2022年8月21日日曜日

エクスキューズの自家中毒について


「私はここでロシア政府を擁護するわけではないが、しかし」云々。
「プーチン政権による軍事侵攻は決して許されるものではないが、しかし」云々。

こういうエクスキューズを言うのは、もう、ほどほどにしよう。
丁寧な議論をするためにしているというのは、わかる。理解はしている。
しかし、ちょっとやりすぎではないか。
このエクスキューズを頭におく習慣は、マイナスの効果を発揮しているように思う。問題を考える姿勢として、防衛的・消極的になっている。自己保身が先に立ってしまって、議論の中味が薄くなる。
そしてこういう習慣は、若い学生たちが真似をする。これは知的な後退を招く。反知性主義に呑み込まれてしまう。知的に誠実であろうとする態度・習慣が、反知性への道を舗装するということになりかねない。

他人から誤解されて「あいつはロシア派だ」とラべリングされるなら、それはそれでいいではないか。
私たちの多くは、社会的に影響力のある大知識人でもないのだから、必死になって守るようなものはないはずだ。
誤解する人間は何を言っても誤解するのだ。放っておけばいい。
それよりも、大事なのは、議論の中味だ。

2022年8月7日日曜日

原子力政策の動機をめぐる三つの説明


 日本政府は核兵器の被害国であり、また、福島第一原発の事故被害も経験したのだが、現在もなお原子力事業を推進している。

なぜなのか。

日本政府が原子力に執着する理由について、三つの説明が考えられる。

 

第一の説明は、日本権力が核武装を目指しているという説だ。日本に原子力事業を持ち込んだ中曽根康弘は、日本帝国の復活を目指すタカ派議員であった。中曽根らは、日本を核武装国家とする野心をもって、日本に原子力技術を移植し、その意志は現在も継続している、という説明だ。

 

第二の説明は、アメリカの核武装戦略が、核の商用利用(デュアルユース)を必要としていて、日本の買弁権力はそれを実現するための経済的基盤を差し出したのだ、という説。

核武装戦略は核独占を目指さなくてはならないのだが、それは非常に金がかかるものだった。アメリカは世界のウラン鉱山とそこから精製される核物質を、もれなく管理・統制しなくてはならない。そこでアメリカ政府は、諸国家を巻き込んでIAEAを設立し、同時に「原子力の平和利用」という政策を打ち出した。IAEAの管理下で核の商用利用を推し進めることで、核武装・核独占にかかる費用を、他国の電力会社に負担させたのだ。私たちの支払った電気料金は、まわりまわってアメリカの核武装戦略を支えているわけだ。アメリカが核兵器を放棄しないかぎり、世界のどこかで原発がつくられ続けることになる。

 

第一の説明は、日本権力の自立性に着目し、第二の説明は、日本権力の従属性に着目する。1960年代の議論に照らしてみれば、第一の説は「日帝自立論」に近く、第二の説は「米帝従属論」に近い。これは、どちらが真でどちらが偽かということではない。日本権力がもつ二つの性格を、それぞれ異なる角度から指摘しているということだ。

 ただしここで興味深いのは、かつて「日帝自立論」に冷ややかであった日本共産党が、原子力問題では第一の説を受け入れているということだ。いや、きちんと言い直すと、日本共産党は第二の説明をとることに消極的になっていて、第一の説のみを強調するという、ねじれた状態がある。それはおそらく、「原子力の平和利用」という詐欺的な論理を素朴に無批判に信じた世代が、現在も党内で発言力をもっているということだろう。いつかはこれを修正しなければならないだろうが、私は共産党員ではないので、横から口を挟むことではない。

 

 

第三の説明は、米・日の国家意志からの説明を離れて、資本主義的生産の無秩序な性格から問題を説明するものだ。

 現在、日本の電力会社は、大量の使用済み核燃料を抱えている。これは帳簿上は資産として計上されている。なぜなら将来「核燃料サイクル事業」が実現した暁には、使用済み燃料はあらたな核燃料に生まれ変わることになっているからだ。

 だが実際には、「核燃料サイクル事業」は実現する見込みのない計画だ。使用済み燃料は資産ではなく、おそろしく金のかかるゴミだ。使用済み燃料がゴミであるという事実を認めるならば、これは資産ではなく、マイナス資産として計上しなければならない。現在、沖縄電力を除くすべての電力会社は、マイナスであるものをプラスに書き換える会計偽装によって、首の皮一枚でつながった状態なのである。科学技術庁のほら話にのって使用済み燃料を大量に抱えこんでしまったことで、電力会社は退くに退けない状態に陥ったわけだ。

 

 資本主義的生産様式は、短期的で近視眼的な動機に依拠していて、長期的な計画には対応できない。原子力産業は、放射性廃棄物の処理という超長期的な課題を忘れようとして、「核燃料サイクル事業」という絵空事をでっちあげ、問題を先延ばしにしてきたのだが、もうそんな話は通用しない。古典派・新古典派の経済学者が言う「神の見えざる手」なるものがあるとするならば、ここまで貯めこまれた放射性廃棄物のコストとリスクは、どのような経済合理性によって解消されるというのだろうか。彼らには無理だ。電力会社の暴走を止めるためには、会計偽装に依拠したニセの信用経済を強制的に終了させなければならない。

 

 

気が付けば、「原子力の平和利用」とそれが生み出したゴミは、核兵器よりも危険な、人類全体の脅威になってしまっている。

この課題に対応するためには、電力会社は私企業であってはならない。電力会社が国営化されてはじめて、現実的な議論のスタート地点に立つことができるだろう。