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2019年8月4日日曜日

官民協働の暴力




 あいちトリエンナーレの展示物「表現の不自由展・その後」が、異常なやりかたで展示中止措置に至った件について。
 芸術表現にたいする今回の政治弾圧は、非常に見えやすい形でその構図を示している。弾圧の主体となるのは大まかに言って三者。

1、河村名古屋市長と菅官房長官は、行政権力の側から弾圧を号令した。これは制度的には許されない不法行為であるが、メディアを通して民間人を扇動することに成功した。

2、河村・菅に扇動された民間右翼は、暴力的な脅迫行為を組織的に行い、愛知県を屈服させることに成功した。

3、愛知県警は右翼の不法行為を事実上追認し、弾圧を完成させた。

 行政権力(の一部)が不法な暴力を扇動し、民間右翼が暴力の実働部隊を担う。この構図には、既視感がある。関東大震災直後の、陸軍と民間自警団による虐殺事件である。あの忌まわしい事件から一世紀がたとうとしている現在、再び同じ構図が繰り返されたのだ。

 愛知県、大村県知事、あいちトリエンナーレ主催者は、「表現の不自由展・その後」を再開するべきだ。右翼の暴力に屈してはいけない。ここで暴力に屈してしまえば、右翼はますます増長し、破局的な事態を招来することになるだろう。
忌まわしい昭和ファシズムが、関東大震災直後の虐殺事件を起点に始まったことを、忘れてはならない。



2019年3月8日金曜日

開沼博、大学生から提訴される


 福島復興政策にからむ一流社会学者・開沼博が、大学生をいびって、反撃されている。詳細はこれ↓


アワープラネットの記事↓
http://www.ourplanet-tv.org/?q=node/2378

いやあ。笑わせてくれるなあ。ニヤニヤしちゃうよおじさんは。

 さて、しかし、笑ってばかりはいられないのは、提訴したこの大学生が、開沼に悪意をもって攻撃しているのではないらしいということだ。
どうやらこの学生は、素でやっている。素で福島現地に足を運び、ハッピーロードの企画を取材し、開沼の指導をあおごうとしていたらしいのである。もう、こういう「研究」を素でやってしまっているという時点で「おまえ社会学の素養ないよ」と言いたいところだが、まあ学生だから大目に見るか。しかしこの学生、開沼とのトラブルがなければ、おそらくハッピーロードの宣伝の片棒を担いでいたわけだから、やっぱりダメだな。センスも将来性もない。学部を変えてやりなおした方がいい。
 福島復興政策は、できの悪い学生ができの悪い一流学者にビシビシいびられる状況を生み出している。これは文科省と開沼のせいばかりではない。大学人の寛容が、不寛容で非科学的でファシストじみた復興学者に居場所を与えてしまっているから、こういうことが起きるのだ。本来ビシビシしごかれるべきは開沼博である。立論がガタガタで穴だらけの青二才が政治的に立ち回って出世するという状況を、大学人はゆるしていてはいけない。
 こういう事件はまだまだ起きるだろう。いまの若い学者は、政策から距離をとるということをしない。そういう意味で、大学は非常に危険な場所になっている。学生諸君は一流学者の恫喝にあったら、弁護士に相談してどんどん提訴するべきだ。

2017年9月5日火曜日

朝鮮人虐殺事件の教訓


集会報告集の編集作業がひと段落したので、ちょっと書きます。



 1923年の関東大震災の直後、内務省の指令によって、関東に暮らす6000人の朝鮮人が虐殺されました。このときの「朝鮮人狩り」は、陸軍を中心に新聞社や民間人を動員した大規模なものになりました。被害は朝鮮人だけでなく、社会主義者や労働組合活動家、日本人の行商人も殺されました。内務省が主導したこの作戦は、大正デモクラシーから昭和ファシズムへの転換点となり、その後の軍国主義体制を決定づけた、重大な国家犯罪です。

 この事件を振り返るとき、人は「デマに惑わされてはいけない」と言うのです。なにか教訓めいた言い方で、「デマに惑わされてはいけない」と。
 これは間違いです。こんな教訓めいた言葉を繰り返しても、それは歴史から学んだことにはならない。


 まず実践的な角度から考えてみましょう。
 政府(当時は内務省)がデマを流布させるとき、それは真実として流布させます。信頼できる機関による信頼できる情報として流布させるのです。その情報が嘘であったとわかるのは、ずっと後になってからのことです。人間狩りに加わった民間人は、デマに踊らされようとしたのではなく、真実に従おうとしたのです。したがって、「デマに惑わされてはいけない」という教訓はまったく意味がないし、かえってデマゴギーにたいする人々の耐性を弱めてしまうことになります。
 この事件から引き出すべき教訓は、「信頼できる機関の情報を鵜呑みにするな」です。デマゴギーは、「信頼できる機関の情報」として流布されるからです。情報が錯綜し、前後不覚になったとき、私たちは「信頼できる機関の情報」を信じてはいけないのです。
 「信頼できる機関」とは、1923年当時であれば内務省、現在では文部科学省です。文部科学省が、年間20ミリシーベルトの被曝線量であれば帰還できるだとか、1キロあたり100ベクレル未満の汚染なら食べても大丈夫だとか、真実らしいことを言い出したら、ぜったいに信じてはいけない。その情報が嘘であることがわかるのは、ずっと後になってからです。


 次に、この事件を振り返って、事後的にどう総括するかについて考えてみましょう。
 デマゴギーは、自然発生的なものではありません。震災は自然災害ですが、デマゴギーは自然発生ではありません。それは、ある機関が意図をもって組織的に取り組んだ計略なのです。だから、歴史を振り返る私たちは、「デマに惑わされてはいけない」というだけでは不充分です。災害の混乱に乗じてデマを流布させた機関と、それを可能にした政体に言及するべきです。陸軍が途方もない権力を掌握していったという意味で、朝鮮人虐殺事件は、226事件以上に重大な事件です。朝鮮人虐殺事件は、陸軍が犯した国家犯罪として書き残さなければならないのです。

 問題が深刻であるのは、この作戦が大量の民間人をまきこみ、軍民の共犯関係を築いたことです。現代風に言えば、「市民参加型行政」の形式で、人間狩りが行われたのです。
だまされて利用された民間人は、自分をだました人間を追及することができません。自分も手を汚しているわけですから。彼は、自分はだまされたのだと言うことはできても、誰にだまされたのかを言うことができない。この共犯関係が生み出すバイアスによって、彼らは「デマに惑わされてはいけない」という、まったく不充分な「教訓」に留まり続けるのです。日本の新聞社がこの念仏を繰り返しているのは、自らが虐殺に加担した事実を批判的に総括することができないからなのです。
 陸軍と共に人間狩りに加わった人間たちは、それ以降、軍のいいなりです。そうして事件が明るみになったあとも、その責任をなにか自然にみたてた「デマ」のせいにしてしまう。問題を正面から直視することができない。
 私がかねてから「市民参加型行政」という手法に反対してきたのは、こういうことがあるからです。行政と民間の協働は、主客を混同させ、事業に対する正当な評価をできなくさせるのです。

 現代で言えば、福島「復興」政策です。
この官民協働の大事業は、おびただしい流血をもたらした後、おそらく誰も責任をとろうとはしないのです。

2017年8月22日火曜日

倒錯的なものの力について



 4ヵ月かけて準備してきた共産研8月集会が終わり、事後の作業を進めています。 

 作業の合間に、ファレル・ウィリアムスの『HAPPY』を聴いています。
 この曲、ファンキーなリズムに透きとおったファルセットボイスをのせて、2014年に大ヒットした名曲。
 歌詞の内容は、こうです。


今から言うことはどうかしちゃったと思うかもしれないけど、 
こんないいお天気だから、ちょっと休もうよ。 
宇宙まで行く熱気球になったみたい。 
大空の中では、何も気にしないよ baby  
だってハッピーだから。 
部屋に天井がない感じになったら、手を叩こう。 
だってハッピーだから。 
幸せってのは本当なんだって感じたら、手を叩こう。 
やりたかったのはこれって判ったら、手を叩こう。


 すごい歌詞ですね。
これ、薬物でラリっているように見えるかもしれませんが、ラリっているのではありません。ヤケになって挑発しているようにも見えますが、ただ挑発したいというのでもない。

 まじめに生きようとする人間が、まじめすぎてまじめの向こう側に突き抜けてしまった先に、倒錯的なものの力に触れる。なにが“HAPPY”なのかというと、自分自身が持っているこの倒錯的なものの力を発見したことが、HAPPY。こうなるともう薬物にたよる必要はありません。いつでもどこでも自家発電できてしまうわけですから。
 悲しみと孤独と絶望をくぐった先に、誰もいない道端で、ただひとりで、ニヤニヤと笑みを浮かべる人間が生まれるのです。フェリックス・ガタリが「狂気になること」と言ったのは、もしかしたらこういうことなのかもしれません。



『HAPPY』ファレル・ウィリアムス






2017年4月27日木曜日

ミサイルデマをやめさせよう



 「もしもミサイルが撃ち込まれたら、頑丈な建物に入り、窓から離れましょう。」
 こんなばかげた指導が公立学校で行われているらしい。
 どうやらうちの地域だけでなく、全国の小中学校で、このような指導が行われているようだ。ここで想定されているミサイルとは、朝鮮のミサイルなのだという。

 朝鮮がミサイルを撃つわけがないだろう。ありえない。完全にあさってを向いた妄想である。
 私はそれほど熱心に新聞を読んでいないし、国際面もパラパラ眺める程度なのだが、そんな私でも、朝鮮が核兵器開発に成功したらしいということは知っている。だから普通に考えて、朝鮮半島が戦争状態になることはない。冷静に客観的に考えてみればわかることだ。
 アメリカが核保有国に侵攻することができるだろうか。できない。まず中国・ロシアという二つの国連常任理事国がゆるさない。では、アメリカが国連を無視して、単独で、または有志国連合で、朝鮮に侵攻することができるだろうか。できない。中国・ロシアを敵にまわしかねないやりかたで、無謀な戦争をするわけがない。
そもそもいま朝鮮に侵攻したところで、アメリカにとって得るものはない。「国際関係のすべてをディール(取引)として考える」と公言したトランプが、得るもののない戦争をするわけがない。
 アメリカが戦争を仕掛けないなら、朝鮮は戦争をしない。戦争をしたところでなんのメリットもないからだ。朝鮮は、核兵器開発に成功したことで外交的に優位な状態を確保したのだから、いまあえて戦争をする理由がない。

 そういうわけで、朝鮮半島有事というものは、ありえない。いまありうるのは外交交渉だけなのだ。
 このことは、米軍の軍事演習や朝鮮軍の軍事演習の映像を見ればわかる。どちらも大規模な軍事演習を行っているが、軍人たちの表情は穏やかで、まったく緊迫した様子がない。朝鮮軍の指導部にいたっては、ニコニコと笑っている始末である。米軍・朝鮮軍双方とも、戦争になることはないということがわかっていて、安心して軍のデモンストレーションに興じているのである。

 朝鮮が日本に向けてミサイルを撃ちこんでくるなどという話は、万に一つもない、悪質なデマである。こんなデマを吹聴するのは、兵器産業に税金を引っ張りたい政商ぐらいなものだ。ミサイル攻撃の危機を煽って、ミサイル防衛システムを売りさばきたいのだろう。原子力発電事業で行き詰った三菱あたりが、今度は兵器産業の分野で税金にたかろうとしているわけだ。どうせそんなところだ。
そうしてまた彼らは嘘をつく。原発を売りつけるために「石油資源が枯渇する」と煽ったように。今度は、ありえないミサイル攻撃を煽って、ミサイル防衛システムなどという役に立たない高額商品を売りつけようというのだから、やり方としてはほとんど霊感商法である。ダニのような連中である。経済産業省は日本経済に寄生するダニである。こういう連中のみえすいた嘘を、ゆるしてはいけない。



 もうひとつ。

 こういう悪質なデマは、社会を侵す。社会関係を支えている人間同士の信頼が、棄損される。朝鮮がミサイルを撃ってくるというデマは、そこに含意されているのは、朝鮮国は何をするかわからない怪物のような国家であるという偏見である。
 事実はそうではない。朝鮮国は怪物の国ではない。何をするかわからない、ということはない。何をするかわからないと言うのなら、それはどんな国家にも言えることであって、朝鮮国の金正恩体制がとりたててクレイジーであるというわけではない。金正恩がどういう人間であるかはよく知らないが、少なくともトランプよりは賢明に見えるし、プーチンよりは繊細さをもった人間に見える。金正恩は誠実な人間ではないかもしれないが、少なくとも安倍晋三よりは責任感をもった人間に見える。
 朝鮮国を怪物のようにみなすことは、やめるべきである。朝鮮国は隣国であり、また、朝鮮人はずっと日本社会に暮らしてきた隣人である。仲よくしようなんてことは言わないが、偏見によって隣人を敵視することは、やめるべきだ。

 いまから約1世紀前、1923年の関東大震災後、陸軍は悪質なデマを流した。「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」というデマである。このデマをうのみにした人間たちは、忌まわしい虐殺事件を起こしていった。殺されたのは朝鮮人だけではない。朝鮮人も日本人も「人間狩り」によって拘束され、虐殺されたのである。この虐殺事件は、東京復興事業の起点となり、「大正デモクラシー」から「昭和ファシズム」への転換点になった。この忌まわしい虐殺事件を想起しながら、現在のミサイルデマを弾劾し、やめさせよう。

くだらない与太話だといって看過してはいけない。
嘘は社会を蝕んでいく。
一人一人に語りかけ、デマをうちけしていこう。




2017年4月5日水曜日

「復興」政策の正体


復興庁が、みずから馬脚をあらわした。
避難指示地域以外からの「自主避難者」への対応と責任を質問されて、避難者それぞれの判断、「自己責任」、と明言した。
国民一丸となって復興にのぞむ、なんてきれいごとは、もう言わない。「復興」政策が、どれほど多くの人々を切り捨て排除するものであるかを、大臣みずから明言した。この発言がテレビの全国放送で流れたのである。
 6年間の暗い時期を経て、ようやく一筋の光明が差してきた。
「復興」政策反対の議論をはじめよう。



2016年8月8日月曜日

天皇の政治介入をゆるすな

今日の午後、天皇アキヒトがビデオメッセージなるものを公開したが、ずいぶん踏み込んだ内容だった。
天皇の生前退位という制度変更を、なんと天皇みずからが提案している。驚いた。
象徴天皇制のカカシであるべき者が、制度をどうこうしろと口を出してきたのである。

黙れよアキヒト。


 体力がない、あるいは体調が悪いのなら、国事行為などぜんぶ欠席して代理人を派遣しておけ。そうしてゆっくりとフェードアウトしていけばよいのだ。天皇の国事行為を切れ目なく運営することなど、誰も積極的に望んではいない。それを望んでいるのは皇族だけだ。

 天皇が天皇制の延命のために制度に介入しようというのなら、それは象徴天皇制の前提をひっくりかえすような事態だ。
こんな政策提言はぜったいにとりあってはならない。



追記

 怒りがおさまらないので、もう少し書く。

 天皇の生前退位という議論は、何から起因しているものなのか。また、この制度変更にむけた策動は、何を目指すものなのか。

 まず、天皇自身が表明した危機感を見てみよう。
アキヒトが表明した危機感は、高齢による体力低下によって、従来のように国事行為に出席し続けることができない、ということだ。天皇が国事行為に出席できないことは困ると、アキヒトは言っているのである。これは、先代のヒロヒトには見られなかったアキヒトに特有の危機意識である。
 どういうことか。
 アキヒトは、タレントとなった初めての天皇である。アキヒトは、宮中の奥に鎮座して神のように畏怖される天皇ではない。彼は国民に親しまれるべく、つねに国民の視線に働きかける天皇である。彼は皇太子の時代から映像メディアに露出し続けてきた。軽井沢でテニスを楽しみ、平民の娘と結婚し、二男一女をもうけ、そうした私生活のすべてをメディアに露出させてきた。だから我々は皇族の顔も名前も知っているのである。日本人は天皇家の構成員をよく知っていて、まるで芸能人の話題を口にするように天皇家の話題を口にするようになった。これはアキヒトの前にはなかったことだ。先代のヒロヒトがつねに政治的な焦点になったのに対して、アキヒトは人畜無害なタレントのように振舞うことで、天皇制と皇族の延命をはかってきたのである。
 それ以来、天皇は出ずっぱりである。天皇だけでなく皇太子夫婦も、カメラの前に立たなくてはならない。皇族が国民の視線を避けて宮中にこもることは異常なことだとみなされるようになった。彼ら皇族はいっときも休むことができない。ヒロヒトが病に臥せったような仕方でアキヒトが病に臥せることはできないのである。

 生前退位という制度変更によってアキヒトが目指しているのは、天皇家のタレントとしての活動に間隙をつくらないということだ。自分が元気なうちに皇位を継承し、あとはゆっくりと隠居したいと言っているのである。このスムーズな皇位継承の必要性をアキヒトは、国体を護持するためであるとしている。天皇家のタレント活動に間隙が生じてしまえば、国体は危機にさらされるのだ、という主張だ。
 まったくバカバカしい。
 国体などというものは、存在しない。ただの妄想だ。仮に国体なるものが日本の一部に存在しているのだとしたら、それは解体・清算すべきものである。

 国体などという妄想が、われわれに何をしてくれたというのか。福島県の放射能汚染によって数十万の家族が離散し、棄民化しているときに、国体は何をしていたのか。問題に口をつぐみ、腕をこまねいて、東電の公害隠しに加担したのではないか。私はアナキストだからこういうのではない。一人の民族主義者として、国体など存在しないと言うことができる。
 老天皇が手を振って護持してきた国体は、5年前の3月にぶっこわれたのだ。


2016年6月19日日曜日

『RADIO KY』 しばき隊暴行事件についての所感

ひさしぶりにRADIO KY を収録しました。
今回は、関西のしばき隊関係者が起こしたリンチ事件(DV事件)について。







2015年1月27日火曜日

「復興」の呪術的性格について


 オーストラリアから来日した研究者から、放射能汚染問題について私にインタビューをしたいという連絡があった。外国人と話すことは、自分の頭の中を整理するのに役に立つ。こちらから聞きたいこともある。というわけで、名古屋駅の駅ビルでおちあって話をした。

 私がまず彼に確認したかったのは、「復興」という言葉が英語ではどう翻訳されているかである。答えは予想したとおり、“Recovery”(リカバリー)または“Reconstruction(リコンストラクション)だった。
これは以前から気になっていたことなのだが、きちんと説明しないで流してきていたことでもある。細かいことではあるが、日本の政治的文脈を把握するためには、丁寧に説明しておいたほうがいい。この際、「復興」という言葉が正確にはどのような概念であるのかを説明しようと思った。

 「復興」は“Recovery”や“Reconstruction”ではない。「復旧」とか「再建」というのであればその訳語でいいのだが、「復興」はそうではない。破壊されたものを元の状態に戻すのは「復旧」。破壊されたものを、以前よりも大きく成長させるのが「復興」である。「復興」という言葉は、「破壊をバネにして発展させる」「飛躍的に成長させる」という強い意味を持っている。それはReconstruction”という訳語では足りない。もっと重い意味を含んで語られるものだ。

 「復興」という概念の政治的性格を説明するために、関東大震災後の「復興」と、第二次大戦後の「復興」について簡単に話をした。とくに重要なのは第二次大戦後の「復興」である。1944年から45年にかけて、米軍の戦略爆撃によって日本の大都市は焦土となった。多くの日本人にとって戦争の記憶とは、空襲であり、都市が焦土化されたという記憶である。焦土となった都市のイメージは、いまも繰り返し伝えられている。そしてそこから連続して語られる「戦後」とは、焼け跡から近代的な都市を建設したという経験である。それは、「破壊をバネにして発展させる」「復興」の成功物語として、日本史に深く刻まれているのである。
 「復興」とは、日本の保守政治家が誇る最大の成果であり、成功体験であり、彼らのレゾンデートルでもある。「復興」は、「復興せよ」という命令を含むパフォーマティブな政治言語である。「復興」とは、誰も疑いを挟むことのできない号令として、呪術的な性格をもって機能するのである。

 このことは、例えばアメリカの政治家たちが「中東の民主化」というレトリックを公然と批判することができないのと似ている。中東にたいする戦争が民主化にいたるなどと信じている者はいない。しかしアメリカ人とアメリカの政治家たちは、「民主化」という政治言語の呪術的性格から誰も自由ではないのだ。

 日本の政治にとって「復興」は、呪術的な性格を持つ号令である。
 じっさいには、東日本の被災地の「復興」ができるなどと考えている者は少ない。ほとんどいないと言っていい。元の状態に戻すことすら出来るかどうかわからないのに、「復興」などできるはずがない。しかし、政府と政治家はずっと「復興」という念仏を唱えている。そしてこんな非現実的で無責任な政策方針を、誰も少しも批判できないでいるのである。

 この「復興」の呪術から唯一自由であるのは、放射線防護派の人々だ。東日本産食品の不買を続けている主婦たち、また、汚染地帯から脱出してきた避難者たちは、「復興」政策を拒絶し、日本の戦後政治のレゾンデートルに亀裂を入れたのである。


追記

 フランスの講演で通訳をしてくれたS氏から、この件についてメールがあった。彼女も通訳者として同じことを感じていたという。通訳の現場では、便宜的に“reconstruction”という訳語をあててきたのだが、もうひとつニュアンスが違う。「復興」を翻訳するとき、彼女の頭に浮かぶ訳語の候補は、“reconstruction”か、または、“renaissance”(ルネサンス)だという。
 なるほどね。さすが、言葉の職人だ。
 たしかに日本の政治空間の中で、「復興」はルネサンスであるかもしれない。それは人々に主観的な解放感を与えてくれる、擬似的なルネサンス、反転したルネサンスと言える。

 たとえば国策として進められた広島市の「復興」は、その影の部分で、大量の離散者と、白血病による死者、補償から排除された被爆者を生み出した。そうした無数の被害を隠蔽し被害者を切り捨てることが、広島「復興」政策の条件であったわけだ。(このことは福島「復興」政策でも繰り返されるだろう。)
この反転したルネサンスにおいては、神話が打ち破られるのではなく、反対に、神話が現実を圧倒する。見せかけのスペクタクルが、人々に犠牲を要求し、同時に、人々に犠牲を強いたという事実を忘却させる。この忘却は、ただ権力だけが望んでいるのではない。多くの民衆が、被害を忘却したがっている。出口の見えない困難な現実を、想像的に克服したい、イメージの力で解消したい、と望むのだ。
 問題の責任をうやむやにしたい政府権力と、被害を直視することを恐れる民衆とが、奇妙な野合をはたす。両者を結合した「復興」とは、たんに物質的な“reconstruction”にとどまらない、精神的な運動を構成している。福島「復興」政策に翼賛するアーティストやボランティア団体が、福島の現実課題を無視していたとしても、それは驚くに値しない。彼らは福島の人々がうけた被害ではなく、「復興」の精神運動のなかで自らの存在意義を示そうとしたのだから。

 反転したルネサンス “the reversed Renaissance”。
 これもまた「復興」の訳語に妥当すると思う。

2014年7月18日金曜日

bcxxx、かっこわるいなあ


どうでもいいことだが、「男組」の暴処法検挙に関して、bcxxxという奴が逃げをうっていた。
ツイッターで。
おれは関係ねーよ的な。


これが噂の「ヘタレサヨク」というやつか。


まあ、新人にはありがちなことだが、ここまでみっともないものははじめてだ。
なにもツイートしなくてもいいのにな。

 

2014年7月17日木曜日

抗議声明



 大阪府警に抗議する共同声明


 2014716日、大阪府警は、市民グループ「男組」の関係者8名を「暴力行為等処罰に関する法律」(以下、「暴処法」と略す)違反の容疑で逮捕した。
 容疑となっているのは、昨年10月にヘイトスピーチを行おうとデモに向かっている者を「男組」が取り囲み、ヘイトスピーチをやめるよう働きかけた行為である。ここには暴力行為はなく、「男組」側も暴力行為に発展しないよう慎重に働きかけを行っている。
 今回の大阪府警の判断は、市民が討議する権利にたいして不当に介入するものであり、断じて許すことができない。
 とくに今回問題となっているのは、人権を著しく毀損するヘイトスピーチの是非である。ヘイトスピーチを行う者に対して、それをやめるよう働きかけるのは、良識ある市民の当然のつとめである。「男組」のおこなった行為は、市民社会の健全さを示すものであって、警察が介入するべきものではない。「男組」のおこなった行為が「暴処法」で罰せられるということになれば、人々の良心は萎縮し、見て見ぬふりが横行し、無責任な暴言がまかりとおることになってしまうだろう。
 大阪府警は、逮捕した8名を釈放せよ。警察が介入する事案ではない。
 


 矢部史郎(蕨市事件元被告)
 CHE★gewalt(ANTIFA★黒い彗星)




2012年9月29日土曜日

「3月のクーデター」




 この週末、山の手さんが仕事の休みをとって春日井に来ている。
彼女とは来年3月に向けて文章を出すこと(できれば書籍化)を計画している。できれば単独で書いてほしいと思っているが、それが難しいようなら共同執筆でやりたい。

私と彼女との違いは、20113月になにを経験したかである。
 私が312日の正午に東京から退避したのに対して、山の手緑は3月下旬まで船橋市の自宅に留まっていた。このことで当時はかなり揉めたのだが(というよりも彼女の母親と私が揉めたのだが)、それはいまは措くとして、彼女は3月の船橋市で水不足や計画停電を経験している。そしてあの時期のさまざまな施策を、「ある種のクーデター」として認識しているのである。

 私はこの間の復興政策を、関東大震災後の虐殺/復興政策(1923)や、広島市の放射能隠ぺい/復興政策(1945)との連続性で提起している。これに対して山の手緑は、2003年のイラク戦争(復興/戦争政策)との連続性のなかで、今回の事態を捉えようとしている。私よりもずっと国家(軍事)的要素に重心を置いて、この間の復興政策を捉えているのである。もちろん1923年の帝都復興も、1945年の「ピカの毒」隠ぺいも、いずれも軍が強く関与しているのは間違いない。しかし、私が主に民間の(国民の)側からボトムアップで作動する復興政策を問題視しているのに対して、彼女は国家の側からトップダウンで強要される「復興」を問題にするのである。彼女はそのことを「ある種のクーデター」というのだ。

 20113月~4月にかけて、さまざまな事件があった。市原のガスタンク火災にかかわる「チェーンメール問題」、政府によるその統制、東京電力による輪番停電、津波被災地(旭市)の停電、浄水場汚染の事後報告、千葉県議会選挙での浦安市はずし問題、等々、通常ではありえないような強権的・反民主主義的政策が強行されていった。それらは、ひとつひとつは「小さな」ものだったかもしれない。あるいは「非常時だからしょうがない」のかもしれない。そうして膨大な人口の「小さな」人権が無視され、行政による人権無視が正当化されていったのである。
 東京電力による輪番停電は、東京23区主要部を除く、郊外住宅地域で実施された。これらは一般的な報道ではほとんど注目されない、不可視の「ゾーン」である。ユーチューブの動画を検索すると、当時の市川市や町田市といった地域で、どんな暗闇が広がったかが記録されている。それは山の手氏が言うように、ある種の「戦争」である。このとき首都圏の「ゾーン」でなにがあったのかを記録し、証言し、活字にするべきだと思う。「復興」政策を、「復興/戦争」政策として捉える視座が挿入されるべきなのだ。


補足
 山の手氏が2003年のイラク戦争を「復興/戦争」と言うのは、この戦争が国家間の「戦争」と戦後の「復興事業」とが時間的に入り交じっているということを指している。日本の陸上自衛隊はサマワに派遣されたのだが、これは飲料水をつくる「復興事業」のためである。つまり、米軍がイラクを完全に掌握する以前の段階に、戦後処理の派兵(まるでPKOのような)がなされていたのである。これはたんに時間が前後したという問題ではない。戦争の構造が、復興のために空爆するというようなパラドキシカルな構造をもち、「復興/戦争」になっているのだ。




2011年3月23日 町田駅
 

2012年9月21日金曜日

大飯原発反対運動に警察が介入

 詳細はまだわからないが、大飯原発に反対する市民が、警察にやられた模様。

わずかでもカンパを。

http://oikyuen.blog.fc2.com/blog-entry-1.html

2012年9月20日木曜日

町村緊急入院

 自民党総裁選にでていた町村信孝が入院。胸が痛いとか。

  こいつは記者会見の映像でも、ろれつの回らない状態をさらしていた。

  安倍なんかも舌がひっついてるような話し方で危ない。

  まあ、右翼議員はみんな被曝して死ねばよいのだ。


 おまけ(1:24:30からの町村の話し方が被曝症状)

2012年9月17日月曜日

復興か米騒動か


 大阪天王寺にある大学受験予備校『河合塾』に呼ばれたので、講演をしてきた。
名古屋から近鉄特急に乗って鶴橋へ、そこから環状線に乗り換えて、天王寺へ。
近鉄特急は風景の変化に乏しく、ものを考えるにはちょうど良い電車だ。呼んでくれた河合塾講師に感謝だ。
 学生たちに向けた講義はいいかんじでドライブがかかったので、覚書としてのこしておく。



東日本大震災は、二つの事態が複合している。3・11の震災・津波と、3・12の放射能拡散事件である。3・11は「復興」を要請し、3・12は大規模な放射線防護活動を要請する。
3・11は、2万人の死者を出した巨大自然災害であり、これによって日本社会は愛国的気分に支配されることになった。官民あげての愛国的風潮のなかで、政府は放射線防護をネグレクトしている。市民による放射線防護の取り組みは、「復興」を妨げるものとして退けられる。
食品の流通やガレキ拡散に際して採用されているクリアランス制度は、放射線影響研究所などが主張する「閾値」仮説に基づいている。この仮説が根拠にしている「データ」は、広島・長崎での被爆者の調査に基づいている。
放射線影響研究所の前身である原爆傷害調査委員会(ABCC)は、原爆被爆者の調査をおこなったが、この調査は内部被曝を考慮しないものだった。広島の人々は原爆投下直後から「ピカの毒」を怖れ、放射性物質の存在を認識していた。しかしABCCは一貫して「残留放射線は存在しない」という見解をとり、放射性物質による内部被曝を否認しつづけた。日本政府が低線量被曝に閾値を設定するのは、このときの否認を継承しているからである。
広島では公式には「ピカの毒」が否定された。また、「ピカの毒」を認める人々も、9月の枕崎台風によって「ピカの毒は洗い流された」という説を信じるようになった。なぜなら「ピカの毒」が残留しつづけているということになれば、広島の復興はできないからである。広島の復興のために、残留放射能はないことにされたのである。「復興」政策は「放射能安全神話」を要請するのである。

「復興」という政策が日本史に登場するのは、1923年の関東大震災である。関東大震災で世界の注目を集めたのは、大規模な虐殺事件である。軍と警察、そして警察に教唆された民間自警団によって、朝鮮人と社会主義者が捉えられ、殺された。東京の復興政策はまず官民協力した虐殺から始まったのである。
この事件がどのような歴史的文脈にあるかを見るためには、少しだけ時間を遡ればよい。震災の5年前、1918年夏に、日本全国で大規模な都市暴動が多発している。「米騒動」である。その翌年、19193月には、当時日本の植民地であった朝鮮半島で、朝鮮人の民族自決権を求める「3・1運動」が起きている。これに続いて中国では「5・4運動」が始まる。中国の学生と知識人が開始した「5・4運動」は、たんなる民族運動ではない。これは日本の政策が帝国主義政策であることを訴え、「日本帝国主義」という概念をアジア民衆に広めた運動である。「米騒動」「3・1運動」「5・4運動」は、日本・朝鮮・中国の民衆が、同時に日本政府の政策に異議を唱える事態だった。そして日本社会はここから大きな民主化運動へ、「大正デモクラシー」の最高潮期をむかえるのである。
1923年、東京の「復興」開始時に、朝鮮人と社会主義者の虐殺が行われる。そして1925年「治安維持法」が制定され、ここから日本は強権的な軍事政権と15年戦争に突入していく。「復興」政策は、人権や民主主義を退ける強権的性格をもつ。この直前まで高揚していた日本民主化運動は、「復興」政策によって阻止され、軍事独裁・戦争翼賛体制へと転換していくのである。
こうした歴史を参照するならば、現在起きている愛国的気分と「復興」政策がいかに危険なものかがわかる。とくに若い学生は、政策に動員されやすい位置にいるのだから、「復興」という言葉には充分に警戒しなくてはならない。福島の「復興」のために現地に派遣され重度の被曝をしても、日本政府は内部被曝を認めていないのだから、被害が認められることはない。使い捨てにされるだけだ。
希望は「復興」政策ではなく、「米騒動」にある。2011年秋、全国の主婦が汚染されていない米を買い求めて、新聞はこれを「平成の米騒動」と呼んだ。これは日本民主化運動がふたたび開始される兆候である。放射線防護活動は、日本民衆が政府に異議を唱え、人権と民主主義を要求するおおきな運動をうみだす契機なのである。



補足

 愛国的気分について補足。
 問題は政治的左右の問題ではない。むしろ政治的には「左派」とみなされる人々こそ、今回の愛国的気分に支配されているように思われる。私はこの一年半のあいだ、汚染地帯からの退避を呼びかけてきたが、そうした判断を鈍らせるイデオロギー的な問題として、愛国的気分の蔓延というのがある。
たとえば、「東北・関東のすべての住民が退避することはできない」という反論がなされることがある。こういうことを言う人が本心からそう考えているのかどうかはともかく、「言い分」としてしばしば登場する。
そもそも問題設定が間違いである。結論を言えば、汚染地帯から全員は退避できないし、全員が生きることはできないのだ。チェルノブイリ事件をみれば明白なように、これから大量の死者が出る。罪のない人間がたくさん死ぬだろう。それが「レベル7」ということだ。今回の被災で全員が助かることなど現実にはありえない。助かるものしか助からない。だからこそ退避を要請しているのだが、こういう肝心なときに、みんなで生きたいとかみんなで死にたいとかいう愛国的雑念に支配されるということがあるわけだ。
気持ちは分かる。
しかし現実は、そんな観念的で想像的な作業でどうにかなるものではない。
全員が助かるような方策はないし、私はそんなおおきな課題を請け負う義理はない。
自分の知る友人が、日本社会のことなど忘れて、生きながらえること。それだけで充分だ。



おまけ

2012年9月14日金曜日

石原伸晃は死にました

自民党の石原伸晃がテレビ番組のなかで、福島第一原子力発電所を「第一サティアン」と言い間違えて話題になっている。おそらく「第一サイト」と言おうとして間違えたのだろう。「サイト」と「サティアン」、似てる似てる。
 問題は、本人がこの言い間違いを自覚していない節があるということだ。他人に指摘されなければ気がつかなかったのではないか。
実は「2ちゃんねる」の放射能関連板では、ふた月ほど前から石原伸晃の様子が注目されていた。顔がやせて垂れ下がり、皮膚が茶色くなり、まるで別人のように老化してしまっていたからだ。「これは確実に食ってるな」「ベクレてるな」と、ウォッチャーのあいだで注目されていたのだ。8月末、自民党総裁選の話題が出てきたあたりから少しだけ顔色が回復し、「ちょっと白くなったな」「食うのやめたかな」「でもまだ目がうつろだよな」とささやかれていたところに、この言い間違いである。
これは被曝による運動機能障害である。断言する。

このひと月ほど、芸能人が舞台から転落したり、プールへの飛び込みで骨折したりという事故が起きている。水上ボードでひざのじん帯を断裂した芸能人もいる。こうした事故はおそらく、瞬間的な重心移動、体勢変え、足の踏み出しや踏みとどまりという機能が壊れているのだと思われる。こういう瞬発的かつ微妙な運動は、0.1秒や0.01秒というタイミングで成否が決まる。「マイクロスリップ」と呼ばれる微妙な位置調節運動が不全になってくると、身体のあちこちに負荷をかけながら運動することになるだろう。
話すこともまた運動である。よく話すことを「舌が回る」とか「あごがまわる」と表現するように、話すことにとって口まわりのマイクロスリップはとても重要な要素だ。私の場合、ガムを噛んでいると良い返しが浮かばなかったり、タバコをくわえると良いアイデアが出てきたりする。我々は脳で考えるだけでなく、あごで考えてもいるのだ。
石原伸晃は、あごがまわらなくなっている。奴はこれまでの無能に輪をかけて、ますます無能になっていくだろう。これは良いことだ。自民党の政治家は死ねばよい。

私が危惧するのは、東京に暮らす友人たちが、きちんと放射線防護をできているかどうかだ。我々プロレタリアートは己の才覚だけで勝負しなくてはならないのだから、あごがまわらなくなったら負けだ。


2011年11月14日月曜日

転載・「経産省前テントひろばの緊急声明」

経産省前テントひろばの緊急声明

 経産省前テントは脱原発、反原発の1つの運動拠点として、9月11日以来、本日まで64日となりました。3月11日の福島第一原発の事故は、チェルノブイリ原発事故に匹敵する大事故となり、それも未だ収束せず放射能を垂れ流し、日々環境を汚し続けています。福島第一原発の事故は、原発の安全性は全く嘘であり、著しく危険なものであることが証明され、原発そのものについての根底的な見直しが迫られています。政府や経産省は「福島第一の事故を踏まえた安全対策」「シビアアクシデント対策」「ストレステスト」等といいながら、その内実は無に等しい態勢のまま、定期検査や事故で休止中の原発を「再稼働」させようとしています。
 他方、福島原発事故はいまだ収束せず、大量の放射能が既にばらまかれ、今日も出し続けられています。蓄積され放出された放射能は子どもたち、妊婦、女性たちを犯し続けていにもかかわらず、政府・文科省・経産省はそうした危険に関して、責任ある施策を示していません。
 経産省前テントは、原発そのものについての根底的な見直しを迫るものであると共に、政府・経産省の「再稼働」の策動に反対するものです。
 9月11日にうち立てられたテントは、経産省の管理の国有財産とは言え、公共的空間に存在する市民的運動の拠点、脱原発の正義の場となっています。
 しかし、原発について重大な反省を持たない経産省は一方的に「退去・撤去」を迫り、私たちの意志が堅いとみるや、右翼を使って執拗な妨害を加えるようになっています。右翼が経産省の意向に乗っているのか、経産省がやらせているのか、ここは微妙ですが、ほぼ一体となってテントに対する脅迫とイヤガラセが繰り返されています。右翼は「(経産省が)撤去させられないなら、俺たちがやってやる!」ということであり、経産省はその勢いに迫られてか、テント周囲にバリカーなるもので鎖を張って「関係者以外の者の立入禁止」等の札を貼り巡らせました(11月12日)。前日11日の雨中の圧倒的な人間の鎖に対する報復でしょうか。同日20時過ぎにはまた右翼がやって来て、一触即発の状況もありました。
 私たち「テント共同ひろば」は、経産省の前の公共空間にテント等を建てて、様々な訴えを行う正当な権利を有し、市民的義務があるさえ思います。したがって、いかなる脅迫イヤガラセに対しても、自らテントを引き上げるようなことはあり得ません。
 経産省は再稼働できないままいくと、来年の4月には大きな政治的危機を迎えることになります。簡単に再稼働出来ないことと簡単にテントを撤去出来ないことは似ていますが、脱原発の大きな市民的国民的うねりがあるからです。ここにも政府や経産省の本音と建て前の矛盾があります。
 私たち経産省前テント広場は60日余にわたって皆様からの暖かい励ましの力を頂いておりますが、脱原発・反原発の思う全ての市民の皆様に改めて「経産省前テントひろばを真に共同の場として守り抜くために、様々な力をお寄せくださいますよう」呼び掛けたいと思います。

 2011年11月13日(日曜)
         経産省前テントひろば代表 淵上太郎

以上、転載終。


コメント

 今年から来年にかけて、天皇アキヒトは死ぬ。近い将来、天皇代替わりの儀式がおこなわれる。次の天皇が具体的な政治介入を試みるとするならば、それは東電事件にかかわる問題になるはずだ。
この事件について膠着状態に陥った日本権力機構は、誰かの決裁を待ち望んでいる。決裁とは、線引きをすることだ。年間被曝量の許容量、避難区域と除染区域の線引き、食品流通の基準値、これらの線引きを決定することである。もしも先代の天皇ヒロヒトが生きていたら、この難儀な問題にまよわず口出しして、非公式の(法外の)決裁を発動しただろう。そしてヒロヒトの決裁が、日本権力の諸グループに統制を与え、民衆の求心力を回復したはずだ。
私たちにとって幸いであったのは、アキヒトにはそんな矢面に立つ根性はなかったということだ。彼はただ福島をうろついて、自ら体調不全を示しただけだ。しかし、天皇代替わりの機会に、次の天皇がでしゃばってこないという保証はない。だから、私たちが急がなければならないのは、天皇が何かを言う前に、民衆自身の手で線引きを確定すること、具体的な線引きを既成事実にしてしまうことだ。
いま経産省前の座り込みが示し続けているのは、国家の無秩序と民衆の秩序との対照である。日本権力の決裁を待たず、いちはやく別の秩序を生み出しつつある「われわれ」を、テントひろばは示している。法の無秩序に、法外の秩序が対置されているのである。これは、座り込みをしている人々がどういう意図であるかとは関係なく、事実行為としてそうなのだ。
 右翼が怒っているのは、とてもよいことだ。奴らをもっと怒らせてやろう。

2011年3月7日月曜日

板橋の「賊」へ。

 東京・板橋区で、警察官7人が1人の男を「制圧」して、殺した。
 死んだ男の容疑は「自動販売機荒らし」。被害額は不明。男が逃走したので取り押さえ、足首を結束バンドで締めた、容態が悪化したので病院に搬送した、と警察は報告している。
 現場で何があったのかは、まだはっきりわからない。きちんとした解剖が為されるかどうかも現在の時点ではわからない。
 ただ、警察にありそうなこととして予想できるのは、「制圧」、容態の変化、救急車の要請、病院搬送まで、そうとう時間がかかっただろうということだ。こうした現場では、警察官は必要な応急措置をとらない。ただ無線をいじるだけだ。大の大人が7人もいて腕をこまねいているのかと思われるかもしれないが、7人もいるからこそ彼らはゆったりと傍観する。1時間でも2時間でも放置する。そうしたネグレクトが常態化したなかで、死ぬべきでない人間が死んだのだ。

 警察に近しい場所に置かれた人間は、権力の言う「民主主義体制」がどれほど酷薄であるかを知る。
こうした場面では、兄弟愛(友愛)は机上の理想論ではなくて、実際に身を護るために必要な技法である。
近代国家が「官」と「賊」を分けたとき、また日々それを分けるとき、「賊」とされた者たちはなんらかの「兄弟」を構成する必要に駆られる。それが悪党であれ異端の教義であれ、国家暴力に剥き出しでさらされないためには、兄弟愛が要る。強い兄弟、強くなるための兄弟が。「自由・平等・兄弟愛」という理念は、人間が国家暴力とわたりあうための、民衆暴力の思想だ。
 現代の腐った「民主主義体制」に挽き潰されないために、私たちはもっともっと人権意識を振りかざし、声をあげるべきだ。仲間を殺された板橋の「賊」の諸君には、ぜひ警察に一矢報いてほしい。必要なら弁護士を紹介する。カネは心配しなくていい。なんとかなる。

2011年1月25日火曜日

わがANTIFA

 ひさしぶりにネグリ/ハートの『〈帝国〉』を読んでいる。やっぱいいねネグリは。いま、「1−3 〈帝国〉内部のオルタナティブ」を読んでいたのだが、実にいい。ちょっと長いけど引用する。

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 1960年代から現在にいたるまで、長期間にわたって共産主義者・社会主義者・リベラル左翼を襲いつづけてきた危機の中で、批判的思考の大半は、資本主義の発達した支配諸国においても従属諸国においても、しばしば闘争のローカル化を政治的分析の足場にしながら、社会諸主体のアイデンティティや、国民的・地域的な諸集団のアイデンティティにもとづく抵抗の現場を再構成しようと試みてきた。そのような議論は、ときとして「場所に根ざした」運動ないし政治という見地から組み立てられたものであり、そこでは、場所(アイデンティティまたは根拠地として構想された)の境界が、グローバル・ネットワークの差異のない同質的な空間に対抗するものとして措定されているのである。
(中略)
 その立場(ローカルなものに固執する立場)が間違ったものであるのは、何よりもまず、問題の提起の仕方がまずいからだ。問題を特長づけるさいに、グローバルなものとローカルなものという誤った二項対立にもとづく問題設定が、多くの場合なされている。その問題設定では、グローバルなものは均質化や差異のないアイデンティティをもたらすが、それに対してローカルなものは異質性や差異を保持している、と想定されている。往々にして、そうした議論には、ローカルなものに属する諸々の差異はある意味で自然なものであるといった前提や、少なくともそれらの差異の起源は疑問の余地のないものであるといった前提が、暗に含まれているのである。
(中略)
 問題として取り上げる必要があるのは、まさにローカル性の生産、すなわち、ローカルなものとして理解される諸々の差異とアイデンティティを創出し、再創出している社会的諸機械なのである。ローカル性に属する諸々の差異は、あらかじめ存在するものでもなければ自然なものでもなく、むしろ、ある生産体制の効果にほかならない。それと同様にグローバル性は、文化的、政治的、または経済的な均質化という見地からのみ理解されるべきものではない。そうではなくて、ローカル化と同じようにグローバル化もまた、アイデンティティと差異を同時に生産する体制として、つまり、均質化と異質化の体制として理解されるべきものなのだ。
(中略)
 ローカルな抵抗という戦略は敵を誤認し、それによって敵を隠蔽してしまうのである。敵として指し示されるべきものは、私たちが〈帝国〉と呼ぶ、グローバルな諸関係からなる特定の体制にほかならない。もっと重要なことを付け加えるなら、ローカル性を防衛しようとする戦略が有害なのは、それが〈帝国〉の内部に実在する現実的なオルタナティブと解放への潜勢力を曖昧にしたり、ときには否定したりさえするものであるからなのだ。
(67,68)
ーーーーーーーーーーー

以上、引用おわり。
 で、「ローカルな抵抗という戦略」は東京ではほとんどみられないのだが、それでも少し思い当たるフシはあって、「アイデンティティ」という用語を無造作にふりまわす類の反差別運動(の残滓)というのがある。うざいんだよね実際。おまえのくちぶりこそが自民族中心主義だよと注意しても、言われた本人は「自分は反差別」と信じきっているから手に負えない。民族問題や差別問題を考えるのはそいつの勝手だし大事なことかもしれないが、なんか妙にえらそうに左翼ヅラかましてるし、かといって矢面に立って闘うでもなし、人の背中でウジウジといいわけがましい内容を並べて士気を削いでくれる。傷つきやすくてあつかましい人間というのはいるものだが、そういう奴に「アイデンティティ」なんてムヅカしい言葉を教えたのは誰だ。どうすんだ、アレ。なんとかしてくれ。
 と、いつになく愚痴っぽいことを書いてしまったが、わがANTIFAは、「アイデンティティ」みたいな学生くさい用語は使わない。そんな概念が差別をはね返す力になるとも思わない。あ、「わがANTIFA」というのは「俺のANTIFA」ってことね。この際はっきり言っておくが、差別と闘うときに、いわゆる「ポストコロニアル」風の言説を私が利用しないのは、それを知らないからじゃないからね。役に立たないと思ってるんだ。やめろとは言わないが、それはそれ、その人の趣味みたいなもので(悪趣味)、差別と闘う運動には関わりのないことだと考えている。

 さて、話は冒頭にもどるが、なぜいま私がネグリを読み返しているかというと、次回の海賊研究会、『〈帝国〉』をやります。
 1月29日(土) 15時〜 カフェ・ラバンデリアに集合。

おまけ(本文とは関係ありません)

2011年1月22日土曜日

黒い彗星★救援会の大集会

直前ですが、次の日曜日、集会で司会をやります。
お誘い合わせのうえご来場ください。

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「12.4 黒い彗星★救援会」報告集会 
 ANTIFA LA COMETA NEGRA

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日時 ☆ 2011年1月23日(sun)18:00〜20:30 

会場 ☆ 渋谷区神宮前隠田区民会館 1F集会場 http://www.ieepa.com/onden.htm

(原宿駅6分、千代田線・副都心線 明治神宮前駅2分)

2010年12月4日渋谷マルイシティ前にて排外主義デモに非暴力で単身抗議した「黒い彗星」。西村修平らレイシスト集団にフルボッコされた上に渋谷署は「黒い彗星」を不当逮捕(怒)。異例の早期釈放・不起訴をかちとったものの「黒い彗星」への人権侵害、誹謗中傷はいまも続いています。「12.4 黒い彗星★救援会」は「黒い彗星」こと崔檀悦(チェ・ダンヨル)を断固支持します。排外主義が勢いを増す日本社会の縮図といえる本事件を改めて検証し「黒い彗星」の完全無罪を訴えます。また、朝鮮民主主義人民共和国への制裁政治や朝鮮学校の「無償化」排除といった文脈からも「12.4渋谷」について話し合いましょう。

プログラム ☆ 救援会より事件概要・映像検証・ご協力へのお礼、黒い彗星&弁護士よりメッセージ、激励トーク ほか

出演 ☆ 崔檀悦(チェ・ダンヨル)、萩尾健太弁護士(はぎお・けんた)、pippo、渋谷望(しぶや・のぞむ)、米津篤八(よねづ・とくや)、柏崎正憲(かしわざき・まさのり)、常野雄次郎(つねの・ゆうじろう)

司会 ☆ 矢部史郎(やぶ・しろう)

参加費 ☆ 無料

撮影 ☆ 生中継します http://www.ustream.tv/user/yanagibashimishio

予備 http://www.ustream.tv/channel/antifalacometanegra-in-japan

会場内での写真撮影希望者は受付時にお申し込みください

その他 ☆ 受付での必要事項の記入をお願いいたします

     取材につきましてはなるべく事前にメールにてお申し込みください。別途調整いたします

     警察関係者の入場、会場内・外での集会妨害行為、無断撮影は一切おことわりします

主催 ☆「12.4 黒い彗星★救援会」 schwarzerkomet<@>gmail.com ※< > 外してください

ブログ:http://d.hatena.ne.jp/free_antifa/


おまけ


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追記
 もろもろ告知するのを忘れていたのだが、「12・4黒い彗星★救援会」では、国際連帯声明を発表している。
http://d.hatena.ne.jp/free_antifa/20110115/1295099460
http://d.hatena.ne.jp/free_antifa/20110109/1294546371

ぜひ賛同連帯表明を。