2022年11月19日土曜日

統一協会新法はいらない

 自民党・岸田政権は、統一協会の活動を規制し被害者を救済するための新法制定を議論している。統一協会の反社会性を報道しているメディア各社は、この新法議論にたいして無批判に呑み込まれている。

 私は新法制定は不必要だと考えているし、こうした議論そのものが有害だと考えている。

統一協会の問題の肝は、自民党政治家と行政機関が、統一協会の活動を見逃していたということだ。この教団の反社会的活動は、多くの弁護士から告発されていたし、現行法で充分に規制できるものであった。現行法の解釈・運用を、自民党が無理やりに捻じ曲げていたということが、統一協会問題の本質である。「新法を制定しなければ規制できない」などというのは、自民党の苦し紛れのいいわけにすぎない。こんな開き直った言い分を鵜呑みにしていたのならば、どんなすばらしい新法を制定しても、適切に運用されることはないだろう。

新法制定の論議には、複数の野党議員ものっかっているが、たんなる「やってる感」で終わるだろう。立憲主義を掲げる政党が、法解釈の濫用をたださず、新法論議にほいほいとのっかってしまっているのは、非常に嘆かわしい。

 

追記

 嘆かわしいと言っているだけでは論がしまらないので、この問題の構造についてもう少し掘り下げておく。

 みせかけの議論、論点ずらしのための議論は、数多くある。現代のメディア産業は、多くの論題を提起し流通させる。ここで私たちに必要になってくるのは、ある論題について是か非かを考えることではなく、その論題が提示された背景を考え、その議論そのものの妥当性を吟味することである。その議論は、何かを明らかにするための啓蒙的な議論なのか、それとも、問題を隠し意識をそらすことを意図した蒙昧に向かう議論なのか。陰謀論の流行が私たちに教えているのは、人間は中味のない議論にこそ没頭するということだ。中味のない議論は、それを論じる主体の内容を問われることがないために、いつでも手軽に楽しめるアトラクションとなっている。

大戦後のヨーロッパに誕生したシチュアシオニストの思想潮流は、早くからこの問題を指摘していた。戦争プロパガンダの技法が、戦後の文化産業と結合し、新しい(アメリカ的な)生活文化を構築していく。戦争への動員を解除された大衆が、新しい大量消費生活へと動員されていく時代だ。シチュアシオニストはこれを、“スペクタクルの社会”と呼んで分析した。

私が“スペクタクルの社会”について考え始めたのは、1990年代の東京の都市再開発に際してだった。だが、問題をよりいっそう強く意識するようになったのは、2011年の福島第一原発事件である。広告産業と行政権力が深く結合し、公害隠しの復興政策へと向かったのである。

東電福島第一原発の爆発事件から3年後、2014年の論考で、私たちは次のように書いている。

 

……  このことをチェルノブイリ事件と比較してみよう。我々はチェルノブイリ原発の炎上する姿を見ていない。当時のソ連政府は、当初、チェルノブイリの事故を隠していた。スウェーデンのモニタリング機関が異常を指摘するまで、誰もチェルノブイリの爆発を知らなかった。ソ連政府は、事故を見せるのではなく、隠した。いまでは当時の記録映像のいくつかを見ることができるのだが、それはソ連邦内部の国民に向けて、収束作業の動員のためにつくられたプロパガンダ映画というべきものであって、諸外国の報道機関に提供するためのものではない。ソ連政府は、チェルノブイリの姿を国民に見せて、世界に見せなかった。そういうしかたで事故の隠蔽をはかったのである。

 東電公害事件をめぐる隠蔽は、かつてのソ連政府の対応を反転させた形式となっている。世界中のメディアが、その日のうちに爆発の映像を報道し、我々の目にやきつけた。そして皮肉なことに、爆心地である福島県の放送局だけは、爆発の映像を報道しなかったのである。事件をめぐるメディア状況は、チェルノブイリ事件とは対照的なかたちをとったのである。

 いまから振り返って考えてみれば、すでに3月12日の段階で、この事件をめぐる高度にスペクタクル(ルビ・見せ物)的な性格が決定していたと言えるだろう。日本政府にとって問題となるのは、世界が注視する中でいかにして問題を隠蔽するかである。単純に隠すというだけでは足りない。隠すことによって隠す、だけでなく、見せることによって隠すこと。人々の視線を遮断するだけでなく、積極的にスペクタクルを提供し視線を操作すること。人々の関心と無関心に介入し、意識の流れを誘導すること。ここから、「復興」政策全般を規定するスペクタクル(ルビ・茶番)の政治が要請されることになる。……

(「シジフォスたちの陶酔』矢部史郎+山の手緑、『インパクション』194号所収)

 

隠すことによって隠す、だけでなく、見せることによって隠すこと。これが、福島「復興」政策の基調となった。私たちは戦争の被害こそ経験してはいないが、国民動員のプロパガンダをいやというほど見せつけられたのである。嘘のデータ、嘘ではないが誤読を意図したデータ、ニセの議論、問題のはぐらかし、中味のないかけ声と空元気、等々。福島をめぐる数多くの出版物がすべて無意味であったとは言わない。だが、問題を明らかにする真に啓蒙的な出版物は、ごくわずかである。ほとんどすべての議論が、被ばくを受忍させる蒙昧へと向かったのだ。

 

事故から11年たって、福島県の汚染被害はなにひとつ解決していない。

この無為に終わった11年間の責任は、どこにあるか。もちろん政府が悪い。だが、政府だけか。

我々はただニセの議論に翻弄された被害者だと、言えるのか。

出版・報道に携わる人々は、この件について、無罪なのか。

よく考えてほしい。