2014年7月8日火曜日

運動の「アンダーコントロール」




 首都圏反原発連合(以下、反原連と略す)の一部分子が、私を挑発してきた。共産党の木下ちがやと、それに随伴している野間易通である。いま反原連について書くべきことはないのだが、ある種のSOS信号をキャッチしたのだと考えて、建設的な提言をしてみようと思う。



 反原連の一部分子は、その行動方針をめぐって、多くの人々と対立してきたように見える。しかしその対立は表面的なものだ。
 真に問題であったのは、ABかという方針の選択ではなく、彼らの言う「方針」なるものが、それじたい粉飾であったということだ。
官邸前の行動に、全体の方針などと言えるものはなかった。方針をたてて統制をとろうとしても、現実にはまったく不可能だったはずだ。あれだけの規模の大衆行動である。成り行きまかせにならざるをえない。だから官邸前行動は(きびしい言い方をすれば)、ただ警察の規制に押し込まれただけに終わった。そのこと自体は良いも悪いもない。しょうがないことだ。ただしここで共産党の木下らが間違えたのは、警察に圧迫され押し込まれたにすぎないことを、自らそのように方針化したのだと粉飾したことである。本当は状況に流されただけなのに、自らの方針でそうしたのだと偽ってしまった。ようするに見栄を張ったのだ。

 反原連と同時進行していた「レイシストしばき隊」もそうだ。まったく統制がとれていない。それは私はいいと思う。みんなそれぞれのやりかたで言いたいことをぶちまければいい。ただ、統制がないことを、まるであるかのように見せかけるのはいけない。仕切れていないのに、まるで仕切っているかのように言うのはまちがいだ。そういう見栄を張ると、話がこじれてしまう。

 共産党・木下と野間易通のツイッターをみると、自己正当化の弁明が目立つ。それは、首相がオリンピックを誘致するスピーチで「アンダーコントロール」と言った姿とダブる。「運動はコントロールされています」と繰り返しているかのようだ。そういうやり方は良くない。もっと正直に、もうぐちゃぐちゃですどうしたらいいかわかりません、と言うべきだ。そう言ったからといって怒る人はいない。




 この三年間、多くの人々が手探りで闘い、それぞれの挫折を味わった。私もそうだ。もっとこうすればよかったとか、あのときもっと積極的に働きかければよかったとか、悔いが残ることばかりである。そうした人々を前に、「大丈夫、運動はコントロールされています」などとどうして言えるだろうか。人々が求めているのは、そんな強がりの言葉ではない。もっと正直な話だ。自分たちができなかったことを悔やみ、無力さにうろたえ、その事実を確認することから、もういちど議論をはじめることだ。