2014年7月24日木曜日

いわゆる「福島差別」について



 来月の8月2日に東京に行く。フリーター全般労働組合の招聘で、放射能汚染問題についてのディスカッションに参加する。
 伝え聞くところでは、私が登壇することについて、一部で異議が出ているようだ。その内容は断片的にしかわからないが、『インパクション』誌に書いた論考『シジフォスたちの陶酔』について、「矢部論文は福島差別を助長する内容だ」という声が出ているらしい。
 こうした異議はこの3年間ずっとくすぶっていたようだが、ぜひ、つぶやきのような断片的なものではなく、ひとつの論文のかたちで提出してほしい。言いたいことはしっかり言ったほうがいい。ぐずったり駄々をこねたりするような甘えた態度では、自分が恥ずかしいだろう。「矢部史郎は差別者だ」と、はっきりと論文にして発表するべきだ。



 さて、当日のディスカッションのために、私の側から「差別」について書いておこうと思う。

 まず、放射線から身を守ること、被曝を避けることは、差別ではない。被曝を強要したり受忍させる行為こそが、差別である。だから、いま全国で行われている放射線防護活動は、被曝強要の差別に抵抗する反差別運動であると言うことができる。我々はそういう言い方をすることはないが、反被曝の運動は反差別運動であると言うことができる。

 人々に被曝を強要しているのは政府である。しかし、市民の側でもそれに抵抗するか抵抗しないかで態度が分かれる。被曝に抵抗する者(防護派)が日常の実践のなかで直接に対峙するのは、遠くにある政府ではなく、身近な人間である。被曝受忍政策に抵抗しない(または翼賛する)自治体、教育機関、流通業者、観光業者、職場の上司、同僚、友人、家族と親戚である。彼らは放射性物質に対する無知や軽視によって、自分と他人を危険にさらしている。ここで、防護派とそうでない人々との対立が生まれる。

 我々防護派の言動が「差別だ」と非難されるのは、この対立に由来していると思われる。そもそもこうした場面で「差別だ」と口にする者が、文字通り差別について考えているのかというと、ひじょうに疑わしいからである。ここで口にされる「差別だ」という言葉を、文脈にのせて正しく言い換えるなら、「対立をつくるな」とか「和を乱すな」という意味になるのだろう。

 我々としても、無用な対立をのぞんでいるわけではない。
しかし、政府と福島県政が「復興」政策を強行し、放射性物質の二次拡散をすすめてしまっている以上、対立しないわけにはいかないのだ。福島県知事が汚染被害に目をつぶるのだとして、我々がそれに付き従って汚染を受けいれる理由はない。ほんらい政府と東京電力によって支払われるべき損害賠償が、現実に支払われていないからといって、我々一般市民がその肩代わりをするわけにはいかない。そんな要求は筋違いである。「東京都民は福島第一原発の電気を使ってきたじゃないか」というかもしれない。それはヤクザのインネンというものだ。原子力政策を決定した者たちがなんの責任も取らず、謝罪もせず、のうのうと暮らしているというのに、どうして当時生まれてもいなかった者たちが汚染食品を食べなければならないのか。それこそ差別である。そこはきっちりと退け、対立するべきところなのである。

 問題をなあなあで済ましてはいけない。
 放射線防護活動は、社会の対立をあぶり出し、和を乱す。そこでは、ひとりひとりの態度が問われ、試される。このことが、社会を恐慌状態に陥らせている。そして、反差別の闘いも、そうなのだ。反差別の思想とは、みんなが仲良く同調して「和の精神」でいきましょうということではない。そうではなく、みせかけの「和」にひそんでいる嘘を告発し、対立を顕在化させることだ。
 「日本中が一つになって」、「福島のために」、「絆」、そんなものは反差別の思想とはまったく関係がない。そんな聞き心地のよい国民主義の迷信は、問題の解決に少しもつながらない。実際にどうだろう。「絆」という美辞麗句を繰り返して、福島の何が解決したのか。住民は遺棄されているだけではないのか。むしろこう言ってもいい。人々は福島とその周辺県が被っている差別を直視しないために、その差別と闘わないために、「絆」の唱和に逃げたのだ、と。