2012年4月9日月曜日

測定行為と対象の問題

愛知県岡崎市の保育園で使用されていた干し椎茸から、1400Bq/kgのセシウムが検出された。
 これは東海ネットの市民放射能測定センターで測定したものだが、報道では保健所で検査したと報じられているので、たぶん我々のあとにもう一度保健所で測定したのだと思う。2度チェックしたのだから間違いはないだろう。

 で、問題は1400Bq/kgという数字である。これをどう解釈するかだ。
 実際には1㎏の椎茸を一人の子どもが食べるわけではない。
 1㎏の椎茸を250人の児童が食べたとして、1400Bqを250人で割って、ひとり5.6Bq程度だ、という考え方がある。
こういう言い分は一見するとなんだかもっともらしいのだが、実は気休めにすぎない。
なぜなら、このセシウムは、1kgの椎茸にまんべんなく均一に付着しているわけではないからだ。とうぜんムラがある。
椎茸のある断片4グラムは0.2Bqで、ある断片4グラムは20Bqみたいなことは、充分ありうる話だ。
単純な割り算をやって「これで約5ベクレルぐらい摂取かな」なんて考えていたら大間違い、それは放射能をなめすぎだ。

 さらに測定者として問題にすべきなのは、いま我々の入手できる測定機材では、一人の児童が摂取する4グラムという小さな分量を測定できないことだ。干しシイタケなら300グラム前後、水に戻した状態なら900グラム前後、そういう大きな分量で測定しなくてはならない。このひと固まりの中に、どのような濃淡があって、そのムラの分布がどうなっているのか、そのばらつきの幅の上限はどこまでになるのか、現在の測定技術では把握しきれない。
 把握しきれないにもかかわらず、我々は1キログラム「あたり」という測定結果を出すのである。我々の測定行為が、キログラム「あたり」なんて言い方をしてしまうものだから、「ではグラムあたりではこうですね」というミスリードを誘発してしまう。「あたり」というのは本当はとても便宜的な表現にすぎないのに。

 この問題は、ミクロな次元だけでなく、マクロな次元での汚染調査でも共通した問題である。
 ここでいま悩んでいる。考えどころだ。
 単純な線形モデルが通用しないなかで、当面はとにかく椎茸を避けるしかない。

追記
 ちょっと説明不足の感があるのでもう少し書くと、「1400Bq/kg」という数値もそれほど信用できるものではない。なぜなら、一つのロットに含まれるセシウムは均一ではなく、ムラがあるからだ。
 たとえば段ボール一箱に20袋の干しシイタケがあったとして、これらがすべて同一の濃度であることはありえない。すべての袋の濃度を均一にしろという方が無理。だから、濃度の高い袋から低い袋まで、20種類の椎茸袋があるということになる。ここから、乾燥状態なら6~7袋、水に戻すなら3~4袋を取り出して、サンプルをつくるのである。こうしてつくられた試料サンプルについて、その数値が高いとか低いとか漠然と言うことはできる。しかし、1400という数値自体は、実は根拠が薄弱なのだ。この椎茸20袋のなかには、1400Bq/kgを超過するものが必ず存在している。そこにある最大の濃度が、どれぐらいなのかはわからない。推測することも難しい。
 問題は試料サンプルをつくるという行為が、結果を大きく左右してしまうことだ。サンプル作成のプロセスは必然的に、選別と希釈のプロセスを含んでいて、最も危険な汚染濃度を隠してしまう働きをする。そして、ある兆候を示しているにすぎない漠然とした数値が、なにか再現性を備えた不動の数値であるかのようにみなされてしまう。本当は試料の数値に再現性はない。さらに問題なのは、「基準値」というものを設定してしまうことで、サンプル作成が結果を左右するような事態が生まれてしまっているということだ。
 というわけで、我々測定者は、「測定という行為自体が結果の数値をつくりだしている」という、ちょっとパラドキシカルなプロセスに投げ込まれるわけである。
これはまあ、ある意味おもしろい話なんだけど、現場は悩むところだ。