていないのだ。最近はとくにそうだ。酒を飲む機会も少ないし、YOUTUBEの動画を観ても退屈なものが多い。なかなか楽しめない。息抜きができていない。

 

 YOUTUBEの動画のなかでどんなものを観ているかというと、私がずっとはまっていたのは、実話怪談のコンテンツだ。2010年代は、なにか煮詰まって疲れてくると、実話怪談を聞いて、息抜きにしていたのだった。しかし2020年あたりから、怪談のシーンは大きく変わってきた。新しい語り手がたくさん登場したが、どうにも退屈なものばかりだ。いま怪談は何度目かの大きなブームになっているが、2010年代のような勢いはない。お笑い芸人も参入して、軽妙なトークをまじえて楽しげにやっているが、楽しくない。

 目につく変化は二つ。“怪談師”なるものがあらわれ、怪談を競う賞レースが開催されるようになった。若い語り手の多くが“怪談師”を目指して訓練をするようになった。賞レースは、滑舌のよさと緩急の技術、制限時間内に語りきる練度を競わせるようになった。結果として、怪談の語りはある様式に向かって収斂し、画一的になっている。

2010年代の実話怪談は、けっしてうまくはないが味のある語りが充満していた。中山市朗、いたこ28号、雲国斎、星野しずく、ファンキー中村、西浦和、等々、みなそれぞれの語り口で怪談を語っていた。このころの怪談シーンはアマチュアリズムを基調としていたから、誰も“怪談師”を目指してはいなかったし、賞レースなど想像もしなかった。アマチュアの自由さと解放感があった。

 だが最近の新人は、プレッシャーでガチガチである。プレゼンテーションの技術を競い、キャラクターづくりに執心し、落語家や講談師のような“プロ”になるべく一生懸命である。背景には若年層の貧窮化ということもあるのだろう。観ている側としては、痛々しいばかりで、息抜きにはならない。

 こう考えてみると、私が怪談に求めていたのは、下手くそな語りだったのだと思う。稲川淳二、桜金蔵、つまみ枝豆によって語られた昭和の怪談には、素朴で、生々しく、熱のある語りがあった。彼らのけっしてうまくない語り口に、民話の興奮があった。現代の新人“怪談師”たちには、この民話のグルーブが欠けている。彼らは民話のグルーブを忘れているか、知らないか、あるいは、民話に接する機会すら奪われているということなのかもしれない。

 民話の成立する要件は何か。私はその方面の研究に疎いので、正確に言うことはできない。だが、ひとつ確かに言えるだろうことは、民話というものが民衆の自律性を基盤にしているだろうということだ。民話は、宗教的な権威からも世俗的な権力からも隔てられていて、それのみで自足している。公的な権威や権力から見れば、“愚にもつかない話”である。“愚にもつかない話”が民衆に語り継がれることで、自律的に運動している。ガタリ風に表現すれば、〈国家装置〉から逃れ続ける〈民話機械〉と呼ぶべきものがある。

民話は、権威・権力にとって捕捉することのできない〈他者〉である。民話を語る者、語られる場、語られる時間は、〈他者〉である。それが魅力的であるのは、民話を通じて人々の〈他者性〉を顕在化させるからだ。人間はみな〈他者性〉をもっていて、自分もまた〈他者〉であり、自分は自分にとっても〈他者〉である。民話はそうした精神の分裂を促すことによって、パラノイア化する現実を離れて、一息つかせてくれるのだ。

人間は社会的動物である、だから私たちは、あれをしろこれをするなとやかましく他律的な環境に身を置いている。権力の言葉をそのまま口写しにして、スキルをみがけだとか、タバコをやめろだとか、さしでがましい要求が蔓延している過干渉な時代である。人間はみな〈他者〉であるということ、それぞれが自律的な個人であるということが、忘れられている。そうした時代だからこそ、実話怪談という民話が人々に求められているのだとおもう。

 

だが、時代に抗してきた怪談の世界にも、権力の作法が持ち込まれつつある。

若く一生懸命で退屈な語り手たちだ。20代で“怪談師”を目指すというのは、そもそも世の中をなめている。

怪談とは“愚にもつかない話”であって、愚にもつかない中年が話すから、味わい深いのだ。

 

 

 

 

 

 


2022年12月31日土曜日

2022年のまとめと来年の抱負

 

 年末の忙しときに風邪をひいてしまった。高熱は出ていないが、体がだるい。

近所の病院に行ったところ、PCR検査キットを使い切ってしまって診察できないと断られた。市民病院に行ってくれというが、体がだるくてクルマを運転する余力がない。愛知県のPCR検査所は名古屋駅にあって、電車に乗っていくのもだるい。仕方がないので自室にこもることにした。PCR検査キットは入手できなかったが、抗原検査キットは手に入ったので、何も無いよりはましだろうということで一応検査をした。結果は陰性。この陰性結果にどれぐらいの意味があるのかはわからない。症状は、微熱とだるさと鼻づまり。のどの痛みはない。葛根湯と経口補水液を飲みながら、自室でじっと年を越すことにした。

 この冬の感染爆発は、これまでにない膨大な死者を出している。医療機関は崩壊状態になっているし、火葬場もパンクするだろう。感染を抑えるための大規模な措置をとらないまま、体の弱い者や不運な者がひっそりと大量に死んでいくのだ。

 

 

 今年は、原子力政策でいくつもの動きがあった。

 福島第一原発事故の初期被ばくによって小児甲状腺がんに罹患した患者は300人を超えているが、今年5月、被害者のうち6名が訴訟提起をした。通称「311子ども甲状腺がん裁判」が、東京地裁で始まった。(https://www.311support.net/

 福島第一原発事故の被害住民が国と東電に賠償をもとめる訴訟は、全国に約30ある。その最先頭を進んでいた4つの訴訟(生業訴訟・群馬訴訟・千葉訴訟・愛媛訴訟)について、6月に最高裁判決が出された。国の法的責任を認めない、異様な判決だった。福島県の「生業訴訟」はすぐに第二次訴訟の準備にとりかかり、すでに1000名を超える新原告が訴訟の準備に入っているという。

 7月。東京電力の株主が、原発事故当時の経営陣を訴えた株主代表訴訟で、東京地裁の判決が出た。旧経営陣4人は東京電力にたいして13兆3210億円を支払え、という判決だ。原告・被告ともに控訴したので、つぎは東京高裁での争いになる。

 

 8月。岸田首相は、原子炉等規制法の規定にあった「原発40年ルール」を放棄し、老朽原発を稼働し続ける方針を示した。さらに11月には、岸田首相は原発の新増設を検討するように指示した。福島の被害がなにも解決しないうちに、原発回帰政策に転換しようとしている。

 

 海外に目を向けると、やはり原発回帰の動きがあった。

2月に始まったロシア軍によるウクライナ干渉戦争(特別軍事作戦)では、チェルノブイリ原発とザポリージャ原発が、ロシア軍によって占領された。ウクライナ軍はザポリージャ原発に対して砲撃を行うなどして国際的な非難を浴びた。ウクライナ政府がザポリージャに異常に執着した背景には、ロシア製原子炉からアメリカ製原子炉への切り替え問題がある。ロシア軍が介入する直前、ウクライナ政府はアメリカ・ウェスチング社のAP1000という加圧水型原子炉の新設を決めていたのだ。ウクライナは現行のロシア製原子炉をすべて廃棄し、アメリカ製原子炉に切り替える、そして核燃料の供給ルートも「西側」に切り替える方針なのである。この事業はおそらく、「戦後復興」の名の下に日本のプラント建設企業も参入することになる。ゼレンスキーがダボスに招聘されたとき、まだ講和はおろか停戦の見通しもたたない段階にありながら「復興」を議論したというのは、そういうことなのだ。ウクライナの地に「西側」原子力産業の生き残り戦略がかかっているのだ。

 

 

「復興」ということで振り返れば、今年注目されたのは、福島県浜通りで進められている「福島イノベーションコースト構想」である。政府は「福島復興」をけん引する事業と位置付けるが、現地の住民からは「惨事便乗型開発」と厳しく批判されている。ここに誘致されたもののなかで注目されるのは、ドローンの研究開発企業が入っていることだ。ドローンは、廃炉作業に必要となる技術だが、同時に、現代の兵器開発に欠かせない中心的技術でもある。この開発構想が本当に復興に寄与するものになるのか、たんに「復興」を看板にした兵器産業育成(予算ばらまき)なのか、きちんと注視しなくてはならない。福島第一原発に貯留される汚染水を海洋放出しようとする政府の態度から推測するに、ここでの「福島復興」はたんに予算を横流しするためのお題目であろう。原発で大赤字を食らった重電メーカーに、「復興」名目で別の補助金を手当てするというわけだ。

12月。岸田内閣は、防衛予算の大幅増額と、その財源確保のために、特別復興所得税の20年延長案を検討している。もう、隠すこともしないのだ。「復興」名目で集められた税金は、アメリカ製のトマホークに支払われることになる。

「復興」政策は、投資詐欺やペーパー商法に似た、欺瞞の政策である。

 

私は2011年5月の時点で「復興政策に反対しよう」と提起したのだが、やはりあのときの見立ては正しかった。

もう微熱がつづいてもうろうとしているから、歯に衣着せずに言うが、12年前、2011年の事件直後、野田のバカが言い出した福島「復興」が絵に描いた餅であることは、ものを知っている人間ならみんなわかっていたことだ。あのときに、嘘を承知で「復興」政策に便乗加担した人々は、この「復興」政策の顛末について、きちんと総括を出してほしい。自民党に政権が変わったからおかしくなったのだ? 違う。民主党政権であれ自民党政権であれ、「復興」の美辞麗句が裏切られるだろうことは、最初から予測できていた。

私は最初から「復興政策は不可能だ」「公害隠しの復興政策だ」と繰り返し言ってきたので、私に責任はない。「復興」という名目に誰も逆らえず、内容を批判的に検証することもなくここまできてしまったのは、あの2011年の復興ボランティアバカ騒ぎのせいだ。いつ達成するかわからない遠大な目標を掲げて、福島県民を12年間宙づりの状態にしてしまったのは、あのとき政府の尻馬にのって騒いでいた「がんばろう福島」運動のせいだ。12年後のこの結果を見て、反省しろ。

 

 

 

とはいえ、2023年は、すこし良い年になる。反原発運動が、発展する。

伝え聞くところでは、東京の市民グループは、あらたに公害調停を準備しているらしい。これは、放射性物質の被害ではなく、原子炉から放出された化学物質の曝露被害に焦点を当てて、東京都の公害紛争審査会に調停をもとめるものだ。福島第一原発から放出された化学物質の種類と量については、すでにJAEAがまとめた報告資料があり、それをもとに議論を進めていく。私たちが放射性プルームと呼んだものは、同時に、化学物質プルームでもあった。原発事故後に大量の鼻血が出たり、皮膚に異常が出たり、異常な倦怠感をおぼえたという報告はたくさんあるのだが、これらは化学物質に起因したものなのかもしれない。そうした新しい議論が、公害調停の場で提起される予定だ。

関係者曰く、「2023年は、これまでにない新しい景色をみることになる」。楽しみだ。

 

名古屋では、原発事故人権侵害訴訟・愛知岐阜(だまっちゃおれん訴訟)が、ひきつづき裁判運動を展開する。コロナ感染の波をにらみながら、3月の集会を準備している。https://damatchaoren.wordpress.com/

正月の間に風邪をなおさねば。

 

 

 

 

2022年12月6日火曜日

つれづれなるままにホラー映画

 

最近、近所のレンタルビデオ店の閉店を怖れて、積極的にビデオを借りている。あれこれ忙しいのに、毎日のように映画を観ている。

 

 

日本・韓国・アメリカのホラー映画を観ていてわかるのは、やはり日本のホラー映画は優れているということだ。アメリカや韓国のホラー映画にも、充分に怖いものはあるのだが、物語の構造が平板で、たんに怖いだけだ。深みのない、お化け屋敷映画である。

アメリカや韓国の怪異譚は、キリスト教の影響を受けてしまっているために、さまざまな謎や怪異を悪魔に還元してしまう。結局最後のオチは、悪魔なのだ。悪魔ってなんだよ金返せ、と思う。

 これに対して日本の怪異譚は、キリスト教の影響を受けていないために、悪魔という概念がない。怪異の源泉になるのは、怨霊か、精霊である。彼らは悪魔ではない。善でも悪でもない他者である。

 

 怨霊を描いた作品は、数えきれないほどある。日本の怪異譚の多くは怨霊譚である。日本ホラー映画の古典となった『リング』(1998)も、怨霊譚である。

人間の怨霊は、古くは菅原道真や平将門の時代から語られてきたのだが、怪異史的に画期となったのは、近世に登場した『四谷怪談』や『皿屋敷』だという。近世期になって怨霊譚は身分の低い庶民に拡大していった。「お岩さん」や「お菊さん」といった身分の低い女性が、怨霊の主体になるのである。近世以降、あらゆる人々が怨霊になりうると考えられるようになった。土木工事で亡くなった作業員、戦争で死んだ兵卒、交通事故で亡くなった子供も、ホテルで殺された女性も、すべて怨霊になることができる。その力の源泉は悪魔ではないし、必ずしも邪悪というわけでもない。人間であれば誰しも抱くであろう悲しみや復讐心といった感情の現れなのである。

 したがって、日本の怨霊譚は、キリスト教徒のような排他的な解決を目指さない。アメリカ人であれば一方的に悪魔祓いを試みるような場面で、日本人はまったく反対の行動をとる。怨霊の声に耳を傾け、事情を理解するように努め、供養をすることで死者との和解を試みるのである。供養をすれば何事も解決するというわけではないのだが、まずはとりあえず手を合わせて、畏怖と和解の意志を示すのである。

日本の怨霊信仰は、未開的な汎神論と近代的な人間主義とが結合している。このことが、日本のホラー作品を複雑で深みのあるものにしている。

 

 

 とはいえ、手を合わせて供養をすれば何事も解決するわけではない。怨霊は人間的な道理で理解することができるものだが、その範疇には収まらないような他者がある。理解も和解も不可能な他者。精霊である。精霊は悪魔ではないし、邪悪な意志をもっているわけでもない。そもそも意志があるのかどうかもわからない。

 精霊を描いたホラー映画としては、『ノロイ』(2005)や『来る』(2018)といった作品が挙げられる。特におすすめしたいのは、『来る』である。

『来る』の精霊は、山からやってくる。山の精霊が里に下りてきて、人間の命を奪っていく。精霊には呼び名がなく、正体も解明されていない。ただ圧倒的な力をもった他者である。この作品で描かれるのは、精霊そのものではなく、精霊と対峙する人間の弱さと醜さである。

 邪悪な意志が人間を襲うというのではないし、悪い行いをしている人間だから精霊に狙われたというのでもない。精霊の標的となった人々は、善人でもなければ、特に悪人でもない。みな利己的で、見栄っ張りで、嘘つきだが、それはどこにでもありそうなレベルのこずるさ、卑しさ、醜さである。それは悪と言えるほどのものではない。ただ、彼らは弱いのである。精霊に狙われた人々は、まるで弱い者が自滅するかのように、死にひきずり込まれていくのである。

 この作品が素晴らしいのは、精霊と人間の対決を、純粋に強度の問題として描いていることである。物語の中で観客は、道徳や善悪といった観念を思いめぐらせるよう仕向けられるのだが、最終的にそれは意味のないこととして、棄却される。結論として導かれるのは、強度の問題。力が強いか弱いか、それだけなのだ。ニーチェが観たらのけぞるだろう素晴らしい脚本だ。

 

 

 怨霊においても精霊においても、日本のホラー映画が優れているのは、人間に関心を向けさせることだ。日本における怪異譚は、聖書でも神話でもなく、人間に向かう。歴史学的か人類学的な関心に導かれて、怪異譚が語られる。アメリカや韓国のホラー映画には、こういう視点はない。日本映画に特有のものだと思う。

日本のホラー映画は、ある面で、啓蒙主義的であると言える。

 


追記

 ここで言いたいのは、一口に「オカルト」と呼ばれるもののなかに、啓蒙的なものと反啓蒙的なものがあるということ、そして、キリスト教の影響を受けた「悪魔」概念はけっして普遍的なものではなく、特殊なものだということである。

 理解不能な他者に対したとき、敵対意識をもって非妥協的に戦うという態度は、自然ではないし、普遍的でもない。日本のオカルト文化では、怨霊や精霊といった他者に対して非妥協的な戦いを挑んだりはしない。他者を徹底して排除しようとする「悪魔」や「邪悪」という概念は、私たちにとって異質なものだ。

 もちろん日本にあっても悪魔と戦っている人々は存在する。だがそれは、ごくごく特殊な、カルト的な集団である。統一協会の事例をみればわかりやすい。悪魔(他者)と戦うという発想が、そもそも、頭がおかしいのだ。

 カルトとカルトでないものを分別するために、悪魔概念は一つの指標になる。他者への非和解的・非妥協的な姿勢は、危険である。統一協会もそうだし、大きくとれば、アメリカのバイデン政権もそうだ。彼らは戦争にむけた挑発・動員はできるが、講和をもたらすことはできない。