2010年12月7日火曜日

凡庸なものとの対決

月刊現代の後継誌『g2』の6号を買った。
「行動する保守」ウォッチャーの間で話題になっているルポ『「在特会」の正体』を読むためだ。著者の安田浩一氏は、「在特会」桜井誠の周辺取材を重ね、ついには出入り禁止になってしまうほど彼らを調べ尽くした人。桜井誠の生まれ故郷である福岡まで訪ね歩き、すごい情報量。このルポは「在特会」研究のための基礎資料になるだろう。今後、第二弾第三弾が期待される。

安田氏のルポを読んだ感想。
まず問題点。
桜井誠の生まれ故郷を詳細に紹介しているのはよいが、そこに重心が置かれすぎているようにも見える(紙数の問題でそうしたのかもしれないが)。また、中高年が主体となっている「在特会」のなかで、あえて若年層に目を向けてしまう(若年層の言動から結論を導こうとする)傾向があるようにも思う。これはもしかすると「ネットカルチャー=ユースカルチャー」「ネット右翼=若者」という理解からきているのかもしれない。
良かった点。
桜井誠の上京前の生い立ちを調べることで、階層秩序における彼の中間的位置が明らかになっている。ネット上の桜井ウォッチャーのなかでは、「筑豊出身=下層階級」というちょっと旧い読みかたが大勢を占めているが、このルポをよく読むと、彼は下層ではない。桜井の出身高校は普通科。偏差値も普通程度。桜井の家は母子家庭であるが、母親は再婚していない。再婚せずに自分の店を持って子供二人を育てたということは、経済的に成功していると言えるだろう。もちろん裕福ではない。桜井は大学進学をしていないが、それは経済的な理由からだったかもしれない。しかし大学進学こそしていないが、桜井は読み書きができるのである。我々の読み書きの基準に照らせば、桜井はおそろしく下層に見えるのだが、それは相対的な見え方の問題であって、一般的な基準に照らしてみれば、彼は知的にも経済的にもまずまずの中途半端な階層に位置している。

凡庸なものとの対決
安田氏のルポを読んで腹におちたのは、彼らがもつこの中途半端な位置感覚である。「在特会」をはじめとする「行動する保守」の中高年を見ていて感じるのは、なぜこんなに愚鈍なのに文章を書けるのだろう、なぜ読み書きができるのにこの水準にしか届かないのだろう、という違和感である。あれだけ大量の文章を書いて発表しているのに、それに見合うだけの内容も評価も得ることができない。むしろ書けば書くほど内容が失われ、軽蔑されてしまう。いったいなんのために書いているのか。この出口のない中途半端な知性は、ぞっとするような不全感を抱えておかしくない。
ベルナール・スティグレールが『象徴の貧困』で問題にしているのは、こういうことなのだろう。スティグレールが明らかにするのは、メディア社会によって蔓延する「耐え難い凡庸さ」、「自己愛の喪失」である。自己愛が弱く、他人からの承認を求めてさまよっているのは、具合の悪い若い女性ばかりではない。排外主義右翼の中高年は「承認欲求」の虜となって、書けば書くほど軽蔑されるような内容を飽くことなく書き続けている。その内容は一見すると過激だが、よく読むとありきたりな視点しかない。彼らは「マスコミ」を批判するが、それは彼らが「マスコミ」と全く別の視点を持っているからではなくて、むしろ「マスコミ」以上に「マスコミ」的な視点に留まっていて「マスコミ」(の承認)にこがれているからである。「国民」「防衛」「防犯」、うんざりするほど凡庸な奴らだ。
 知性、暴力、性愛が、それぞれに特異な視点を構成している傍らで、なにをとってもいまひとつの中途半端な中高年たちがのたうちまわっている。かつての「国民」の残骸、あるいは「国民」のゾンビ。
これら凡庸なものと対決しなくてはならない。