『Pirate Utopias』の第三章を訳している。32〜33ページがおもしろい。
訳したところまで掲載します。
(32)
長い間、アルジェはトルコに併合され、トルコ文化を吸収してきた。イエニチェリたちは、イスラム神秘主義ベクタシュ教団(ワインを用いた儀式を行うなど、いくぶん異端でもある教団)に属し、トルコ的シャーマニズムの特徴を示していた[Birge,1937] 。そもそも、イエニチェリ軍団の有名な行進曲は、イスラム神秘主義が発明したものだ。
ペレ・ダン(1630年代に捕虜の買い戻しのためアルジェに渡り、名目君主制の歴史を書いた聖職者)は、1634年、コンスタンティノープルから派遣されたアブ・アル=ハッサン・アリを、新しい三年ごとのパシャであると書き留めている。
「街は、彼に敬意を表し、よく整備された2隻のガレー船を送った。
港では500人の役人が出迎え、彼が上陸する際には、市の砦と40隻の海賊船が放つ1500の礼砲で迎えられた。
まず、イエニチェリ高官と政府の顧問をつとめる24名のアヤバシ(Ayabashis)が、2人のドラム奏者を引き連れて行進した。ここに、巨大な羽毛でターバンを飾り立てたブルクバシ(Bulukbashis)が2人づつ組になって続き、オダバシ(Odabashis)(6人のトルコ式オーボエと、フルート、シンバルで構成されたムーア人の楽隊)が続いた。この楽隊のアンサンブルは、我々にとっては奇妙な騒音といったもので、喜びよりも強い恐怖を感じさせるものだ。最後に、平和を象徴する白のローブをまとって、新しいパシャがやってきた。
(32)
(33)
彼はすばらしいバーバリー馬に股がり、その鞍、拍車、あぶみ、手綱は、ターコイズと宝石でちりばめられていた。行列は街に入り、パシャのために用意された邸宅まで行進した。」[スペンサー,1976]
楽隊の奏でる音楽が「我々」ヨーロッパ人にとって恐怖を感じさせる、と言及されているのが興味深い。イエニチェリの軍楽隊が初めて記録にあらわれるのはウィーン攻城戦であるが、このときキリスト教徒の兵士は、軍楽隊の音を聴いただけで恐怖に駆られ逃げだしたという。オジャックの海賊船が軍楽隊を乗せていたかどうかは興味深いところだ(アルジェのイエニチェリは敵船に乗り込み制圧するための兵士として海賊船に乗っていた)。17・18世紀にカリブ海とインド洋で活躍したヨーロッパ人海賊は、音楽が非常に好きでそのための専門の楽士を雇っていたのだが、この場合は、音楽は心理戦の兵器であ
るというよりも、むしろ音楽それ自体を楽しんでいたようだ。(註8)
(註8)
スペンサーはアルジェで聴いたさまざまな音楽について書き残している。
「アルジェの音楽は、主にオスマン帝国の軍隊から生まれた。オジャックの軍楽隊は27人の楽士で構成されていた。ダウル(davul)と呼ばれる大太鼓が8、ティンパニ[ナッカーレ ]が5、らっぱ(bugles)が10、トランペットが2、そしてシンバルが2である。音楽はリズムを強調したスタイルで、オスマン帝国軍の力と華麗さを誇示するものとして、軍楽隊(メフテルmehter)とイエニチェリ軍団によって広められた。もう一つのタイプは、スペインを追われたモリスコによってもたらされたもので、ラウド、タール、レバブ[2弦のバイオリン]や、ネイ[アナトリアのメヴレヴィー教徒が使う半音階の葦笛]といった、東洋の楽器で構成されていた。この頃、アルジェのカフェでは20〜30人のアンダルシア人の楽隊を聴くことができた。
During the period of the Regency,Andalusian orchestras of twenty or thirty persons could often be heard in Algerian cafes,"playing all by ear,and hastening to pass the time quickly from one measure to another,yet all the while with the greatest uniformity and exactness,during a whole night", as Renaudot tells us.」
ベクタシュ教団
ダウル(davul)
ナッカーレ(nakkare)
bugles
ラウド('oud)
タール(tar)
レバブ(rebab)
ネイ(ney)
メヴレヴィー教徒(Mevlevi)
メフテル(mehter)
第3章は、オスマンやバーバリー地域についていろいろ調べながらやらなきゃいけない。いまわからなくて困っているのは、
Ayabashis
Bulukbashis
Odabashis
の3つ。調べても全然でてこない。調べ方が足りないのだろうが、まあ困ってる。ヘルプミーだ。
おまけ(00年代、反グローバリゼーション運動の一画にあらわれた楽隊)
2011年3月10日木曜日
2011年3月7日月曜日
ところで相撲の八百長っていけないのか?
スポーツ報道やスポーツファンというのは一般平均以上にバカが多いと私は思っているのだが、最近まったく不愉快でならないのは、相撲の八百長を糾弾するバカだ。
力士が連絡を取り合って勝敗を融通することの、なにがいけないのか。
さっぱり意味がわからない。
これが競馬や競艇で八百長をしているというのだったら、まあ、カネをスッて恨みをもつのはわかる。しかし、相撲だろ? 相撲は賭け事じゃないってことになってるわけで。まあ実際には相撲で賭博をやってるから怒ってるってことなんだろうが、そういうこと、堂々と言うなよ。ていうか、ついこのまえ力士たちの野球賭博を糾弾した舌の根も乾かないうちに、相撲の八百長を許せない(俺たちがやってる相撲賭博はOK)って、どういう神経なのか。
あと、いちおう忘れてる人のためにいうが、相撲は格闘技だからね。あんな重量級のおそろしい格闘技に対して「真剣にガチンコでやれ」っていう要求は、ものすごく野蛮な話だからね。古代ギリシャの剣闘奴隷みたいな娯楽を求めてるんだったら、現代日本ではそういうの禁止してますから、どこかよその時代に出てってください。力士はおまえらの奴隷じゃない。あーむかつく。
追記
つまるところ、相撲やプロレスに対して「八百長」だのなんだの言う奴ってのは、力についての理解が幼稚なのだと思う。力というのは、勝敗の結果ではない。競技は勝敗がすべてだと言うのならそれは、勉強は偏差値がすべてだと言うのとおなじぐらい貧しいことだ。幼稚な人間のためにわざわざ言うが、力というのはそんなことではない。嘘だと思ったら大学の先生に聞いて見ればいい。「勉強は試験がすべて」「大学は就職率がすべて」なんていう大学人はいません。相対的な優劣がどうのこうのというあさましい話ではなくて、力の絶対性というものがある。カラダつきがすげえとか、汗の量がハンパねえとか、教授の話してることが一言もわからないとか、そういう圧倒的な力に触れて人間は突き動かされるのだ。力を理解しない奴がよけいなチャチャをいれてしらけさせんな。じゃまだ。
力士が連絡を取り合って勝敗を融通することの、なにがいけないのか。
さっぱり意味がわからない。
これが競馬や競艇で八百長をしているというのだったら、まあ、カネをスッて恨みをもつのはわかる。しかし、相撲だろ? 相撲は賭け事じゃないってことになってるわけで。まあ実際には相撲で賭博をやってるから怒ってるってことなんだろうが、そういうこと、堂々と言うなよ。ていうか、ついこのまえ力士たちの野球賭博を糾弾した舌の根も乾かないうちに、相撲の八百長を許せない(俺たちがやってる相撲賭博はOK)って、どういう神経なのか。
あと、いちおう忘れてる人のためにいうが、相撲は格闘技だからね。あんな重量級のおそろしい格闘技に対して「真剣にガチンコでやれ」っていう要求は、ものすごく野蛮な話だからね。古代ギリシャの剣闘奴隷みたいな娯楽を求めてるんだったら、現代日本ではそういうの禁止してますから、どこかよその時代に出てってください。力士はおまえらの奴隷じゃない。あーむかつく。
追記
つまるところ、相撲やプロレスに対して「八百長」だのなんだの言う奴ってのは、力についての理解が幼稚なのだと思う。力というのは、勝敗の結果ではない。競技は勝敗がすべてだと言うのならそれは、勉強は偏差値がすべてだと言うのとおなじぐらい貧しいことだ。幼稚な人間のためにわざわざ言うが、力というのはそんなことではない。嘘だと思ったら大学の先生に聞いて見ればいい。「勉強は試験がすべて」「大学は就職率がすべて」なんていう大学人はいません。相対的な優劣がどうのこうのというあさましい話ではなくて、力の絶対性というものがある。カラダつきがすげえとか、汗の量がハンパねえとか、教授の話してることが一言もわからないとか、そういう圧倒的な力に触れて人間は突き動かされるのだ。力を理解しない奴がよけいなチャチャをいれてしらけさせんな。じゃまだ。
板橋の「賊」へ。
東京・板橋区で、警察官7人が1人の男を「制圧」して、殺した。
死んだ男の容疑は「自動販売機荒らし」。被害額は不明。男が逃走したので取り押さえ、足首を結束バンドで締めた、容態が悪化したので病院に搬送した、と警察は報告している。
現場で何があったのかは、まだはっきりわからない。きちんとした解剖が為されるかどうかも現在の時点ではわからない。
ただ、警察にありそうなこととして予想できるのは、「制圧」、容態の変化、救急車の要請、病院搬送まで、そうとう時間がかかっただろうということだ。こうした現場では、警察官は必要な応急措置をとらない。ただ無線をいじるだけだ。大の大人が7人もいて腕をこまねいているのかと思われるかもしれないが、7人もいるからこそ彼らはゆったりと傍観する。1時間でも2時間でも放置する。そうしたネグレクトが常態化したなかで、死ぬべきでない人間が死んだのだ。
警察に近しい場所に置かれた人間は、権力の言う「民主主義体制」がどれほど酷薄であるかを知る。
こうした場面では、兄弟愛(友愛)は机上の理想論ではなくて、実際に身を護るために必要な技法である。
近代国家が「官」と「賊」を分けたとき、また日々それを分けるとき、「賊」とされた者たちはなんらかの「兄弟」を構成する必要に駆られる。それが悪党であれ異端の教義であれ、国家暴力に剥き出しでさらされないためには、兄弟愛が要る。強い兄弟、強くなるための兄弟が。「自由・平等・兄弟愛」という理念は、人間が国家暴力とわたりあうための、民衆暴力の思想だ。
現代の腐った「民主主義体制」に挽き潰されないために、私たちはもっともっと人権意識を振りかざし、声をあげるべきだ。仲間を殺された板橋の「賊」の諸君には、ぜひ警察に一矢報いてほしい。必要なら弁護士を紹介する。カネは心配しなくていい。なんとかなる。
死んだ男の容疑は「自動販売機荒らし」。被害額は不明。男が逃走したので取り押さえ、足首を結束バンドで締めた、容態が悪化したので病院に搬送した、と警察は報告している。
現場で何があったのかは、まだはっきりわからない。きちんとした解剖が為されるかどうかも現在の時点ではわからない。
ただ、警察にありそうなこととして予想できるのは、「制圧」、容態の変化、救急車の要請、病院搬送まで、そうとう時間がかかっただろうということだ。こうした現場では、警察官は必要な応急措置をとらない。ただ無線をいじるだけだ。大の大人が7人もいて腕をこまねいているのかと思われるかもしれないが、7人もいるからこそ彼らはゆったりと傍観する。1時間でも2時間でも放置する。そうしたネグレクトが常態化したなかで、死ぬべきでない人間が死んだのだ。
警察に近しい場所に置かれた人間は、権力の言う「民主主義体制」がどれほど酷薄であるかを知る。
こうした場面では、兄弟愛(友愛)は机上の理想論ではなくて、実際に身を護るために必要な技法である。
近代国家が「官」と「賊」を分けたとき、また日々それを分けるとき、「賊」とされた者たちはなんらかの「兄弟」を構成する必要に駆られる。それが悪党であれ異端の教義であれ、国家暴力に剥き出しでさらされないためには、兄弟愛が要る。強い兄弟、強くなるための兄弟が。「自由・平等・兄弟愛」という理念は、人間が国家暴力とわたりあうための、民衆暴力の思想だ。
現代の腐った「民主主義体制」に挽き潰されないために、私たちはもっともっと人権意識を振りかざし、声をあげるべきだ。仲間を殺された板橋の「賊」の諸君には、ぜひ警察に一矢報いてほしい。必要なら弁護士を紹介する。カネは心配しなくていい。なんとかなる。
2011年3月4日金曜日
翻訳って疲れる。
明日、3月5日(土)は、海賊研究会ですよー。
あー頭が疲れたよー。すすまなーい。担当分がまだ終わらなーい。
とりあえずいまできてるところまでアップしまーす。
もうちょっと訳してからメーリングリストにも流しまーす。
ピラテユートピアス、第三章。
ーーーーーーーーーーーーーー
(27)
第三章 暗殺による民主主義
チュニス、トリポリ、とりわけアルジェは、サレよりもずっと多く研究されてきた。地中海岸の諸国については、膨大な文献が簡単に探し出せるだろうし、それほど時間を費やすこともなく詳細を知ることができるだろう。海賊の歴史書のほとんどは、アルジェについて書いているし、その歴史に多くをさいている。
サレ(ヨーロッパから遠くあまり注目されなかった)は、単によく知られていなかったのだが、その政治的独立は私たちの興味をひく。そして、サレは私たちがこれから知る必要のある大きな構図の一部なのである。
ブリタニカ百科事典(1953年版)には(このバーバリー海賊の項目ではサレは言及されていないが)こう書かれている。
「北アフリカ沿岸の海賊勢力は、16世紀に増加し、17世紀には頂点に達し、18世紀全体を通じて徐々に減っていき、19世紀には消滅した。アルジェリアとチュニジアの
(27)
(28)
沿岸都市は、1659年以来、トルコ帝国の一部ということになっていたが、実際には、「無政府的」(anarchical)武装集団が支配し、略奪によって暮らしていた。略奪事業は複数の船長に指揮され、彼らは官位を持ち行政組織すら形成した。
船は、資本家によって用意され、船長に指揮された。
パシャ(オスマンの高官)か、それにかわる者ーアーガ(軍司令官)か、デイ(アルジェ大守)か、ベイ(地方長官)ーは、獲得した利益の10%を受け取っていた。(中略)
17世紀まで、海賊たちはガレー船を使っていたが、フランドル人のレネゲイド、サイモン・ダンサーが帆船の利点を教えた。17世紀の前半世紀にアルジェだけで2万人を超える人質を捕獲した。金のある者は身請けして解放されたが、貧しい者は奴隷にされた。
多くの場合、イスラム教への改宗によって自由になることは認められなかった。
19世紀の初め、トリポリタニアは、アメリカ合衆国との戦争によって、海賊行為のつけを払わされる。1815年の講和のあと、イギリスはアルジェリア海賊の鎮圧を試みたが、結局それはフランスがアルジェリアを占領する1830年まで続いた。」
(28)
(29)
イスラム教が「モハンマダニズム」と呼ばれていることに注意しよう。
海賊的「モハンマダンズ」は「多くの場合」改宗を認めなかった。論理的に推論すると、いくつかの場合は認められたということだ。しかし、そんな推論は避けられているし、「モハンマダンズ」と海賊はもっぱら否定的にしか語られない。
ここでは、あまり適切とは言えないしかたで、「無政府的」と「資本家」という二つの興味深い政治的用語が使われている。
「資本家」という言葉は、18世紀から19世紀に私掠船国家の経済を沸かせた貿易船とその船主である船長たちを説明している。さらに、ここで「無政府的」というとき、これはただたんに「無法状態」を指すために使っていると思われる。
アルジェはオスマン帝国に属していて、言葉の厳密な意味で、無政府的な組織に達することはなかった。「無政府状態」で満たされていたとき、なんらかの継続的で安定的な内政がなければ、アルジェが「私掠船国家」としてあり続けることができただろうか。
以前のヨーロッパ中心の歴史家と扇情的な書き手たちが海賊について書くとき、アルジェとは、ひっきりなしに興奮したどん欲な集団の国である。最近の狂信的でない学者(ウィリアムスペンサーのような)は、アルジェの安定性を強調し、持続的な成立を可能にした理由を探求する傾向が強い。北アフリカに適用される「無政府的」という用語に対する疑似道徳主義の恐怖は、歴史家たちがしばしば18世紀から19世紀にかけてのヨーロッパの帝国主義と植民地主義(真に恐ろしい強奪)を正当化するという隠れた傾向を示している。
もしアルジェが掃き溜めと見なされるのなら、それは、ヨーロッパに始まりアフリカと他の植民地に拡大する「文明化」なるものを信仰するかぎりにおいてそうなのだ。
(29)
(30)
したがって、たんなる「無法者」ムーア人の海賊行為に対して、ヨーロッパの白人クリスチャンのえせ合理主義者や護教論者によって書かれた海賊の歴史の多くは、再検証する必要がある。
実際は、アルジェの政府は無政府的、無政府主義的で、思いがけない方法で奇妙な民主主義を形成したのだ。
ヨーロッパが絶対主義にじわじわと圧倒されていく時代、非ヨーロッパ諸国のアルジェは、より「水平的」で平等主義的な社会構造を示していた。アルジェはトルコ帝国の支配に従属していたが、しかし都市国家の実際の施政はイエニチェリの軍人と有力な海賊によって運営され、ときには、スルタンの命令を伝える代理人をイスタンブールに追い返していた。
アルジェ、チュニス、トリポリの名目君主制(regency)と保護領の広がりは、それらが外国人によって担われていたのだということ、そしてそれは擬似的な植民地と呼ぶべきものだったのかもしれないという確信にいたる。アルジェでは、オジャック(Ocak)やイエニチェリ(近衛歩兵軍団)は、土着の者(ムーア人、アラブ人、ベルベル人)ではなく、「トルコ人」と括られる者たちによって統制されていた。しかしさらに複雑なことに、イエニチェリ軍団は、
(30)
(31)
アナトリア人でないばかりか、生まれながらのムスリムですらなく、このスルタンの奴隷は、アルバニアのようなオスマン帝国の辺境で「少年税」の名目で徴発された子供たちだった。彼らは訓練され、イスラム教に改宗し、初めはオスマンの近衛兵として使用された。アルジェの名目君主制(regency)を担ったバルバロッサ兄弟は、おそらくアルバニアか、ギリシャの島嶼部から連れてこられたのだ。彼らはアルジェの兵団にアナトリア人の新兵を迎える許可を得ていたが、ほぼヨーロッパ人のレネゲイド(改宗者)で占められていたことは疑いない。
オジャック(ocak)は、マルタ島の聖ヨハネ騎士団のように、十字軍遠征によって生まれた独立軍団である。オジャックには北アフリカ出身の兵士はいない。イエニチェリの兵士が土着の娘と結婚して子供をもうけた場合、その子供はオジャックに入団することはできないことになっていた(混血児の兵士が幾度か叛乱を起こしたことがあるが)。土着のアルジェリア人は海賊と同様に地位と権力を得ていたが、軍の管理者になることはできなかったのである。
19世紀最後のアルジェリア海賊であるハミダ・レイスは、純粋なベルベル人だった。しかし、彼のような存在はアルジェでは例外であった。多くの場合、オジャックの「民主主義」はアルジェリア人を除外していたし、さらにはオジャックが「トルコ」から独立してあろうとするために、彼らはアルジェリア人を監視していた。これが一種の植民地であったとして、それでも彼らは(のちのフランス統治時代とは違って)この土地を母国としていた。そしてこの「トルコ人」は、19世紀のどんな植民者たちよりも、現地人に近かった。ムーア人やベルベル人がどれほど「トルコ人」を嫌っていても、スペインやフランスの艦隊が迫ったときには、彼らは力を合わせた。
アルジェの体制をサレと比較してみたい。おそらくその一部はサレに似せてつくられている。しかし、アルジェとオスマン帝国の結びつきを考慮すると、
(31)
(32)
この比較はあまり得るものがないだろう。長い間、アルジェはトルコ文化に併合されてきた。
(33)未訳
(34)未訳
(35)未訳
(36)未訳
(37)
ディバンと同格のものとして、タイフ(船長評議会)があった。残念ながら、海賊たちは官僚でなかったし記録を残す術もなかったので、ディバンだけがよく知られている。
タイフはよく中世のギルドと比較されるが、それが見落としているのは、この海賊たちの原=労働組合が、統治権力の事実上の上部組織であったという事実である。ディバンとタイフは権力を争って競合したり衝突したりしながら、どちらかが離反するような危険は冒さないという関係であった。海賊は、政治的保護・資金・紋章(menat-arms)の供給をオジャックに依存していた。ディバンは、海賊がもたらす戦利品と身代金で繁栄し、海賊経済に多くを支えられていたから、タイフが必要であった。タイフ制度についてはほとんどわかっていないのが残念なのだが、どうやらサレのディバンは、アルジェのタイフ制度(というよりもオジャックのディバン制度)を基にしているようだ。オジャックと異なるのは、上部組織の縛りが明らかに働いていないということだ。サレの船長は、純粋な功績か、海賊が呼ぶような「運の良さ」で、一隻か二隻の船を分捕った船長だった。ハミダ・レイスのような卑しい水夫たちは、出自や人種に関わらず誰もが、いつか自分の艦隊を率いることを望むことができた。
(37)
(38)
そしてサレのタイフは、問題解決とリーダーの選出に際して、民主的な投票を行ったのである。
概観してみると、16世紀から17世紀にかけて、アルジェリア人が行ったディバンとタイフという「二院制」の形式は、アメリカとフランスの共和制の先駆とみなすことができて(それは一世紀も離れていない)、サレの真の共和制は、イギリス清教徒革命(1640年〜50年代)後の保護国/連邦構造にも先行しているのである。
奇妙な考えかもしれないが、ヨーロッパのデモクラシーは、海賊たちに直接に負うものがあるのではないだろうか。もちろんバーバリーの海賊たちは野蛮人であったのだが、しかし誰もはっきりと認めることはなかったが、レディカーが指摘するように、水夫たちは17世紀のプロレタリアートであり、船から船へと往来する人々のなかに(イギリスは1637年にサレに船団を派遣している)、海賊とレネゲイドたちの自由のささやきを聞くことができるかもしれないのだ。
(38)
(第3章ここまで)
あー頭が疲れたよー。すすまなーい。担当分がまだ終わらなーい。
とりあえずいまできてるところまでアップしまーす。
もうちょっと訳してからメーリングリストにも流しまーす。
ピラテユートピアス、第三章。
ーーーーーーーーーーーーーー
(27)
第三章 暗殺による民主主義
チュニス、トリポリ、とりわけアルジェは、サレよりもずっと多く研究されてきた。地中海岸の諸国については、膨大な文献が簡単に探し出せるだろうし、それほど時間を費やすこともなく詳細を知ることができるだろう。海賊の歴史書のほとんどは、アルジェについて書いているし、その歴史に多くをさいている。
サレ(ヨーロッパから遠くあまり注目されなかった)は、単によく知られていなかったのだが、その政治的独立は私たちの興味をひく。そして、サレは私たちがこれから知る必要のある大きな構図の一部なのである。
ブリタニカ百科事典(1953年版)には(このバーバリー海賊の項目ではサレは言及されていないが)こう書かれている。
「北アフリカ沿岸の海賊勢力は、16世紀に増加し、17世紀には頂点に達し、18世紀全体を通じて徐々に減っていき、19世紀には消滅した。アルジェリアとチュニジアの
(27)
(28)
沿岸都市は、1659年以来、トルコ帝国の一部ということになっていたが、実際には、「無政府的」(anarchical)武装集団が支配し、略奪によって暮らしていた。略奪事業は複数の船長に指揮され、彼らは官位を持ち行政組織すら形成した。
船は、資本家によって用意され、船長に指揮された。
パシャ(オスマンの高官)か、それにかわる者ーアーガ(軍司令官)か、デイ(アルジェ大守)か、ベイ(地方長官)ーは、獲得した利益の10%を受け取っていた。(中略)
17世紀まで、海賊たちはガレー船を使っていたが、フランドル人のレネゲイド、サイモン・ダンサーが帆船の利点を教えた。17世紀の前半世紀にアルジェだけで2万人を超える人質を捕獲した。金のある者は身請けして解放されたが、貧しい者は奴隷にされた。
多くの場合、イスラム教への改宗によって自由になることは認められなかった。
19世紀の初め、トリポリタニアは、アメリカ合衆国との戦争によって、海賊行為のつけを払わされる。1815年の講和のあと、イギリスはアルジェリア海賊の鎮圧を試みたが、結局それはフランスがアルジェリアを占領する1830年まで続いた。」
(28)
(29)
イスラム教が「モハンマダニズム」と呼ばれていることに注意しよう。
海賊的「モハンマダンズ」は「多くの場合」改宗を認めなかった。論理的に推論すると、いくつかの場合は認められたということだ。しかし、そんな推論は避けられているし、「モハンマダンズ」と海賊はもっぱら否定的にしか語られない。
ここでは、あまり適切とは言えないしかたで、「無政府的」と「資本家」という二つの興味深い政治的用語が使われている。
「資本家」という言葉は、18世紀から19世紀に私掠船国家の経済を沸かせた貿易船とその船主である船長たちを説明している。さらに、ここで「無政府的」というとき、これはただたんに「無法状態」を指すために使っていると思われる。
アルジェはオスマン帝国に属していて、言葉の厳密な意味で、無政府的な組織に達することはなかった。「無政府状態」で満たされていたとき、なんらかの継続的で安定的な内政がなければ、アルジェが「私掠船国家」としてあり続けることができただろうか。
以前のヨーロッパ中心の歴史家と扇情的な書き手たちが海賊について書くとき、アルジェとは、ひっきりなしに興奮したどん欲な集団の国である。最近の狂信的でない学者(ウィリアムスペンサーのような)は、アルジェの安定性を強調し、持続的な成立を可能にした理由を探求する傾向が強い。北アフリカに適用される「無政府的」という用語に対する疑似道徳主義の恐怖は、歴史家たちがしばしば18世紀から19世紀にかけてのヨーロッパの帝国主義と植民地主義(真に恐ろしい強奪)を正当化するという隠れた傾向を示している。
もしアルジェが掃き溜めと見なされるのなら、それは、ヨーロッパに始まりアフリカと他の植民地に拡大する「文明化」なるものを信仰するかぎりにおいてそうなのだ。
(29)
(30)
したがって、たんなる「無法者」ムーア人の海賊行為に対して、ヨーロッパの白人クリスチャンのえせ合理主義者や護教論者によって書かれた海賊の歴史の多くは、再検証する必要がある。
実際は、アルジェの政府は無政府的、無政府主義的で、思いがけない方法で奇妙な民主主義を形成したのだ。
ヨーロッパが絶対主義にじわじわと圧倒されていく時代、非ヨーロッパ諸国のアルジェは、より「水平的」で平等主義的な社会構造を示していた。アルジェはトルコ帝国の支配に従属していたが、しかし都市国家の実際の施政はイエニチェリの軍人と有力な海賊によって運営され、ときには、スルタンの命令を伝える代理人をイスタンブールに追い返していた。
アルジェ、チュニス、トリポリの名目君主制(regency)と保護領の広がりは、それらが外国人によって担われていたのだということ、そしてそれは擬似的な植民地と呼ぶべきものだったのかもしれないという確信にいたる。アルジェでは、オジャック(Ocak)やイエニチェリ(近衛歩兵軍団)は、土着の者(ムーア人、アラブ人、ベルベル人)ではなく、「トルコ人」と括られる者たちによって統制されていた。しかしさらに複雑なことに、イエニチェリ軍団は、
(30)
(31)
アナトリア人でないばかりか、生まれながらのムスリムですらなく、このスルタンの奴隷は、アルバニアのようなオスマン帝国の辺境で「少年税」の名目で徴発された子供たちだった。彼らは訓練され、イスラム教に改宗し、初めはオスマンの近衛兵として使用された。アルジェの名目君主制(regency)を担ったバルバロッサ兄弟は、おそらくアルバニアか、ギリシャの島嶼部から連れてこられたのだ。彼らはアルジェの兵団にアナトリア人の新兵を迎える許可を得ていたが、ほぼヨーロッパ人のレネゲイド(改宗者)で占められていたことは疑いない。
オジャック(ocak)は、マルタ島の聖ヨハネ騎士団のように、十字軍遠征によって生まれた独立軍団である。オジャックには北アフリカ出身の兵士はいない。イエニチェリの兵士が土着の娘と結婚して子供をもうけた場合、その子供はオジャックに入団することはできないことになっていた(混血児の兵士が幾度か叛乱を起こしたことがあるが)。土着のアルジェリア人は海賊と同様に地位と権力を得ていたが、軍の管理者になることはできなかったのである。
19世紀最後のアルジェリア海賊であるハミダ・レイスは、純粋なベルベル人だった。しかし、彼のような存在はアルジェでは例外であった。多くの場合、オジャックの「民主主義」はアルジェリア人を除外していたし、さらにはオジャックが「トルコ」から独立してあろうとするために、彼らはアルジェリア人を監視していた。これが一種の植民地であったとして、それでも彼らは(のちのフランス統治時代とは違って)この土地を母国としていた。そしてこの「トルコ人」は、19世紀のどんな植民者たちよりも、現地人に近かった。ムーア人やベルベル人がどれほど「トルコ人」を嫌っていても、スペインやフランスの艦隊が迫ったときには、彼らは力を合わせた。
アルジェの体制をサレと比較してみたい。おそらくその一部はサレに似せてつくられている。しかし、アルジェとオスマン帝国の結びつきを考慮すると、
(31)
(32)
この比較はあまり得るものがないだろう。長い間、アルジェはトルコ文化に併合されてきた。
(33)未訳
(34)未訳
(35)未訳
(36)未訳
(37)
ディバンと同格のものとして、タイフ(船長評議会)があった。残念ながら、海賊たちは官僚でなかったし記録を残す術もなかったので、ディバンだけがよく知られている。
タイフはよく中世のギルドと比較されるが、それが見落としているのは、この海賊たちの原=労働組合が、統治権力の事実上の上部組織であったという事実である。ディバンとタイフは権力を争って競合したり衝突したりしながら、どちらかが離反するような危険は冒さないという関係であった。海賊は、政治的保護・資金・紋章(menat-arms)の供給をオジャックに依存していた。ディバンは、海賊がもたらす戦利品と身代金で繁栄し、海賊経済に多くを支えられていたから、タイフが必要であった。タイフ制度についてはほとんどわかっていないのが残念なのだが、どうやらサレのディバンは、アルジェのタイフ制度(というよりもオジャックのディバン制度)を基にしているようだ。オジャックと異なるのは、上部組織の縛りが明らかに働いていないということだ。サレの船長は、純粋な功績か、海賊が呼ぶような「運の良さ」で、一隻か二隻の船を分捕った船長だった。ハミダ・レイスのような卑しい水夫たちは、出自や人種に関わらず誰もが、いつか自分の艦隊を率いることを望むことができた。
(37)
(38)
そしてサレのタイフは、問題解決とリーダーの選出に際して、民主的な投票を行ったのである。
概観してみると、16世紀から17世紀にかけて、アルジェリア人が行ったディバンとタイフという「二院制」の形式は、アメリカとフランスの共和制の先駆とみなすことができて(それは一世紀も離れていない)、サレの真の共和制は、イギリス清教徒革命(1640年〜50年代)後の保護国/連邦構造にも先行しているのである。
奇妙な考えかもしれないが、ヨーロッパのデモクラシーは、海賊たちに直接に負うものがあるのではないだろうか。もちろんバーバリーの海賊たちは野蛮人であったのだが、しかし誰もはっきりと認めることはなかったが、レディカーが指摘するように、水夫たちは17世紀のプロレタリアートであり、船から船へと往来する人々のなかに(イギリスは1637年にサレに船団を派遣している)、海賊とレネゲイドたちの自由のささやきを聞くことができるかもしれないのだ。
(38)
(第3章ここまで)
2011年2月26日土曜日
2011年2月22日火曜日
OTOさんと対談
「eke-king」の企画で、OTOさんというミュージシャンと対談をした。OTOさんは昔「じゃがたら」というバンドでギターをやっていた人。「じゃがたら」は若いころ好きでよく聴いていたので、「うひょー」って感じで収録場所に行った。
OTOさんと話したのは、管内閣が進めようとしているTPP(環太平洋パートナーシップ協定)について。彼はTPPについて2時間ぶっとおしで話し続けた。とにかく怒っている。いろんな人に広めてほしいので太字で書くが、
OTOは、TPPに怒っている。
「日本がTPPに加わったら、もう終わりだ」と。
詳しい内容は後日「ele-king」に掲載される対談を読んでもらうとして、結論としては、OTOはTPP反対のために動くということだ。私も協力を約束した。
TPPに問題を感じているアーティスト・音楽関係者は、ele-kingまたは矢部まで連絡をください。
おまけ(じゃがたら)
OTOさんと話したのは、管内閣が進めようとしているTPP(環太平洋パートナーシップ協定)について。彼はTPPについて2時間ぶっとおしで話し続けた。とにかく怒っている。いろんな人に広めてほしいので太字で書くが、
OTOは、TPPに怒っている。
「日本がTPPに加わったら、もう終わりだ」と。
詳しい内容は後日「ele-king」に掲載される対談を読んでもらうとして、結論としては、OTOはTPP反対のために動くということだ。私も協力を約束した。
TPPに問題を感じているアーティスト・音楽関係者は、ele-kingまたは矢部まで連絡をください。
おまけ(じゃがたら)
2011年2月21日月曜日
グリゼットの一周年パーティー
今週末の25日(金)26日(土)、新宿のバー『グリゼット』が、開店一周年パーティーをやる。
グリゼット
『グリゼット』は、私が昔やっていたバー『じゃこばん』が廃業した後に、店舗を改装して始まったお店。二階の部屋をギャラリーにしているので、アーティストやキュレーター関係のお客さんが多い。昔の『じゃこばん』のお客さんも立ち寄るので、「頭のネジの切れた現代美術家+頭のネジの切れた左翼が飲んでいる店」になっている。年齢層は30〜40代が多く、気が楽なので、私も週に一度は行くようにしている。
店名の『グリゼット』というのは、19世紀市民革命の前夜にパリに登場したお針子さんのこと。グレーの亜麻の服を着た女たちという意味らしい。彼女たちは縫製の仕事で自立した女性たちで、元祖「職業婦人」である。身分は低くけっして裕福ではないが、自分の稼いだカネで自由に遊んだりしていたので、元祖「自由恋愛主義者」ともいえる。フランスの辞書には「おきゃんな娘」とある。「ギャル」の原型なのかもしれない。かつてアナキストやマルクス主義者は、右翼から「貞操観念を持たず家族を破壊する乱交エロ集団」よばわりをされたのだが、そういう道徳的な攻撃がなされたのは、おそらく当時の社会のなかでグリゼットのような「新しい女たち」が無視できないほどに成長していたからだろう。私は海賊研究者なのであんまり知ったかぶりはできないが、女性史や「魔女研究」の分野では「グリゼット」はとても重要な人たちなんだと思う。
詳しいことは、『娼婦の肖像ーロマン主義的クルチザンヌの系譜』(村田京子著、新評論)を読んでください。と、店主が言っていた。
で、能書きはともかく、今週末は花束を買って『グリゼット』に集合。海賊研究者も、たまには粋なことしなくちゃなだ。
おまけ(フランス映画)
グリゼット
『グリゼット』は、私が昔やっていたバー『じゃこばん』が廃業した後に、店舗を改装して始まったお店。二階の部屋をギャラリーにしているので、アーティストやキュレーター関係のお客さんが多い。昔の『じゃこばん』のお客さんも立ち寄るので、「頭のネジの切れた現代美術家+頭のネジの切れた左翼が飲んでいる店」になっている。年齢層は30〜40代が多く、気が楽なので、私も週に一度は行くようにしている。
店名の『グリゼット』というのは、19世紀市民革命の前夜にパリに登場したお針子さんのこと。グレーの亜麻の服を着た女たちという意味らしい。彼女たちは縫製の仕事で自立した女性たちで、元祖「職業婦人」である。身分は低くけっして裕福ではないが、自分の稼いだカネで自由に遊んだりしていたので、元祖「自由恋愛主義者」ともいえる。フランスの辞書には「おきゃんな娘」とある。「ギャル」の原型なのかもしれない。かつてアナキストやマルクス主義者は、右翼から「貞操観念を持たず家族を破壊する乱交エロ集団」よばわりをされたのだが、そういう道徳的な攻撃がなされたのは、おそらく当時の社会のなかでグリゼットのような「新しい女たち」が無視できないほどに成長していたからだろう。私は海賊研究者なのであんまり知ったかぶりはできないが、女性史や「魔女研究」の分野では「グリゼット」はとても重要な人たちなんだと思う。
詳しいことは、『娼婦の肖像ーロマン主義的クルチザンヌの系譜』(村田京子著、新評論)を読んでください。と、店主が言っていた。
で、能書きはともかく、今週末は花束を買って『グリゼット』に集合。海賊研究者も、たまには粋なことしなくちゃなだ。
おまけ(フランス映画)
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