茶室(数寄屋造)の様式を完成させたのは安土桃山時代の茶人・千利休であるが、その特徴は極端に狭いつくりである。広さは二畳から四畳半、狭いものでは一畳というものもあるらしい。部屋の入り口も、なんだこりゃというぐらい低くて狭い。よく考えてみれば変な建物だ。近代(近世)の初期、日本の茶人はなぜこんな狭苦しい建物をつくったのだろうか。
ありそうな説明として思い当たるのは、「密談のための部屋」である。たしかにそうだ。大人が三人も入ればもういっぱいという部屋は、武将や有力商人が密談するために使われたと考えられる。
ただ、ここで言う密談は、現代の我々が考える密談とはちょっと違うような気がする。現代人が本当に秘密を保持したいとき、ああいう狭い部屋に籠って話すだろうか。私はかつて洞爺湖サミットの反対運動の準備に関わっていたとき、本当に警察に聞かれてはヤバい話をするために呼び出されたが(そのヤバい計画はその場で断ったが)、このときの話し合いは、先方の指定にしたがって大きな公園の原っぱでやった。周りに人がいない、人が近づいて来てもすぐにわかる、見晴らしの良い原っぱの中心で、普段よりも声を落として話した。
安土・桃山時代でもそのへんの事情は変わらないはずだ。当時は忍者が活躍した時代でもあって「壁に耳あり障子に目あり」だ。密談をするのならむしろ建物を避けて、馬に乗って野駈けにいくとか、あるいは小舟に乗ってちょっと沖に出るとかして、広い空間に身を置いた方がいいだろう。だから、もし本当に秘密を保持したい「密談」であれば、茶室のような建物はちょっと違うのではないかと思うのだ。
これは私の推測だが、茶人たちが求めた「密談」というのは、人の出入りの多い書院造り(座敷)と比較して、相対的にプライバシーが確保されるという意味での「密談」なのではないか。この時代の武将は、下っ端ならともかく偉くなっちゃったら、つねに従者を侍らせていて一人になる機会が少ない。地位が高くなれば誰かと一対一で話すという機会はほとんどないし、組織としても許されなかっただろう。おそらく茶室という極端に狭い空間は、野駈けや舟遊びでは得られない、少数のプライベートな交わりを実現するためにあったのだろうと想像できる。
日本の茶室から約一世紀ほど先行して、イギリスではクローゼットが生まれていた。クローゼットは現在では衣類棚や押し入れという意味だが、当時は私室であった。クローゼットは住宅の最も奥に作られ、女中はもちろん家族すらも入れない、家長だけの完全な個室として使用された。ここで一人になって休んだり、本を読んだり、手紙を書いたりしたのだ。フランスではイギリスより少し遅れて、キャビネが生まれる。キャビネも現在では戸棚という意味だが、当時は家長のための私室として作られた。
16世紀には、英仏の上流階級では私室をもつことが普通になった。つまりプライバシーという感覚が共有され、プライベートな空間が実現していったのだ。これに少し遅れて、日本では茶室(数寄屋造)が生まれたわけだ。
さて、なんでいまこんな文章を書いているかというと、たまたまいま読んでいる時代小説に茶室が出てきたから。白石一郎の小説『海将』を読んでいたら、小西行長が茶室で喋っていた。
ただそれだけ。オチはない。
おまけ
追記
現在の日本では個室付きの住宅が珍しくなくなったが、そうした場合でも個室は子供部屋などに限定される。ほとんどの人(成人)は個室をもたず、かわりに自家用車やネットカフェや個人旅行で代用している。
いま排外主義右翼の中高年や関西人が頭の悪さをさらけだしている件で言えば、私は彼らの知能が残念なのはもっぱら教育機会の問題だと考えていたのだが、もしかしたら彼らは個室で過ごした経験がないのかもしれない。喧噪を離れて、つまり環境を離れて、一人で想い考えるという経験がだ。これは教育問題である以前に、住宅問題だったりして。と、いま思った。この場合「ネットにかじりつく人間=ひきこもり」という図式はあてはまらなくて、むしろ、彼らは充分にひきこもったことがないのかもしれない。あの動物のような、内省のなさ。とくに関西右翼に顕著。彼ら、内省って感覚、知ってるかな。疎外とか内省とかと無縁な、ひょっとして500年前の下層階級の生活世界がそのまま現代にも持ち越されているのだとして、その表出もまたデモクラシーのひとつなのかもしれないが、いやいや惨めな話だ。うんざりだ。