福島第一原子力発電所から半径20kmの地域に退避勧告が出されている。勧告はあくまで勧告なので、強制はできない。このとき、はじめに退避する者と最後に退避する者がいる。勧告に従わない者もいる。
いま私が何かを考えられる状態にあって、ここで考えようと思うのは、勧告を待たずに退避する者たちと、勧告が出ても退避しない者たちとが、それぞれに持つ義と理だ。権理、権義と言ってもいい。それぞれのもつ権理・権義があって、その違いがあり、同時に、どこかに通底するものがある。
はっきりとは言えないが、いまあからさまに棄民化した(させられた)境遇の中で、専制に対する二つの態度が見えてきたように思う。もしかしたらこのことが、専制の定義をより明確にしてくれるのかもしれない。つまり、環境に生ききるのでもなく、世界にさらされるのでもない、卑劣な生としての専制を。
考える。
追記 このことを別の言い方で言えば、いま起きている出来事を「事象」と呼び「事故」と呼ぶことの、それぞれに、また双方に感じる怒りだ。私は、「事象」と「事故」の線引きに怒っているのではないし、二つの呼び方があることに怒っているのでもない。「事象」と言う時には「事象」と言うときの、「事故」と呼ぶときは「事故」と呼ぶときの、なんと言ったらよいのか、ある、覚悟、の問題である。いま「事象」と言う者たちはそのとき、どれだけ世界にさらされて生きるのかを問われ、試されている。「事故」と言う者たちはそのとき、どれだけ環境を生きることを引き受けようとしているのかを問われ、試されている。「事象」「事故」、どちらもそれ相応の覚悟と責任を含んでいるはずの言葉を、専制はそのどちらをもとり逃している。言葉が、とても卑しい、いいかげんなものに貶められているのだ。
いや、もうちょっと考えるぞ。くそやろう。