2017年11月10日金曜日

書くためのデザイン


 名古屋市の大須という街で作文教室を開くために、準備をしている。
 年内の開校をめざして、いまは教室の内装をつくっている。
“矢部史郎+山の手緑”で文章を書くときは、山の手緑が監修し私が書いているのだが、デザインの作業では役割が交替する。私が監修し、山の手緑が具体的な製作をしている。



 書くための空間デザインは、私の経験に基づいて、床や巾木からつくりなおしている。契約した部屋は一般的なオフィス用で、作文のためにつくられた空間ではないからだ。そもそも作文のためにつくられたアトリエというものは、日本にはほとんど存在しない。大学にもない。現在の大学の教室設計は、残念ながらアトリエとは正反対のものだ。あんな留置場のような配色をした抑圧的な空間では、学生たちが苦労するのも無理もない。

 私が取り組まなければならないのは、人がどんな環境で考え文章を書くのかということを、具体的に示していくことだ。
 まずは教室の立地に、大須という街を選んだ。私が実際に散歩をして、ここならいけると思ったからだ。
作文を書くためには、散歩ができる環境でなければならない。作文という作業には、“書いている時間”と“書けないでいる時間”があって、大切なのは“書けないでいる時間”をどうやって過ごすかである。書けないでいる時間は、外に出て散歩をしなくてはならない。散歩をする街は、殺風景ではいけない。複数の欲望の線が交錯するダイアグラムがなくてはならない。今回借りた教室は“赤門”という交差点にあるのだが、ここからは大須、矢場町、上前津、東別院、あるいは新堀川を超えて鶴舞へと、徒歩圏内に複数の風景を見ることができる。書けないでいる苦しい時間に、たっぷりと散歩をすることができる。

 教室の床は、もともと敷かれていたネズミ色のカーペットをすべて剥がした。かわりに、ブラウン・ベージュ・モスグリーンの三色でタイル模様にした。
 机は、一人に一台ダイニングテーブルを用意した。天板は1m×1.5mなので、充分な広さだと思う。テーブルの高さは65cmにするか70cmにするか迷ったが、足を組んでもぶつからないように70cmにした。机と椅子は、アール・デコから派生した50年代アメリカの様式。これだけだとあっさりしすぎているので、ハンガースタンドやパーテーションなどの調度品を使って、アール・デコに寄せる。目指すのは、コーヒーを飲みながらぼんやりとすごすことのできる空間だ。
 作文という作業には、“書いている時間”と“書けないでいる時間”があって、大切なのは“書けないでいる時間”をどうやって過ごすかである。ここで絶対に避けなければならないのは、自己嫌悪や無力感に支配されて、書くことを放棄してしまうことだ。自己嫌悪の感情に負けないために、自己愛を供給しなくてはならない。“書いている時間”だけでなく“書けないでいる時間”も含めて、“私は大切な時間を過ごしている”と感じられるようにしなくてはならない。そうした自己愛を備給するための空間、椅子、あるいは、コーヒーやタバコといった嗜好品が必要になってくる。
 
 書くための空間デザインは、いわゆる「デザイナー」にはできない作業である。「デザイナー」は、デザイン作業やデザインの歴史は知っていても、書くということがどういうことかを知っているわけではないからだ。
 いや、この際ついでに言うことにするが、一般的に言って、「デザイナー」の無知というのは甚だしいものがある。怒りをおぼえることもしばしばである。
 「デザイナー」の無知の代表的な例としては、「子供用学習机」のデザインがある。ひどいものである。硬い椅子、狭い天板、視界をさえぎる配置、まるで拷問器具のようなデザインだ。デザイナーが児童教育に無知であるために、子供たちは「子供用学習机」に向かうたびにストレスを感じ続けるのである。あんな机で勉強をしろというのは、客観的に見て無理な要求である。結局、子供たちは「子供用学習机」を嫌って、キッチンのダイニングテーブルで宿題をやることになる。そうなると「子供用学習机」とはなんなのか。子供にも学習にも寄与しない、机ですらない、たんなる粗大ゴミである。
「デザイナー」たちの教育にたいする無知・無関心は、児童教育だけでなく大学教育にまで及んでいる。大学の空間デザインは、これまたひどいものだ。再開発されるたびにひどくなる。大学で過ごす人々が何をするために集まっているのか、彼らがどんな時間を過ごし、彼らからどんな力を引き出さなければならないのか、そのことに少しでも想像力を働かせれば、あんなひどいデザインにはならないはずだ。2000年代以降、大学や大学生は、“素敵なもの”ではなく“ダサいもの”になってしまった。その大きな要因には、大学建築の失敗がある。


 まあそれはさておき。
 いま私たちが設計している作文アトリエは、もちろん研究生のためにつくられるものだが、私自身のためでもある。私が何かを書くときに、もっと快適に書きたいと思うからだ。書くために深夜のデニーズに通うのも悪くはないが、どうせ教室をつくるのなら、私にとっても快適に過ごせるような空間にしたい。
 


2017年10月15日日曜日

多発する骨折症状について



 自分でも気が付かないうちに骨折していた、という症状が報告されています。
この種の骨折、放射性物質による人体汚染との関連が疑われています。
なぜ放射性物質によって骨折が多発するのかは充分にわかっていませんが、二つの説があります。

1、放射性ストロンチウム原因説
 体内に取り込まれた放射性ストロンチウム(Sr89,Sr90)が骨に混入し、弱くしている、という説。
放射性ストロンチウムは、食品のカルシウム成分に混入するので、牛乳、小魚、大豆製品を通して体内に吸収されます。体内に吸収された放射性ストロンチウムは、骨になったところで崩壊し、放射性イットリウムというまったく別の物質になります。放射性イットリウムはさらに崩壊し、ジルコニウムという物質になります。カルシウムに混入した放射性ストロンチウムは、骨の中で、放射性ストロンチウム → 放射性イットリウム → ジルコニウムと変化していくのです。もちろんこの崩壊過程でベータ線を撃ちだしていくので、周辺組織にダメージを与えていきます。このことが骨をもろくしているという説です。

2、放射性セシウム原因説
 放射性セシウム(Cs134,Cs137)を体内に取り込むと、脳機能が低下します。脳機能=運動機能が低下することで、体に余計な負荷をかけているという説です。
足の運び方、着地のタイミング、腕の振り方、受け身など、人体を衝撃からまもるための微妙な制御ができなくなると、体に大きな負荷がかかります。脳機能が低下することによって、無意識に避けられていたはずの衝撃を避けられなくなっている、という説です。


 私がより深刻だとおもうのは、2の運動機能低下です。
着地や受け身がうまくできないという状態は、肉体労働者にとっては致命的です。骨折で済めばまだよいけれども、打ちどころを悪くすると大事故になります。
土木や建築の現場では、小さな踏み外しこそが恐ろしい。高さ2メートル未満の脚立から落ちたというような「小さな事故」が、重い障害をのこすことになるからです。



2017年10月11日水曜日

近況報告


 いま、名古屋で新しい試みを準備しています。
 バーではありません。むかし新宿でバーを経営したことは楽しかったし、いまでは良い思い出です。しかし私も初老を過ぎて、体を切る手術もして、いまの体力で酒場をまわしていくのは難しいかなと感じています。
 これから私がやろうとしているのは、作文教室です。
名古屋市の大須に教室をかまえる準備をしています。児童向けの教室ではなく、18才以上を対象にした作文教室です。かっこよく言えば、後進の育成にあたるということです。


 なぜ作文という方法をとるのか。理由は二つあります。

 第一に、情報化社会の発達によって、人々が作文をする機会が広く生まれていて、多くの人が作文力を必要としているということがあります。

 私が文章を書き始めたのは90年代の初め、当時は自主製作のミニコミ、現代風に言えばジンが、流行した時期です。自主製作で雑誌を発行することが、おもしろくて、かっこよかった時代です。そんな小さな雑誌の余白を埋めるために、コラムを書いたり書評を書いたりすることから、私の物書き人生は始まりました。90年代のなかばから、徐々にインターネットが普及していきます。誰でも自分のホームページを作成して、広く公開することができるようになりました。2000年代の反戦運動では、このインターネットによる情報告知が威力を発揮しました。その後、メールマガジンが登場し、はてなブログ、ユーチューブ、ミクシィ、フェイスブック、ツイッター、インスタグラムと、インターネットを基盤にした情報発信が拡大していきます。むかしむかし、ミニコミやFAX通信を利用していた時代からみれば、現代ははるかに作文環境が整っていると言えます。

 情報環境が発達するのと同時に、情報の陳腐化も進行していきます。インターネット通信が普及したことで、誰もが情報を発信することができるようになりました。情報を発信すること自体は、いまでは珍しい話ではないのです。次に問題になってくるのは、無数にある情報の海の中で、自分がどのように差別化・卓越化していくのか、どうやって情報の陳腐化を回避するのか、ということです。このことに、みなさん懸命です。ツイッターをのぞいてみれば、強い煽情的な言葉で議論をしたり、あるいは、挑発的なイタズラ写真を撮ってみたり、危険な場所で“映える写真”を撮影したり、いろいろと工夫しています。急速に発達した情報技術にたいして、いまはまだ内容が追い付いていないのです。
 この四半世紀で人間の習慣は急速に変化していて、それぞれが新しい習慣に対応するために、手探りで方法を模索している状態です。ここで芽生え生長している“一般知性”は、それを支えるための高度な言語能力を要求します。言語能力とは、言い換えれば、概念を概念化する能力、言葉を使って考える能力です。
 こうした私の主張は、一見すると逆説におもわれるかもしれません。現在インターネットの表面で踊っているのは、オーディオ/ビジュアル技術の活用であって、言葉ではないからです。ツイッターでは短い言葉が交わされていますが、インスタグラムでは短い言葉すら書かれず画像だけが交わされているのです。こうした傾向を見れば、インターネットは非言語的、または、脱言語的なコミュニケーションに向かうのだと、結論づけられるかもしれません。しかしそれは、現象の断片を過大に評価したものです。インターネットの歴史はいまだ浅く、われわれ利用者はいまも手探りで模索している最中ですから、その行く末を結論づけるのはまだ早いのです。
 たしかに現在の一部の利用者は、画像を偏愛する傾向があります。それは事実です。しかし、デジタル世代やその次の世代が、画像の交換だけで満足するとはとても思えません。そうした利用法は、ある日あるきっかけから、急速にダサいものになるでしょう。では、オーディオ/ビジュアル表現が陳腐化し、ダサいものになってしまったときに、なにが残るのか。私は作文だと思います。


 さて、作文を教える第二の理由。
 私はかれこれ20年エッセーを書いてきましたが、そろそろ引退に入る時期です。今年でもう46才、若い書き手に場所を譲る年齢です。だから、“矢部史郎+山の手緑”の作文技法を誰かに伝えておきたいと考えました。
 この方法は“秘伝”にしてきたわけではないけれども、誰にも教えてこなかった方法です。もちろん大学では教わらないし、たぶん誰も実践していない特殊な方法です。
私のような学歴のない人間、読書家でも努力家でもない人間が、なぜあれほど抽象度の高い議論とエッセーをものにすることができたのか。自分で考えても不思議なことです。この不思議な経験を、方法化できたらいいな、と。私が山の手緑と共にやってきたこれまでの作業を振り返って、整理して、書くために何が必要なのかを明らかにしていきたい。そう考えています。
 


2017年9月24日日曜日

二重権力戦略における民話と伝説



 名古屋共産研の『8・19集会報告集』が完成し、昨日発送しました。
ウニタ書店(名古屋)、カライモブックス(京都)、模索舎(東京)で販売しますので、よろしくお願いします。

 ところで、8・19集会に参加していただいた蔵田計成氏に電話をしたところ、ちょっと落ちこんでいるようだったので、彼の問いに対する応答として、ひとつ文章を書きます。
  


 まず、昨年来から話題になっている太田昌国氏の講演録『新左翼はなぜ力を亡くしたのか』に関するコメントから始めます。

 私が広い意味での「新左翼」運動に関わりをもったのは、いまから30年前、80年代の末頃です。いまから振り返れば、80年代は市民運動がおおきく高揚した時期でした。
当時課題となっていたのは、中曽根政権による国鉄分割民営化問題、昭和天皇死去に伴う反天皇制運動、寄せ場・日雇い労働者の運動、在日韓国人の指紋押捺拒否闘争、沖縄では日の丸が焼き捨てられ、戦中の従軍慰安婦問題の告発もこの時期に準備されました。そして諸々の運動が勃興していく契機となったのは、86年のチェルノブイリ事件と反原発運動の爆発的拡大でした。チェルノブイリ事件後の反原発運動は、多くの女性たちを動かし、社会運動を活発化させました。彼女たちは議会政治においては、社会党を「土井社会党」へと生成変化させ、そのインパクトが90年代の議会政治再編の動因となりました。
 何を言いたいかというと、ひとくちに「新左翼」と言っても、蔵田氏と私とでは、参照する時期が違っているということです。蔵田氏が考えようとしているのは、50年代末から80年頃までの時期、朝鮮戦争~日米安保条約~ベトナム戦争の時期の新左翼です。私が見てきたのは、86年末から現在までの新左翼です。私が見てきた「新左翼」と、蔵田氏が考えようとしている「新左翼」は、まったく別物ではないけれども、かなり様相が違っているのです。
 そうなると、太田氏が語る『新左翼はなぜ力を亡くしたのか』という問いも、受け止め方が違ってきます。私の年代の人間から見ると、彼の設問自体が、新左翼のある時期に限定した問いであるということになります。

 厳密さは脇において、私見として、おおざっぱな枠組みを言います。
 45年から50年代の左翼は、綱領的にも実体的にも、マルクス=レーニン主義の運動です。経済成長を果たしたのち、60年代からは、グラムシ主義、「構造改革派」が席巻していきます。これは新左翼も共産党も社会党左派も含めて、多くの左翼が、構造改革路線の二重権力戦略へと向かっていきます。大戦後のいわゆる「55年体制」は、共産党の武装解除、革命主義の凍結、「構造改革」諸派の形成をもたらしました。こうした転換のなかで、共産主義者同盟は革命主義を放棄しなかった。共産同は、武装解除ではなく、武装の強化へと向かっていきました。
 しかしここで逆説的なことは、共産同は、革命主義でありながら、結果として二重権力戦略の実現に寄与していくのです。主観的には革命主義であり、客観的には二重権力戦略の担い手であるという、このねじれが、共産同のおもしろさだと思います。いや、おもしろいことばかりではないけれども、あえて肯定的に言えば、このねじれた様態こそが共産同のおもしろさです。
 私がこういうことを言うのは、80年代以降の運動状況をみているからです。市民運動という運動スタイルが、たんに社民主義に従属するのではなく、また、穏健な構造改革派のたんなるフロント組織ではないものとして、存在した。なぜ日本の市民運動は、政治党派のたんなる道具ではないものとして、自律的な暴力性を帯びて存在することができたのか。その運動の文化はどのようにして生まれたのか。私の主要な関心はここです。
 だから、『なぜ新左翼は力を亡くしたのか』という設問にかえて、私が問いを組みなおすとすれば、こうです。
『なぜ新左翼はいまも生き残っているのか』
『新左翼のなにが人々を惹きつけてきたのか』

 
 さて、ここから本題です。
 共産主義者同盟は、綱領的にはマルクス=レーニン主義です。綱領だけをとりだして見れば、新左翼諸派のなかでもとくに古い、「古左翼」の部類です。
しかし日本の新左翼の歴史を考えるときに、共産同の存在を抜きには語れません。共産同は、綱領的には古典的なものをもちながら、実体としては新しいスタイルを構築しました。共産同は、頭の中身は革命主義で首から下はグラムシ主義者、あるいは、頭の中身はレーニン主義で首から下はブランキスト、という、新しい活動家のスタイルを生み出したのです。この実体としての新しさは、もっと評価されてよいのではないかと思います。
 私は理論活動を重視しますが、理論を絶対視することはしません。なぜなら人間は、自分が意図したものとは違うものを生み出してしまうことがあるからです。そして運動は、理論や綱領よりも文化に依存する部分が大きいと考えるからです。
対抗権力、対抗権威、権力と対決する陣形を構築するためには、理論的な作業が不可欠です。しかしたんに理論があるだけでは、人々を動かすことはできません。対抗権力の核となるのは、権力と対決する文化です。
 新左翼の活動家たちを見れば、このことは明白です。彼らの口にのぼるのは、たんに理論的な争点だけではありません。運動の歴史でもありません。活動家が語るのは、歴史に書かれないような断片的で小さな逸話です。固有の地名や固有の日付をもった逸話です。それは人によっては「砂川」であったり、「615日」であったり、また別の人は「佐世保」であったり、「108日」であったり、あるいは「三角公園」であったりする。そうした無数の民話、無数の伝説です。
対抗権力を下支えしているのは、人々が権力と対決するなかで生み出されてきた無数の民話・伝説です。権力と対決する文化を再生産するのは、闘いの民話・伝説です。そしてこの民話と伝説を保持し続けてきたことが、新左翼がいまも生き続けている理由であるとおもいます。議会政党は、この民話の再生産に失敗しました。議会外左翼(新左翼)だけが、闘いの伝説を語ることができて、権力と対決する文化を再生産できているのです。

 『国家に抗する社会』を著した人類学者ピエール・クラストルは、アメリカの未開民族の社会を研究するなかで、長老の役割を描写しています。要約すると、こうです。
 国家をもたない社会において、長老の役割は、伝説を語ることである。ところが若者たちは、長老の話に耳を傾けない。長老は、誰も聞いていないのに伝説を語り続ける。それが長老の任務だからである。
 権力を集中させない健全な社会において、語ることとは、こういうスタイルで行われるのです。長老の語りは、指令や指導として機能するものではありません。話を半分差し引いて、ああまたその話かと聞き流されるべきものです。そしてそうやって聞き流された民話と伝説が、若者たちの生きる指針となるのです。それは指令ではないことによって、人々を衝き動かします。それは戒律ではないことによって、人々に節度を求めるのです。


こういうわけなので、蔵田さん、あまり落ち込まないでください。

私たちのような新左翼の話に耳を傾ける人間なんてほとんど存在しませんが、それでも、私たちは状況に深く関与しているのです。私にはそういう確信があります。

2017年9月5日火曜日

朝鮮人虐殺事件の教訓


集会報告集の編集作業がひと段落したので、ちょっと書きます。



 1923年の関東大震災の直後、内務省の指令によって、関東に暮らす6000人の朝鮮人が虐殺されました。このときの「朝鮮人狩り」は、陸軍を中心に新聞社や民間人を動員した大規模なものになりました。被害は朝鮮人だけでなく、社会主義者や労働組合活動家、日本人の行商人も殺されました。内務省が主導したこの作戦は、大正デモクラシーから昭和ファシズムへの転換点となり、その後の軍国主義体制を決定づけた、重大な国家犯罪です。

 この事件を振り返るとき、人は「デマに惑わされてはいけない」と言うのです。なにか教訓めいた言い方で、「デマに惑わされてはいけない」と。
 これは間違いです。こんな教訓めいた言葉を繰り返しても、それは歴史から学んだことにはならない。


 まず実践的な角度から考えてみましょう。
 政府(当時は内務省)がデマを流布させるとき、それは真実として流布させます。信頼できる機関による信頼できる情報として流布させるのです。その情報が嘘であったとわかるのは、ずっと後になってからのことです。人間狩りに加わった民間人は、デマに踊らされようとしたのではなく、真実に従おうとしたのです。したがって、「デマに惑わされてはいけない」という教訓はまったく意味がないし、かえってデマゴギーにたいする人々の耐性を弱めてしまうことになります。
 この事件から引き出すべき教訓は、「信頼できる機関の情報を鵜呑みにするな」です。デマゴギーは、「信頼できる機関の情報」として流布されるからです。情報が錯綜し、前後不覚になったとき、私たちは「信頼できる機関の情報」を信じてはいけないのです。
 「信頼できる機関」とは、1923年当時であれば内務省、現在では文部科学省です。文部科学省が、年間20ミリシーベルトの被曝線量であれば帰還できるだとか、1キロあたり100ベクレル未満の汚染なら食べても大丈夫だとか、真実らしいことを言い出したら、ぜったいに信じてはいけない。その情報が嘘であることがわかるのは、ずっと後になってからです。


 次に、この事件を振り返って、事後的にどう総括するかについて考えてみましょう。
 デマゴギーは、自然発生的なものではありません。震災は自然災害ですが、デマゴギーは自然発生ではありません。それは、ある機関が意図をもって組織的に取り組んだ計略なのです。だから、歴史を振り返る私たちは、「デマに惑わされてはいけない」というだけでは不充分です。災害の混乱に乗じてデマを流布させた機関と、それを可能にした政体に言及するべきです。陸軍が途方もない権力を掌握していったという意味で、朝鮮人虐殺事件は、226事件以上に重大な事件です。朝鮮人虐殺事件は、陸軍が犯した国家犯罪として書き残さなければならないのです。

 問題が深刻であるのは、この作戦が大量の民間人をまきこみ、軍民の共犯関係を築いたことです。現代風に言えば、「市民参加型行政」の形式で、人間狩りが行われたのです。
だまされて利用された民間人は、自分をだました人間を追及することができません。自分も手を汚しているわけですから。彼は、自分はだまされたのだと言うことはできても、誰にだまされたのかを言うことができない。この共犯関係が生み出すバイアスによって、彼らは「デマに惑わされてはいけない」という、まったく不充分な「教訓」に留まり続けるのです。日本の新聞社がこの念仏を繰り返しているのは、自らが虐殺に加担した事実を批判的に総括することができないからなのです。
 陸軍と共に人間狩りに加わった人間たちは、それ以降、軍のいいなりです。そうして事件が明るみになったあとも、その責任をなにか自然にみたてた「デマ」のせいにしてしまう。問題を正面から直視することができない。
 私がかねてから「市民参加型行政」という手法に反対してきたのは、こういうことがあるからです。行政と民間の協働は、主客を混同させ、事業に対する正当な評価をできなくさせるのです。

 現代で言えば、福島「復興」政策です。
この官民協働の大事業は、おびただしい流血をもたらした後、おそらく誰も責任をとろうとはしないのです。

2017年8月29日火曜日

疎外に親しむこと、疎外から力をひきだすこと



 東京電力による放射能汚染問題は、放射性セシウム・放射性ストロンチウムを基準にして300年は続くものです。プルトニウムを基準にすれば、20万年は続きます。平野部分の回復は、これよりももっと短いものになるかもしれませんが、山林と海洋は長く毒性を保持し続けることになるでしょう。人間は、これまであまり問題にしないできた新しい環境と対峙することになりました。私たちは酸素が希薄な場所では生きられないように、放射線濃度の高い地域では生きられないのです。この汚染を技術的に克服する手段は、現在のところ存在しません。


 人間の棲息環境が大きく変わってしまったという事実に、私たちは驚きました。想像を超える途方もない事態に、面食らったのです。しかし事件から6年も経った現在、そろそろ面食らっている時期も過ぎたのではないかと思います。いつまでも泣き言を言っていても始まらない。日本列島は陸地の三分の一を失い、太平洋を失ったのです。この事実は動かない。いまは慟哭している老人たちも、十年後には死に絶えます。私たちは未来に向かってどのように歩むのかを考えなくてはならないのです。


 これからの思想に必要とされるのは、新たに現れた疎外と対峙しながら、この疎外に親しみ、疎外から力を引き出すことです。ここで私が言うのは思想の内容ではなく、姿勢の問題です。考える際にとるべき構えです。腹を据えて、ハートを強くもつこと。広域放射能汚染というこの巨大な疎外を、むしろ楽しんでみることです。
 原子力時代のアナキズム、原子力時代の共産主義、原子力時代のフェミニズム、原子力時代の革命主義、原子力時代の陣地線論、原子力のテクスト分析、原子力時代の生‐権力、放射能汚染時代のサバルタン、等々、なんでもいいんです。いま私たちは、新しい知性が生みだされるまったく新しい条件に立ったのです。この機会を捉えずに、ただうなだれたり、腕をこまねいていたりするのなら、理論作業なんていらない。ただただ嘆いて神仏を拝んでおればよい。


 もう嘆くのはやめて、次の時代の話をしましょう。
 私は新しい議論の、新しい星図の、一つになりたいのです。

2017年8月22日火曜日

倒錯的なものの力について



 4ヵ月かけて準備してきた共産研8月集会が終わり、事後の作業を進めています。 

 作業の合間に、ファレル・ウィリアムスの『HAPPY』を聴いています。
 この曲、ファンキーなリズムに透きとおったファルセットボイスをのせて、2014年に大ヒットした名曲。
 歌詞の内容は、こうです。


今から言うことはどうかしちゃったと思うかもしれないけど、 
こんないいお天気だから、ちょっと休もうよ。 
宇宙まで行く熱気球になったみたい。 
大空の中では、何も気にしないよ baby  
だってハッピーだから。 
部屋に天井がない感じになったら、手を叩こう。 
だってハッピーだから。 
幸せってのは本当なんだって感じたら、手を叩こう。 
やりたかったのはこれって判ったら、手を叩こう。


 すごい歌詞ですね。
これ、薬物でラリっているように見えるかもしれませんが、ラリっているのではありません。ヤケになって挑発しているようにも見えますが、ただ挑発したいというのでもない。

 まじめに生きようとする人間が、まじめすぎてまじめの向こう側に突き抜けてしまった先に、倒錯的なものの力に触れる。なにが“HAPPY”なのかというと、自分自身が持っているこの倒錯的なものの力を発見したことが、HAPPY。こうなるともう薬物にたよる必要はありません。いつでもどこでも自家発電できてしまうわけですから。
 悲しみと孤独と絶望をくぐった先に、誰もいない道端で、ただひとりで、ニヤニヤと笑みを浮かべる人間が生まれるのです。フェリックス・ガタリが「狂気になること」と言ったのは、もしかしたらこういうことなのかもしれません。



『HAPPY』ファレル・ウィリアムス