2020年4月3日金曜日

ワクチン主義と家事労働




 科学史家イザベル・スタンジェールは、著書『科学と権力』の冒頭で、パスツール研究所の成立過程を振りかえっている。
 と、いまその本を探したのだが、本棚がめちゃくちゃで見つからない。なので、ここからはうろおぼえで書く。
 スタンジェールの整理によれば、パスツール研究所の成功のカギは、ワクチン開発とその商品化であった。そして、ワクチン商品の誕生によって後景化されたのは、環境整備の技法である。
 防疫の試みには二つのアプローチがあって、一つは衛生的な環境を整備する技法の確立、もう一つは種痘やワクチンの開発であった。勝利するのはワクチンである。なぜならワクチンは、経済的に大きな利益を生み出す商品になったからである。それにたいして、環境整備の技法は、商品化することのできないこまごまとした知見と実践である。それは普及力の高い知識であり、経済的な利益としては、手引書の売り上げ程度にしかならない。パスツール研究所を成功に導いたのは、ワクチン販売が生み出す莫大な利益であった。

 では、防疫への寄与度はどちらが高いのかというと、これは圧倒的に環境整備である。家畜の飲み水を清潔に保つこと、畜舎を清潔にすること、一つ一つは小さな、こまごまとした配慮の集積が、防疫を実現する。だが、環境整備は手間がかかる。これは、ワクチンのような一発打てば解決という商品ではなく、日常的な配慮と実践の積み重ね、言わば家事労働に近いものだ。
 パスツール研究所の成功は、ワクチン主義を上位におき、環境整備を下位におくという政治的ヒエラルキーを生み出してしまった。本当は、環境整備の方が寄与度は高いのだが。

 この政治的ヒエラルキーは、人間の医療現場に当てはめて言えば、医師と看護師の関係にあたるだろう。医師は、処方箋を書き薬剤を投与する。看護師は、ベッドや備品を清潔に保ち、患者の療養環境を整備する。政治的な決定権は、医師が独占している。この構図を、私たちは疑うことなく受け入れているのだが、本当にそれでいいのかという疑問もある。
 今次の新型ウイルス問題では、効果のある薬剤はなく、ワクチンもない。アメリカの製薬企業ジョンソン&ジョンソンがワクチン開発を開始したが、実用化は来年以降だという。こうなると当面は、医師の仕事はない。いま新型ウイルスに対抗する唯一の武器となるのは、環境を整備する看護師たちの技法である。部屋を適切に分割すること、汚れたシーツを適切な手順で洗うこと、備品・ドアノブ・手すりを清潔に保つこと、部屋を換気すること等々、細やかで厳密な配慮を積み重ねることだ。
 テレビには医師が登場し、新型ウイルスへの対処を論じている。これはいかにも制度的で的外れな編成だ。私たちが本当に聞きたいのは、医師の意見ではなく、看護師たちのアドバイスである。看護師がいまどのような実践を行っているのか。どんな方法が失敗し、どんな方法が奏功したのか、その知見が聞きたいのだ。