オーストラリアから来日した研究者から、放射能汚染問題について私にインタビューをしたいという連絡があった。外国人と話すことは、自分の頭の中を整理するのに役に立つ。こちらから聞きたいこともある。というわけで、名古屋駅の駅ビルでおちあって話をした。
私がまず彼に確認したかったのは、「復興」という言葉が英語ではどう翻訳されているかである。答えは予想したとおり、“Recovery”(リカバリー)または“Reconstruction”(リコンストラクション)だった。
これは以前から気になっていたことなのだが、きちんと説明しないで流してきていたことでもある。細かいことではあるが、日本の政治的文脈を把握するためには、丁寧に説明しておいたほうがいい。この際、「復興」という言葉が正確にはどのような概念であるのかを説明しようと思った。
「復興」は“Recovery”や“Reconstruction”ではない。「復旧」とか「再建」というのであればその訳語でいいのだが、「復興」はそうではない。破壊されたものを元の状態に戻すのは「復旧」。破壊されたものを、以前よりも大きく成長させるのが「復興」である。「復興」という言葉は、「破壊をバネにして発展させる」「飛躍的に成長させる」という強い意味を持っている。それは “Reconstruction”という訳語では足りない。もっと重い意味を含んで語られるものだ。
「復興」という概念の政治的性格を説明するために、関東大震災後の「復興」と、第二次大戦後の「復興」について簡単に話をした。とくに重要なのは第二次大戦後の「復興」である。1944年から45年にかけて、米軍の戦略爆撃によって日本の大都市は焦土となった。多くの日本人にとって戦争の記憶とは、空襲であり、都市が焦土化されたという記憶である。焦土となった都市のイメージは、いまも繰り返し伝えられている。そしてそこから連続して語られる「戦後」とは、焼け跡から近代的な都市を建設したという経験である。それは、「破壊をバネにして発展させる」「復興」の成功物語として、日本史に深く刻まれているのである。
「復興」とは、日本の保守政治家が誇る最大の成果であり、成功体験であり、彼らのレゾンデートルでもある。「復興」は、「復興せよ」という命令を含むパフォーマティブな政治言語である。「復興」とは、誰も疑いを挟むことのできない号令として、呪術的な性格をもって機能するのである。
このことは、例えばアメリカの政治家たちが「中東の民主化」というレトリックを公然と批判することができないのと似ている。中東にたいする戦争が民主化にいたるなどと信じている者はいない。しかしアメリカ人とアメリカの政治家たちは、「民主化」という政治言語の呪術的性格から誰も自由ではないのだ。
日本の政治にとって「復興」は、呪術的な性格を持つ号令である。
じっさいには、東日本の被災地の「復興」ができるなどと考えている者は少ない。ほとんどいないと言っていい。元の状態に戻すことすら出来るかどうかわからないのに、「復興」などできるはずがない。しかし、政府と政治家はずっと「復興」という念仏を唱えている。そしてこんな非現実的で無責任な政策方針を、誰も少しも批判できないでいるのである。
この「復興」の呪術から唯一自由であるのは、放射線防護派の人々だ。東日本産食品の不買を続けている主婦たち、また、汚染地帯から脱出してきた避難者たちは、「復興」政策を拒絶し、日本の戦後政治のレゾンデートルに亀裂を入れたのである。
追記
フランスの講演で通訳をしてくれたS氏から、この件についてメールがあった。彼女も通訳者として同じことを感じていたという。通訳の現場では、便宜的に“reconstruction”という訳語をあててきたのだが、もうひとつニュアンスが違う。「復興」を翻訳するとき、彼女の頭に浮かぶ訳語の候補は、“reconstruction”か、または、“renaissance”(ルネサンス)だという。
なるほどね。さすが、言葉の職人だ。
たしかに日本の政治空間の中で、「復興」はルネサンスであるかもしれない。それは人々に主観的な解放感を与えてくれる、擬似的なルネサンス、反転したルネサンスと言える。
たとえば国策として進められた広島市の「復興」は、その影の部分で、大量の離散者と、白血病による死者、補償から排除された被爆者を生み出した。そうした無数の被害を隠蔽し被害者を切り捨てることが、広島「復興」政策の条件であったわけだ。(このことは福島「復興」政策でも繰り返されるだろう。)
この反転したルネサンスにおいては、神話が打ち破られるのではなく、反対に、神話が現実を圧倒する。見せかけのスペクタクルが、人々に犠牲を要求し、同時に、人々に犠牲を強いたという事実を忘却させる。この忘却は、ただ権力だけが望んでいるのではない。多くの民衆が、被害を忘却したがっている。出口の見えない困難な現実を、想像的に克服したい、イメージの力で解消したい、と望むのだ。
問題の責任をうやむやにしたい政府権力と、被害を直視することを恐れる民衆とが、奇妙な野合をはたす。両者を結合した「復興」とは、たんに物質的な“reconstruction”にとどまらない、精神的な運動を構成している。福島「復興」政策に翼賛するアーティストやボランティア団体が、福島の現実課題を無視していたとしても、それは驚くに値しない。彼らは福島の人々がうけた被害ではなく、「復興」の精神運動のなかで自らの存在意義を示そうとしたのだから。
反転したルネサンス “the reversed Renaissance”。
これもまた「復興」の訳語に妥当すると思う。