2015年1月12日月曜日

失敗モデルとしての名古屋



 筆休めに、名古屋について。


 深夜12時、母から借りた車に乗り込みエンジンをかける。
名古屋の北側に隣接する春日井市から国道19号線を南下し、名古屋市の南端に位置する金城埠頭に向かう。埠頭に向かって走るのは、今週三度目だ。
 名古屋という街について、遠まわしなほのめかしばかりしていても議論が進まないので、まず単純な事実からおさえておこうと思う。

 よく知られているように、名古屋は道路が広い。片側4車線という道路はめずらしくない。これが、重要な幹線道路がそうだというのならたいした驚きはないだろうが、幹線でもなんでもない普通の道路が片側4車線だったとしたらどうだろう。驚きを通り越して呆れてしまうのではないだろうか。じっさい意味不明なのだ。車を走らせながら首をかしげることがしばしばある。なぜこんな重要度の低い道路が、こんなアホのように広くなくてはならないのか、と。


 自動車は空間を浪費する。道路と駐車場が街区を虫食いにし、街並みの密度を失わせる。店から店へと歩くあいだに、ちょくちょく駐車場が挟まってしまうので、歩行者はその分だけ余分に歩かされることになる。無駄に広い道路は街区を切断し、街並みの連続性を破壊する。名古屋の女性がハイヒールを履いていないのは、また、名古屋の繁華街で若いカップルがデートしている姿を見かけないのは、この街が歩いて楽しい街ではないからである。楽しくないだけでなく、歩きにくいのだ。密度がなくただひたすら歩かされる街で、どうしてデートしようという気分になるだろうか。市内に張り巡らされた片側4車線の道路網は、都市が都市として生成しようとする力学に制動をかけてしまっているのである。


 名古屋の風景からまず端的に見えてくるのは、モータリゼイションのための徹底した都市計画と、その失敗した姿である。この失敗は名古屋だけの話ではない。どの都市でも経験されたモータリゼイションの失敗を、この街はとても見えやすい形で集約的に表現しているにすぎない。
 今後、この社会がモータリゼイションの熱病から覚めて、自家用車がいまほど使われなくなったときに、名古屋の都市計画の失敗はますます異様さを放つことになるだろう。
 そして、名古屋の都心部が現代的な観光商業都市へと生まれ変わるためには、道路のダウンサイジングという前例のない事業を必要とするだろう。