2017年3月25日土曜日

財務省、ひどいね

 森友学園の怪しい土地取引をめぐって、国会がにぎやかである。国会の質疑や証人喚問を見ていると、どんなお笑い番組よりも楽しい。前回選挙で議席を増やした共産党が、質問時間を長くとれていて、とてもよいと思う。


 森友学園問題は、かつて繰り返されてきた汚職議員の疑惑とは、少し違っている。この事件は、たんに政治家の汚職という範疇に収まらない、もっと大きな不正の構造に到達するかもしれない可能性をもっている。
 現在の野党による追究は、形式的には、政治家がどのように財務省に働きかけたか、という視点でおこなわれている。ここでは、事件の主犯は政治家であるという想定で、真相究明が求められている。
だが、質疑が進むにつれて、政治家が主犯で官僚が従犯という想定は、しだいに崩れつつある。私たちの脳裏に浮かんでくるのは、この事件の主犯は財務省官僚なのではないか、という疑念である。これから明るみになっていくだろうことは、たんに自民党議員だとか日本維新の首長だとかの汚職ではなくて、財務省の行政官が何を企て実行してきたかということだ。

 脳裏に浮かぶのは、行政官たちが政治家の意思を待たずに独断で動いている姿である。選挙で選ばれた議員たちの内閣は、たんに行政官が与える「飴」と「鞭」で操縦されているだけなのかもしれない。そうした構図が私たちの脳裏に浮かぶのは、2011年以降の権力の様態を見ているからだ。

 2011年「原子力緊急事態宣言」の発令は、一種の戒厳令状態を生み出している。公衆の放射線防護対策の指針は、被曝防護から被曝受忍へと180度転換したのだが、この重大な政策転換は、立法府の議論を待たず行政府だけで強行された。食品と物品のクリアランス基準は、法ではなく省令によって強行された。議員立法である「チェルノブイリ法」は、全会一致で可決されたが、行政府が運用を拒否し、たなざらしにされている。2011年以降、行政府と立法府のバランスは完全に崩れた。行政権力の専制的性格が露出しているのである。

 「原子力緊急事態宣言」以後、秘密保護法案、安保法制、共謀罪といった法案が次々と強行成立されている。そうした流れのなかで、森友学園問題はたんに与党と野党の党派闘争ではなく、行政権力そのものに焦点をあて、告発する、新たな論争を生み出すものになるだろう。自民党のうしろにいる行政官に注視しよう。


2017年3月18日土曜日

「一遍上人伝」いただきました



栗原康くんから献本をいただきました。ありがとう。


 

死してなお踊れ 一遍上人伝
栗原康 著
河出書房新社  



 いつものことですが、内容について言及はしません。
それよりも、海賊史研究の菰田真介くんと一緒に愛媛県を遊び歩いていたそうで、うらやましい。とても良いことだと思います。旅をしながら考えることは、楽しいし、思わぬ成果があります。




 さて、この本については措くとして、今回はすこし耳の痛い話をします。小言です。


 君ももう充分に本を書いて名をあげたから言いますが、そろそろ東京から撤退してはどうでしょうか。きっとその方がよいと思います。

 問題は、関東の放射能汚染ですが、これはいちいち論じるまでもないことです。爆発事故の直後、埼玉県羽生市と群馬県太田市の児童公園を、何日もかけて一緒に計測してまわったのですから、汚染問題についてはあらためて言うまでもないでしょう。
 私が東京から撤退するべきだと言うのは、もうひとつ別の理由があります。
現在の出版界から距離をとることです。出版界と密接になりすぎてはいけない。それは、書くことを控えるためではなくて、5年後にも10年後にもしっかりと書けるように準備を進めるためです。
 編集者というのは短期的な作業をしている人たちですから、5年後や10年後の見通しを持っているわけではありません。今年なにがあたるかを考える人たちです。そういう人たちと付き合いながらシーンに身を置くことは、良いことです。それはそれでよい。しかし書き手として考えておかなければならないのは、それであと何年もつのか、です。
 いまの人文シーンは、はっきり言って老化しています。読者の中心は、老眼鏡をかけたおじいさんとおばあさんです。この人たちが棺桶に入るころ、シーンは変わる。大きく変わる。そのときに、新しい読者にむけて、何を書くことができるのかです。これはこれできちんと準備しておかなければならない。新しい趨勢のなかに身を置いて、新しい空気を吸って、新たな焦点となるものを準備することです。


 もうながなが言わなくても、わかっていると思います。
 アナーキーの思想は、旧いものでありながら、つねに新しい。慎重さばかりでなく、豪胆さが要求される思想です。


2017年3月13日月曜日

2017年3月の覚え書き

最近、加齢のせいなのか、物忘れが多い。人の名前を忘れてしまう。
なので、忘れてしまったときに読み返せるように、メモをしてのこしておこうと思う。


樋口大二 朝日新聞

和久井孝昭 (全日本自治団体労働組合専従)

大内悟史 99年朝日新聞入社

小波秀雄 京都女子大学名誉教授

岩上欣也

阿久沢悦子 朝日新聞大阪

高橋正行 電力中央研究所


2017年3月11日土曜日

6年目の春に



 東京電力事件から6年がたつ。
 6年たってもまだ、気持ちの整理がつかない。あの日から何があってどうしたのかを、明解な仕方で書くことができない。
 これは自分自身の問題でもあるし、自分をとりまく環境の問題でもある。



 私はあの日、殺されかけたのだと思っている。

こう書くと、なにかの比喩的な表現か、そうでなければ狂言じみた話のように受けとられてしまう。私が生命の危険を感じたということを語って、それを文字通りに信じる人間は、ほとんどいない。
信じる人間がいないから、私は話すこと自体に消極的になる。
放射能汚染の脅威についてどれだけ言葉を尽くして説明しても、どうせ理解されることはないのだ、と。


 これは、犯罪被害者が一般的に経験する問題なのかもしれない。犯罪被害者は、周囲の人々の無理解と無関心にさらされ、孤立を経験する。
 警察はさまざまな犯罪を取り扱い、日本社会に多くの犯罪があることを知っているが、個別の事件については消極的になりがちである。警察が被害者の訴えを狂言扱いして門前払いすることは、しばしばある。
 たとえば、ストーカーの被害者が生命の危険を訴えて被害届を出したとして、警察は積極的には動かない。警察が被害届をつきかえしたケースもある。殴られたり刺されたりしてから来い、という対応だ。面倒なものには蓋をしたいということだろう。
警察が犯罪にたいして無知で、想像力がない、ということではない。むしろその反対だ。警察は犯罪を具体的に知っているからこそ、ストーカーの規制がどれほど面倒なものかを想像し、蓋をしてしまうわけだ。
 そうして犯罪被害者は、犯罪を最も熟知している警察によって、孤立させられることになる。問題は無知ではない。無理解、無関心は、無知とイコールではない。


 放射能汚染を逃れた移住者たちは、人々の無理解にさらされる。
 この無理解は、無知に起因しているものではない。
 私が放射能汚染によって殺されかけた、と言うとき、その言葉の意味をまったく理解できない人間は、本当はいないはずだ。日本で生まれ育ったならば、誰もが広島・長崎の原爆被害を知っている。40歳以上の大人なら、チェルノブイリの事件をよく知っている。茨城県のJCOの臨界事故も記憶に新しい。足尾鉱毒事件や水俣病といった公害事件は、学校の授業で教えられる。政府と公害企業が公害隠しに全力をつくすことは、教科書に書かれている歴史的事実である。
 東北関東からの移住者たちへの無理解というものは、人々の無知の問題として片づけられてしまいがちだが、実際にはそうではない。人々は放射線被曝の脅威を知らないから問題に消極的になっているのではない。むしろその反対だ。人々はそれがどれほど面倒な問題であるかを知っているから、蓋をして、見なかったことにしてしまうのだ。

 彼らに欠けているのは知識ではなく、勇気である。
 これから移住者が人々に示していかなければならないのは、問題に立ち向かう勇気だ。












おまけ

Hey we gotta move...
Hey we gotta move...

これいいね。
こんな感じ。

2017年2月27日月曜日

塚本幼稚園のために涙を流すことはないのだが


 大阪の森友学園・塚本幼稚園が話題だ。

 昨年の今頃は、「保育園に落ちたの私だ。日本死ね。」というブログ記事の話題が日本中を席巻していたのだが、今年は保育園ではなく幼稚園の問題である。昨年・今年と連続して、再生産領域をめぐる議論が繰り広げられている。

 で、問題の塚本幼稚園なのだが、ほとんどギャグというか、2ちゃん的には「釣りだろこれ」というシロモノだ。事実は小説よりなんとかだ。
 この幼稚園について反応するポイントはおそらく二つあって、
① 教育内容が極端な国粋主義であること
② 教育手法が児童虐待事案であること
である。

 政治的な論点としては①の教育内容が「うわあ」ポイントなのだが、実際に大多数の人が感じている「うわあ」ポイントは、②である。②が、すごすぎて、①を圧倒している。
 まだおむつのとれていない子供が失禁した際に、その糞便をそのままかばんに突っ込んで持ち帰らせている件、とか、まだ漢字も読めない幼児に意味不明な長文を唱和させている件、とか。あの子供たちの唱和の映像を見たら、まるで腹話術の人形である。子供を人形のように喋らせることが、「教育」として堂々と行われている。これはかなり「うわあ」である。

 現代の子育て世代の一般的な感覚で言えば、この園長と副園長は「毒親」と呼ばれるものだ。「毒親」とは、子供の人格と尊厳を認めず、自分の意のままに操ろうとして、けっきょく子供をつぶしてしまう親である。親子関係を小さなカルト空間に仕立て上げてしまうサイコパスである。育児に関わらせてはいけない「壊れている」親だ。そういう毒性をもった人間が、自分の子供を支配しようとするだけでなく他人の子供を預かって幼稚園の経営をしてしまっているという事実が、「うわあ」である。

 おそらく塚本幼稚園と私たちとでは、育児をめぐる実践感覚が根本的に違っている。子供の人格権を認めるところから出発するのか、それとも、子供の人格権を認めないまま「しつけ」をするか。「しつけ」と言えばそれらしく聞こえるが、本質的にはサルの調教である。塚本幼稚園にとって子供とは、制裁を加えながら調教されるべきサルである。
 これは、教育手法をめぐる理念とか思想とかいう高度な問題ではなくて、もっとそれ以前の、実践感覚としてズレているという問題である。彼らは人間とサルとの違いを、感覚として体得していない。幼稚園とサル軍団は違うのだということを、感覚としてわからない。われわれがサルではなく人間であるということ、その喜びを、感じることがない。彼らにとって生とは、たんなる痛みだ。彼は痛みから逃れることに人生のすべてを費やす。痛みから逃れることだけを考えるから、言動に一貫性がうまれず、すべてがその場しのぎのものになってしまう。
 2ちゃんねるの既婚女性板ではこういう種類の人間を「ポンコツ」と表現する。この園長と副園長はまさにポンコツである。ポンコツだから、新宗教や愛国心や政治権力に救いをもとめたのかもしれない。しかし、どんなすばらしい教えを信仰したところで、ポンコツは治らない。権威や権力で身を飾っても、ポンコツはポンコツだ。生の文明化の圧力をまえにして、無慈悲に淘汰されていくだろう。

 私たちが「うわあ」と感じ、私たちが育てる子供たちが「うわあ」と感じることによって、彼らは淘汰されていく。
 おそらく10年後には存在しない人々だ。
 再生産は、どんな暴力にもまして無慈悲だと思う。
 直視することがためらわれる、残酷な現実である。





追記
 放射能汚染後の日本では、再生産領域の問題が焦点化することが増えたように思う。人口流出による地方消滅問題、保育園待機児童問題、今回のイカれた幼稚園問題などがそうだし、安保法制に反対する運動もその主力となったのは若い母親たちだった。こうした傾向の直接の引き金となったのは、言うまでもなく放射能公害事件である。2011年以降、若い主婦たちが政治化する趨勢が顕著にあらわれている。彼女たちはたんに放射能汚染に抵抗するだけでなく、社会のさまざまな制度を再審にかける動きに出ている。私はこうした一連の出来事を総称して、「風評被害」革命、と呼んでみたい。
 「風評被害」革命は、政治革命ではなく、もっと広大な領域にひろがる文化の革命である。「風評被害」革命は、無血であるが、無慈悲である。「風評被害」革命は、無言の不服従によって、社会の血流を止め、壊死させる。「風評被害」は、力学的な働きによって制圧するのではなく、体温を奪うことで衰弱させる。この革命は、対象を破壊するのではなく、虚ろにする。
 「風評被害」革命は、どのようなしかたで作用していくのか。着目するべきは、どんな政策がとられているかということよりも、その政策が活力を持って実行されているか否かである。どんな法がありどんな機構があるか、ではなく、それらがいきいきとした実効性をもってあるか、ということである。法を解釈し運用する人間が、熱をもって動いているかどうか。究極的には、人間が、どれだけいきいきと働いているか、あるいは、虚ろな状態におかれているか、である。
 人間がいきいきとしているかしていないかという視点は、漠然としているが、決定的に重要である。これは再生産労働の効果が如実に表れる領域である。
 「風評被害」革命はまず、「復興」政策に加担する国民運動を包囲し、その血流を止め、この国策に関わるボランティア活動をどこか後ろ暗い虚ろなものへと変えていった。国が進める観光都市政策は、西日本と東日本とで明暗を分ける結果になっている。学校運営は、給食問題を引き金にして、保護者の非協力的な態度にさらされている。「風評被害」革命の進行によって、東日本の汚染地域では、なにもかもがうまくいかない、虚ろな状態に陥ることになる。私たちはこれから、人間がいきいきとしていないという状態が、どれほど過酷なものであるかを、見ることになる。


2017年2月16日木曜日

大画面テレビ



今夜は母の家で留守番をしている。岐阜県の温泉に一泊旅行に出かけているあいだ犬と猫の世話をしてほしい、ということで、今夜は実家警備員。45才。

 しっかし、いまどきのテレビというのは、でかいな。大画面がすぎる。何型というのか何インチというのかわからないが、人間のバストショットが、実在の人間と同じぐらいのサイズになっている。やりすぎだろう。最初はレンタルビデオを見ながら「大画面だとなかなか迫力があるなあ」と思ったりもしたが、映画を一本見終わったあたりで飽きる。これは、逆に、うっとうしい。
 現代の高齢者というのは、こういうテレビを普通に見ているのだろうか。地上波デジタルの強制買い替えで、こういう環境が一般的になってしまったのだろうか。仮に、この画面が50平米ぐらいのリビングルームに置かれているのなら、まだ目の逃がし場所もある。しかし、20平米そこそこのこじんまりしたお茶の間に、こんな大画面置いたらダメだよ。ほとんど圧迫面接です。
 想像するに、昼間のテレビ番組というのはけっこう下品であるから、この画面がおかれた空間には、関西弁で右翼的主張をする下品なアナウンサーが人間と同じスケールで侵入してくるわけだ。目の前に現れた人間サイズの首が、ひっきりなしにまくしたててくるわけだ。これはひどい環境だ。メディア社会学のスティグレールなら、いやスティグレールを持ち出すまでもなく、知覚環境が汚染されている。こんな状態に日常的にさらされていたら、感覚がおかしくなってしまう。現代の高齢者の知覚環境は、地上派デジタル強制を境に、ずいぶんとひどい汚染状態に陥っているのではないか。

 私が小さいころ、昭和の終わりごろは、テレビはもっと小さかった。子供はテレビ画面ににじりより、「もっとテレビから離れて見なさい」とどやされるぐらいに、画面は小さく、画面の中の人は小さかった。そこでは、生きている現実の人間と、画面の中で喋っている人間とが、はっきりと区別されていた。画面のサイズの小ささと解像度の低さが、近さと遠さをつくり、現実と放送との遠近感をつくっていたわけだ。
 それに対して、現在の大画面高解像度のテレビは、遠近感を失う。まるで親しい友人を家に招待したのと同じサイズで、宮根誠司や辛坊治郎がお茶の間にずかずか上がり込んできているのだ。毎日。これはやばい。

 人間サイズの首に毎日まくしたてられ、現実と虚構の区別を失った高齢者たちは、十中八九、ネトウヨになる。テレビに教育されたネトウヨは、「北朝鮮の脅威」を現実的なものと感じ、放射線被曝は非現実的なものと感じるのだ。
 大問題だ。



2017年2月9日木曜日

アレバ社に死亡フラグ?

 フランス北西部のフラマンビル原子力発電所で、爆発事故。
運転中だった原子炉1号機は停止されたとあるが、これはまだ第一報なので。
ちゃんと冷却できたらいいなあ。

ところでフランスといえば、原子力企業アレバ社は、新型原子炉の建設が暗礁に乗り上げて、経営が傾きかけている。日本の原子力企業三菱が資金を出して支える予定だが、これはもう、無理だね。
完全に死亡フラグがたっている。

アレバ、ざまあみろ。
アレバから金をもらってきた「エートス」的な団体も、遠からず店じまいだね。