2022年8月7日日曜日

原子力政策の動機をめぐる三つの説明


 日本政府は核兵器の被害国であり、また、福島第一原発の事故被害も経験したのだが、現在もなお原子力事業を推進している。

なぜなのか。

日本政府が原子力に執着する理由について、三つの説明が考えられる。

 

第一の説明は、日本権力が核武装を目指しているという説だ。日本に原子力事業を持ち込んだ中曽根康弘は、日本帝国の復活を目指すタカ派議員であった。中曽根らは、日本を核武装国家とする野心をもって、日本に原子力技術を移植し、その意志は現在も継続している、という説明だ。

 

第二の説明は、アメリカの核武装戦略が、核の商用利用(デュアルユース)を必要としていて、日本の買弁権力はそれを実現するための経済的基盤を差し出したのだ、という説。

核武装戦略は核独占を目指さなくてはならないのだが、それは非常に金がかかるものだった。アメリカは世界のウラン鉱山とそこから精製される核物質を、もれなく管理・統制しなくてはならない。そこでアメリカ政府は、諸国家を巻き込んでIAEAを設立し、同時に「原子力の平和利用」という政策を打ち出した。IAEAの管理下で核の商用利用を推し進めることで、核武装・核独占にかかる費用を、他国の電力会社に負担させたのだ。私たちの支払った電気料金は、まわりまわってアメリカの核武装戦略を支えているわけだ。アメリカが核兵器を放棄しないかぎり、世界のどこかで原発がつくられ続けることになる。

 

第一の説明は、日本権力の自立性に着目し、第二の説明は、日本権力の従属性に着目する。1960年代の議論に照らしてみれば、第一の説は「日帝自立論」に近く、第二の説は「米帝従属論」に近い。これは、どちらが真でどちらが偽かということではない。日本権力がもつ二つの性格を、それぞれ異なる角度から指摘しているということだ。

 ただしここで興味深いのは、かつて「日帝自立論」に冷ややかであった日本共産党が、原子力問題では第一の説を受け入れているということだ。いや、きちんと言い直すと、日本共産党は第二の説明をとることに消極的になっていて、第一の説のみを強調するという、ねじれた状態がある。それはおそらく、「原子力の平和利用」という詐欺的な論理を素朴に無批判に信じた世代が、現在も党内で発言力をもっているということだろう。いつかはこれを修正しなければならないだろうが、私は共産党員ではないので、横から口を挟むことではない。

 

 

第三の説明は、米・日の国家意志からの説明を離れて、資本主義的生産の無秩序な性格から問題を説明するものだ。

 現在、日本の電力会社は、大量の使用済み核燃料を抱えている。これは帳簿上は資産として計上されている。なぜなら将来「核燃料サイクル事業」が実現した暁には、使用済み燃料はあらたな核燃料に生まれ変わることになっているからだ。

 だが実際には、「核燃料サイクル事業」は実現する見込みのない計画だ。使用済み燃料は資産ではなく、おそろしく金のかかるゴミだ。使用済み燃料がゴミであるという事実を認めるならば、これは資産ではなく、マイナス資産として計上しなければならない。現在、沖縄電力を除くすべての電力会社は、マイナスであるものをプラスに書き換える会計偽装によって、首の皮一枚でつながった状態なのである。科学技術庁のほら話にのって使用済み燃料を大量に抱えこんでしまったことで、電力会社は退くに退けない状態に陥ったわけだ。

 

 資本主義的生産様式は、短期的で近視眼的な動機に依拠していて、長期的な計画には対応できない。原子力産業は、放射性廃棄物の処理という超長期的な課題を忘れようとして、「核燃料サイクル事業」という絵空事をでっちあげ、問題を先延ばしにしてきたのだが、もうそんな話は通用しない。古典派・新古典派の経済学者が言う「神の見えざる手」なるものがあるとするならば、ここまで貯めこまれた放射性廃棄物のコストとリスクは、どのような経済合理性によって解消されるというのだろうか。彼らには無理だ。電力会社の暴走を止めるためには、会計偽装に依拠したニセの信用経済を強制的に終了させなければならない。

 

 

気が付けば、「原子力の平和利用」とそれが生み出したゴミは、核兵器よりも危険な、人類全体の脅威になってしまっている。

この課題に対応するためには、電力会社は私企業であってはならない。電力会社が国営化されてはじめて、現実的な議論のスタート地点に立つことができるだろう。

 

 

 

2022年7月27日水曜日

勝共連合とNATO

  集会の準備作業で忙しいので、一言だけ。


 勝共連合とNATO、どちらも東西冷戦時代の残滓が延命して発酵したような状態なのだが、今後どうなるのか。

2022年は後から振り返ってみれば、歴史的な年になるのかもしれない。



2022年7月17日日曜日

山上徹也と岸田文雄

 


 

 山上徹也氏が安倍晋三を殺害してから一週間がたつ。

 当時の警備担当者は、警護の失敗を振り返るなかで、山上氏が発声をしなかったと述べている。警備担当者は、襲撃者は必ず怒声を上げてやってくるという想定で訓練していたのだという。「安倍!」「死ね!」または、「天誅!」といった怒声があり、その次に発砲か体当たりをしてくるだろう、という想定だ。しかし、山上氏は無言で接近し、無言のまま発砲した。これには完全に虚を突かれた、というのだ。

 山上氏の行動には無駄がなく、無駄な表現がない。どこにでもいそうな目立たない服装で、その動きには殺気がなく、警備担当者がまったく関心を向けなかったというのも無理もない。山上氏の行動は、政治というよりも業務に近く、テロではなくソリューションである。彼はまったく無駄のないやり方で、課題を解決したということだ。

 

 山上氏の行動スタイルは、安倍晋三のやり方とは対照的だ。

安倍晋三はやたらと声がでかく、挑発的な言辞を繰り返し、芝居がかったパフォーマンスを好んでいた。それは内容があってそうなったのではなく、安倍晋三が権力をそのようなものとして理解していたということだ。大声で号令をかける演説屋。それこそが権力であると安倍は理解し、演説屋として振舞ったのである。振り返ってみれば、ずいぶん古風な権力観ではある。

山上徹也氏は、安倍よりもはるかに現代的なやり方で、安倍を処理した。彼は無言で銃を作成し、無言のまま近づき、発砲した。見事である。山上氏に対する人々の称賛の多くは、この現代的な行動スタイルと問題解決能力の高さに向けられている。目立たずけれんみは無いが、着実に問題を処理する人間。彼が作戦を成功させたことで、声のでかい政治家は陳腐なものとなった。維新の会のような口数の多い政治家は、その言葉の無内容ではなく、表現の過剰によって、前時代的な政治家とみなされるようになるだろう。

 

こうした点からみて、岸田文雄はおそろしい。

彼の政治には、表現が欠けている。号令をしないまま、無言で権力を行使する。

岸田文雄は、山上徹也氏に似て、現代的だ。

 

 

 

2022年7月15日金曜日

連合・芳野会長は大丈夫か

  山上徹也氏が安倍晋三を殺害したことで、カルト教団・家庭連合(統一教会)の悪事が再検証されている。

 わかってきたのは、日本の反共主義思想・運動のうちのいくらかは、カルト教団によるマインドコントロールの成果であるということだ。生活の不安や恐怖心を抱く人々が、地獄やら因縁やらという強迫によって従属させられ、自ら思考することは悪、共産主義者は悪魔だと教えられてきた。被害者の多くは困難な境遇にある女性だ。恐怖心によって操作される人々が、右翼政治家の資源にされてきたというのが、反共主義の実相である。

 日本最大の労働組合組織「連合」の芳野会長は、強烈な反共主義で知られているが、彼女が統一教会やそれに類するカルト団体のマインドコントロールにあっていないか、点検されるべきだと思う。旧「同盟」や民社協会は、カルト汚染から自由になっているのか。反共主義者は、自らの意思で行動しているのかどうか疑わしいのだ。

2022年7月11日月曜日

ユニーク列島のユニークな「暗殺」

 

安倍晋三が殺害された経緯が徐々に明らかになってきた。

単独犯なのか組織的犯行なのかはまだ断定できないが、カルト教団・家庭連合をめぐる怨恨がらみの犯行だったという。

なんともユニークな、いや率直に言って、みっともない事件だ。安倍は総理経験のある大物政治家でありながら、まるで引退したボクサーや売れなくなった芸能人が不幸にも巻き込まれてしまう類の犯罪にみまわれたのだ。政治家として、完全な不祥事だ。安倍以外に死傷者が出なくて本当によかった。

しかし安倍晋三という人間は、最後までインチキな、やってる感だけの人間だった。この紛らわしい珍事件によって、まわりの政治家は少なからず恥をかかされてしまった。

高市早苗議員は「政治テロだ」と語気を荒げ、小池東京都知事は「民主主義への挑戦だ」と目を潤ませ、アメリカのトランプ前大統領は「彼は暗殺された」と口走ってしまった。しかしふたを開けてみれば、事件は政治テロでも暗殺でもなく、安倍は私的な怨恨によって殺されたのだ。最後の最後に紛らわしい置き土産をおいて、人々を騙したのだ。

 

これ、国葬とかやるのか?

観ているこちらが恥ずかしいのだが。

2022年7月9日土曜日

山上氏のようにカーゴパンツを

  政治活動にたいして暴力をもって圧迫を加えることは許されない。

 テロリズムは民主主義にたいする破壊行為である。断じて許されない。


 山上氏の行為が民主主義の破壊へと向かうのか、その反対に、民主主義の再生へと向かうのかは、私たちの今後の行動にかかっていると思う。


 山上氏と同じく1970年代に生まれた「氷河期世代」の我々は、みなカーゴパンツを履いて政治家の前に立とうではないか。反民主主義を極めた日本社会に対して、言論の回復と民主主義の復権を求めて、カーゴパンツで登場しよう。



2022年7月8日金曜日

破廉恥を共有する西側諸国

 

数日前の日本のニュース。

ウクライナのゼレンスキー大統領が、日本の大学生に向けて、オンライン講演会を行った。会場となったのは、東京の東洋大学だ。会場には300人ほどの学生が集まったという。テレビのニュース映像では、数人の学生たちに講演の感想を聞いていた。感想の内容はここではおくとして、異様だったのはその画面だ。インタビューのカメラは、学生の首から下だけを映して感想を語らせていた。一人ではない。インタビューに答えるすべての学生が、顔を映さない状態で感想を語ったのだ。

 なんだろう。まるで、犯罪報道で、犯人を知るクラスメートにインタビューをしているような画面。あるいは、風俗街の話題でストリップ劇場の客にインタビューをしているような。この学生たちは、ゼレンスキー大統領の主張に耳を傾けたにすぎない。しかしその行為は、どこか不名誉で、あるいは破廉恥で、堂々と公言することがはばかられる何かなのだ。

 

 ウクライナ政府の主張と、それを無批判に垂れ流すマスメディアの論調は、破廉恥である。破廉恥というのは、相対的な評価ではなく、絶対的な評価である。その特徴は、ベラベラとよく喋ること、過去の経緯に触れないこと、かわりに嘘や邪推をふんだんに盛り込むこと。この破廉恥さを分析し説明するには、国際政治学ではなく、女性学が適していると思う。

 「価値観を共有する西側諸国」が、この戦争を制御できなくなっている最大の原因は、彼らがロシア政府の主張を字義通りに受け止めることができないからである。「西側」はつねに相手国の声明に解釈を加え、書いてあるものを読まず、書いていないものを読み込む。この誤った解釈の機制は、性差別の場面に頻繁にあらわれるものだ。こういう解釈のゲームに浸りきると、もう自力ではどうすることもできなくなる。彼らは認知の歪みから抜け出すことができない。認知の歪みにまかせて、ゴネるか暴れるかしかないのだ。

これは、 「西側」につくかロシアにつくかというような相対的な評価の問題ではない。絶対的な評価として、「西側」は破廉恥である。