2020年4月20日月曜日

「俺はコロナだ」事件をどう解釈するか




 新型コロナウイルスが市中感染の段階に入ってから、愛知県では「俺はコロナだ」事件が多発している。
 「俺はコロナだ」事件とは、ドラッグストアや、スーパーマーケットや、市役所の窓口などで、訪問客が「俺はコロナだ」と通告して立ち去る、という事件だ。対応した人は強いショックをうけ、店では消毒作業に追われる。いま愛知県では、これが流行っている。
 興味深いのは、この種の事件の犯人は、もっぱら男性であるということだ。しかも若者ではなく、中高年の男性がこれをやるのだ。

 なぜ彼らは、「俺はコロナだ」と言うのか。
理由として考えられるのは3つ。
1、市中感染への恐怖心から
2、行動制限への反発心から
3、隔離措置の要求(期待)
 彼らを衝き動かしているのは、この3つの混合したものだと思われる。
1と2は、まあ、わかる。致死率の高い新型ウイルスは怖いし、行動制限は非常にフラストレーションがたまる。これは老若男女みな感じているところだ。だが、この2つだけでは、「俺はコロナだ」犯にはなれない。

 ここからは私の解釈だが、「俺はコロナだ」犯は、たんに表面的外形的な欲求不満を爆発させたのではない。もっと深い、人間の内奥にある、実存的な危機を経験している。それは、人間の自由と主体に関わる問題だ。
 市中感染は、各人の努力次第で予防することができる。私たちは将来、感染するかもしれないし、感染しないかもしれない。その運命のどちらかを、自分の手で獲得することができる。いや、自分自身の努力によってしか感染予防はできない。他人任せにしていたのでは、新型ウイルスの餌食になってしまうだろう。いま多くの人々は、新型ウイルスから自由であり、このまま自由であり続けるために主体的に感染予防に取り組まなければならない。そういう状況におかれている。
 これは、大変なことだ。自分が客体ではなく主体になるということを、突然強いられることになったのである。自分が自分の運命を主体的に生きる。そんな生き方をしてきた人間がどれだけいるだろうか。この社会は、そんな主体的な生き方を許す社会であっただろうか。いきなりやれと言われても、困ってしまうのだ。

 「俺はコロナだ」は、悲鳴である。
 愛知県民はいま深い危機を経験している。
おもしろい。