2013年8月30日金曜日

なぜ移住者は歓迎されないか



 関東・東北の汚染地域から移住する動きがすすんでいる。
 あたらしい移住先を決めてから、その土地では歓迎されたり歓迎されなかったりするだろう。多くの日本人は放射能汚染というものを理解していないし、移住者のおかれた境遇や困難を想像してくれたりはしない。甘い期待は禁物だ。

 ちょっと乱暴な比喩だが、私たちのような公害被害者のおかれた境遇は、いわゆる「殴られ妻(バタードウーマン)」のおかれた境遇に似ている。まわりの人々はまず、問題を否認する。見て見ぬふりをする。つぎに、問題が否定できないほど明白になったとき、自分が関わりをもつことを避ける。どちらの側にもつきたくないという心理が働き、被害者を孤立させることで、結果的に加害者に加担してしまう。人々は、被害者が他人に頼ることなく自力で問題を解決してくれることを願う。あるいは、問題を言いたてるのではなく沈黙することを望む。「二人で話し合ってなんとかできないのか」と。そうして問題が「二人の話し合い」では解決しそうにないことを知ったとき、最終的に、「彼女自身にも問題がある」という結論にいたるのである。

 「殴られ妻」が経験するだろう孤立を、われわれ移住者も経験する。地方都市には、論理的思考のできない人間や、おどろくほどデリカシーのない人間がいたりする。移住者の闘いを理解するものはほとんどいないと考えてよい。彼らは主観的には被害者に共感しているつもりで、結果的に加害者の側に加担するということがある。しかし、そういうがっかりする場面にあたったからといって、いちいち落胆することはない。
 無理解や排除はよくあることだ。
 日本社会なんてその程度のものなのだから、遠慮なくずかずかと踏み込んで、われわれのやり方で書き換えてしまえばよい。



2013年8月18日日曜日

移住者は何と対決しているか

 編集者の前瀬くんが東京から大阪への移転を決めたのに続き、もうひとり千葉県の友人が移住を決めた。
 彼女は9月から名古屋に部屋を借り、仕事を探す予定だ。



 放射能汚染を逃れて移住するという行為は、ある意味で出家に似ている。
 それは社会への依存心を断ち、別の社会の構成に向かう行動である。分業制と都市文化が育んできた甘えの構造から、身をひき離すことだ。

 人々が対決しているのは放射性物質だけではない。
 自分の生命を他人に委ねてしまおうとする誘惑だ。




↓「復興」政策をささえている甘えの構造