2023年6月10日土曜日

原発問題をめぐる抵抗感について

 


 

 原発事故の賠償請求訴訟に支援者としてかかわって、5年ほどたつ。

全国に30ほどある賠償請求訴訟のなかでも、名古屋の訴訟団はとくに明解な運動方針を打ち出し、注目を集めている。しかし、裁判闘争への支持がひろく集まっているかというと、まだ端緒についたばかりという段階だ。

原発問題について人々は積極的に関わろうとはしない。事故から12年たって問題が風化したから、というのではない。争点が複雑で理解が難しい、というわけでもない。争点はむしろ単純で、説明する余地がないほどだ。

ではなぜ人々は原発問題に触れようとしないのか。問題は、政治やイデオロギーよりも深い地層にあって、これを理解するには社会学的な分析を必要とするだろう。あるいは、精神分析を援用した「分裂分析」(ガタリ)のような手法が必要になるのかもしれない。おそらく現在の日本社会を覆っているのは、複雑な政治対立ではなく、対立の不全である。

 


2011年3月から現在まで、日本は原子力緊急事態宣言下にある。原子力緊急事態宣言下では、原子力基本法は死文化している。原子力基本法では、一般公衆の放射線被ばくは禁止されているが、緊急事態宣言下では公衆の被ばく受忍が容認され、推奨されてもいる。政府は年間20mSV未満の放射線被ばくを認め、重汚染地域への住民帰還政策を進めている。また、1kgあたり100Bq未満の汚染食品は流通可能になっていて、これを拒否すると「風評加害だ」といって論難されるのである。

こうした被ばく受忍の基準(実際には基準なき被ばく放任だが)について、国会で議論されたことは一度もない。政府は被ばく防護を被ばく受忍へと書き換える、決定的な方針転換をしたのだが、国会でこれが議論されたことは一度もない。すべては内閣府の権限で、一方的に、上意下達に、被ばく受忍の政令が発せられているのである。緊急事態宣言下では、これは「合法」となっている。そして内閣府が宣言を解除するまで、「緊急事態」が続くのである。

 

 自民党政権の安保政策を批判する集会に行って、この話題をふってみるといい。驚くほど無反応である。安保の「緊急事態条項」の違憲性について精密に論じている人々であっても、原子力緊急事態宣言の違憲性については、口ごもる。「緊急事態」と称した行政権力の暴走を批判するにあたって、原発問題はこれ以上ない事例だと思うのだが、人々はなぜかこの問題を避けようとするのである。

問題は、この緊急事態宣言が福島「復興」政策と一体であるということだ。福島「復興」は、被害地住民と全国民の被ばく受忍を前提に組み立てられている。原子力緊急事態宣言を解除してしまうと、福島「復興」というプランは根本から再検討する必要に迫られることになるのだ。


 

2012年、民主党・野田政権が号令した福島「復興」政策は、問題だらけである。

問題点を三つあげる。

問題の第一は、放射性物質を蓄えた福島第一原発の封じ込めが完了しないまま、福島「復興」という目標を掲げたことである。事故から12年たった現在も、福一の封じ込めはできていない。汚染地域の除染作業をおこなっても、再び福一の崩壊が起きれば元の木阿弥である。

第二に、「復興」事業の達成期限がない。何年までに復旧を完了させ、事故前の生活に戻るというゴールが、まったく示されていないのである。だから、事故から12年たった現在でも「復興は途半ば」という状態で、今後おそらく数十年は「途半ば」を言い続けることになる。

第三に、最大の問題は、「復興」事業の責任主体が限定されていないことである。放射能汚染を被った地域を元の状態に復旧させるというのは、非常に危険で困難な作業なのだが、政府はこれを東京電力ではなく被害住民にやらせてしまっている。また、全国から復興ボランティアを動員し、あたかも国民全体が福島復興の主体であるかのような構図をつくりあげてしまった。野田政権は、災害復旧に取り組んできたボランティア活動の手法を、原子力公害の復旧作業にも援用したのである。それがもたらした効果は、復旧への寄与ではなく、復旧の責任主体を曖昧にすることであった。全国民が福島再生に取り組むという美しい物語によって、政府と東京電力の責任は曖昧にされ、誰も彼もが無責任になってしまった。結局、土地を離れることのできない被害住民だけが、いつ完了するかわからない「復興」にむけた自助努力を強いられているのである。被害住民は12年もの間、がんばろうがんばろうと応援され続け、危険で無謀な試みを引き受けさせられてきたのだ。東京電力の不始末の尻拭いを被害住民にやらせることが、美談になったのだ。本末転倒な話だ。

 

話を冒頭に戻そう。安保法制の緊急事態条項に鋭く反応する反戦派(あるいはリベラル)の人々が、なぜ、原子力緊急事態宣言の問題には口ごもってしまうのか、だ。

原子力緊急事態宣言を批判することは、すなわち同時に、福島「復興」政策の異常性を議論の俎上にあげるということである。そして人々が本当に避けているのは、「復興」政策の是非を議論することなのである。

もう少し踏み込んで別の言い方をすれば、福島「復興」政策を信じているか信じたふりをしている人々の社会的合意を基礎にして、原子力緊急事態宣言下の行政権力の暴走が可能になっているのである。この構図は、「復興翼賛体制」と呼ぶべきものだとおもう。

福島と原発をめぐる国の政策は、問題だらけである。批判的に検討すべきものが山ほどある。しかし福島「復興」への翼賛が、あるべき議論を抑制し、結果として不問にしてしまうのだ。

 

私たちが権力との対立の焦点とするべきは、ここである。

被ばく受忍を美談に仕立て上げた福島「復興」政策に、正面から対決しなければならない。

 

 

2023年5月31日水曜日

混乱はあるが、絶望はしていない

 

日本共産党は、党内の選挙で党首を選ぶべきではないか、党首選挙を行うことで党内の議論が公開され、そのことが党の求心力を高めるのではないか、という議論について。

 私は共産党員ではないので横から口を挟むことはしたくないのだが、傍観者として感想を言うなら、問題は党内民主主義の形式であるよりも、党の科学主義が空洞化しつつあるということなのではないかと思う。党の科学主義が求心力を失っていることが、「民主主義」の形式の問題として表出したのではないか。

私たちのような無政府主義者からみれば、「党首公選制」など議論に値しないまったくナンセンスな提起なのだが、そうした提起がなされてしまう程度に、共産党の科学主義(啓蒙主義)が衰弱してしまっているのだろう、と解釈している。

 

 今回の共産党の騒動は、時代の趨勢をあらわす一つのエピソードとして見るべきだと思う。時代の趨勢とは、反科学主義・反啓蒙主義が、「民主主義」の主張をまとって攻勢を強めているという状況である。

アメリカでは地動説や進化論を否定する宗教右翼が大統領選挙に強い影響力をもち、日本でもやはり反科学的な宗教右翼が政府の政策決定に影響力を行使している。19世紀の宗教右翼は民主主義を抑圧したが、現代の宗教右翼は「民主主義」を標榜し、多数決の議会制度によって科学主義と対抗するのだ。

私たちは古い観念にとらわれていて、科学と民主主義をニアイコールで結んでいる。しかし現代はそうした構図が通用しない。論ずるに値しないような反科学的な主張が、民主主義を要求するという形式で、声をあげているのである。現代は、科学的・啓蒙主義的な態度が「民主的でない」「専制的な態度」とみなされうるのだ。

 

 

 科学の論争も、民主主義をめぐる論争も、すべて裏返ってしまったように混乱している。

科学的には通用しない純粋に政治的な主張が、「科学」を僭称して科学者たちを圧迫する。歴史研究や放射能汚染問題においては、科学的に正当な見解が「非科学的」と論難され、非科学的な専門家のつぶやきが「科学」の権威をまとって喝采を浴びるという、ひどい状況である。

 

 大変な時代だな、と思う。

しかし、絶望はしていない。

科学と民主主義を結びつける確固とした経験を、私は経験したからだ。それは多くの人々の集団的な経験としてあって、そのことを誰も忘れていないからだ。

 

 

 

2023年5月10日水曜日

嘘つきの戦争報道

 


ウクライナのバハムートの戦いで、民間軍事会社ワグネルを統率するプリゴジンがトリッキーな動きをしている。プリゴジンはSNS上で、弾薬の供給が足りないとか、ワグネルの撤退を示唆するような発信をしている。

ウクライナのゼレンスキーは、プリゴジンの言うことはでまかせだと断定している。

だが、アメリカの戦争研究所は、このプリゴジンの言葉を真に受けて、ロシア軍内部に対立と統率の乱れがあるなどと的外れな「分析」をしている。

 

 普通に考えれば、プリゴジンがやっているのは「苦肉の策」である。

 「苦肉の策」とは、赤壁の戦いで呉軍が用いた計略で、部隊が忠誠心を失って敵に投降するという芝居をうって、敵を欺く方法だ。

話は中国の三国時代にさかのぼる。魏と呉が正面からぶつかった赤壁の戦い。呉の将軍黄蓋は、指揮官の周瑜に従わなかったとして鞭打ちの刑にあう。これを恨んだ黄蓋は、部隊を率いて魏軍に投降する。黄蓋の投降を信じた魏軍は、黄蓋の部隊を陣中深くに招き入れてしまう。陣中に入った黄蓋は、魏軍の船に次々と火をかけ、壊滅的な打撃を与えた。赤壁の戦いは呉の勝利となった。これが有名な「苦肉の策」だ。日本では、ゲームばっかりやっている男子中学生でも知っている、有名な故事だ。

 いまプリゴジンが狙うのは、ワグネルがロシア軍本体と対立し弱体化しているという芝居を打って、バハムートに敵軍をおびき寄せることだ。戦況の有利な土地にポーランド人部隊やアメリカ人部隊をおびき寄せ、決定的な戦果をあげたいのだ。

 ゼレンスキーは、これが見え透いた芝居であるとわかっている。

しかしアメリカの戦争研究所は、どうにもトンチンカンな見立てをしている。プリゴジンに騙されているのか、騙されたふりをしているのか。それともたんに「ロシア軍は弱い」と言いたいだけなのか。

 なにより不可解なのは、日本の戦争報道で解説者として登場する防衛省の分析官である。彼は日本人なのだから、赤壁の戦いも「苦肉の策」も知っているはずだ。なのに、英米の分析の間違いにまったく言及しない。英米の大本営発表に、右に倣えだ。

彼はものを知らないのではなく、嘘つきなのだ。

嘘つきが戦争を解説しているのだ。

 

2023年4月16日日曜日

白色テロル

  岸田首相の演説に殺傷力のない爆発物が投げ込まれた。

 犯人は24才。取り調べに対して黙秘しているという。

 犯行の様態と動機から考えて、統一協会の手の者に決まっている。

 統一協会は、朝日新聞阪神支局の殺傷事件とともに、中曽根首相(当時)に脅迫文を送りつけた疑惑がある。

 警察庁は、統一協会の壊滅作戦をやるだろうか。

 注視したい。


2023年4月10日月曜日

酒井さんの新刊『賢人と奴隷とバカ』

 


 献本をいただきました。ありがとうございます。

 


『賢人と奴隷とバカ』 

酒井隆史 著 

亜紀書房

 

 酒井隆史さんが過去10年に書いたエッセイをまとめたものです。

ラフに書かれたものとはいえ、当代一流の知識人が書いた「ラフ」な「メモ」です。毎月大量生産されているくっちゃべり新書の類と一緒にしてはいけません。彼が経験したこの10年の思索と懊悩が伝わってくる、非常に緊張感の高いエッセイ集です。

 どうせあれだろう、左翼知識人が世界の右傾化を嘆いてけしからん云々ってやつだろうと予断をもって読むと、やけどします。彼の懊悩はそんな表面的なものではありません。ざっくりいえば、「大学人も新聞記者もみんな死ねばいいのに」というレベルの話をしています。(こんな直接的な言い方はしていませんが)

 

 初めて読む読者にとっては、彼が何を問題にしているのかわかりにくいかもしれません。

しかし、こういうものは、慣れです。ゆっくりと時間をかけて何度か読みかえしているうちに、酒井氏(ら)の視座と、問題を扱う方法が、わかってきます。論じる際の手つき、空気感が、体にしみこんできます。

 人文科学というものがどれほどの奥行きをもっているのか、その一端を垣間見ることができます。

 

 

 

2023年3月29日水曜日

書評『核分裂・毒物テルルの発見』

 

 『核分裂・毒物テルルの発見 ―原爆/核実験/原発被害者たちの証言から』

山田國廣 著  藤原書店

 



 著者の山田國廣氏は、福島第一原発事故後のデータを解析し、核物質による健康被害を研究してきた科学者である。とくに、爆発直後に生成され短期間に壊変していった放射性物質(テルル・ヨウ素・キセノン)に強い関心をもって研究を続けている。

  本書で主張されているのは、放射性物質による内部被ばくとは別に、原子炉から放出された金属の化学毒が健康被害の要因になっているのではないか、という説である。初期被ばくの急性症状として報告された頭痛・めまい・吐き気・異常な倦怠感・鼻血・異常な皮膚症状は、有害金属に暴露・吸引したことによるものではないか、というのだ。この説は、放射線被ばくの影響を排除するものではなく、放射線被ばくと化学毒(鉱毒)が複合して、住民の健康被害を生み出したとするものだ。


 原子炉は核分裂反応を繰り返すことで、さまざまな物質を生成させている。放射性同位体が生成し、それらが壊変して安定同位体になり、さらにそれらが中性子を浴びて放射化する。原子炉に堆積していた代表的な物質をあげるだけでも、クリプトン(ガス)・キセノン(ガス)、放射性ヨウ素、安定ルビジウムと放射性ルビジウム、安定セシウムと放射性セシウム、安定テルルと放射性テルル、放射性アンチモン、安定ストロンチウムと放射性ストロンチウムがある。


著者の山田教授が特に注目するのは、安定テルルと放射性テルルである。

テルルは、原子炉に堆積していた質量としては、セシウムやストロンチウムには及ばない。セシウムが約200kg、ストロンチウムが約160kgにたいして、テルルは約30kg程度である。しかし、化学毒の強度において、テルルは最悪である。セシウムやストロンチウムの化学毒性が比較的無害とされるのにたいして、テルルの化学毒の半数致死量(LD50)は1~10mg。体重1kgあたり10mgを投与すると半数が死亡するという毒性を持つ。これは、カドミウムやクロム、鉛、水銀と同等の強い毒性である。

福島の原発事故では、テルルの化学毒によって死亡したというケースは考えにくいが、吐き気・異常な倦怠感・鼻血・皮膚の異常を引き起こすというのは充分にありそうな話だ。


ここで誤解がないようにくりかえし言っておかなければならないのは、この研究は放射線被ばくの影響を否定するものではないということだ。放射線被ばくによる健康被害はある。それに加えて、化学毒の被害もある、という主張だ。 私たちは、放射性物質と有害金属の複合汚染を経験しているということだ。



 原発事故後、東北や関東の各地で、子どもが大量の鼻血を出したとか、異常な疲労感ですぐに眠ってしまう、といった報告があった。こうした健康被害の証言は、「気のせい」、「心理的なストレスが要因」、あるいは、「反原発派によるデマ」といって頭ごなしに否定されてきた。否定派いわく、関東のような低い放射線量では人体に急性症状が出るわけがない、と。たしかに、放射線被ばくの効果だけでは、これらの症状は説明がつきにくいものだ。しかし、説明がつかないからといって、被害がなかったということにはならない。「気のせい」ではないし、「デマ」でもない。これらの症状には何か理由があるはずだ。

山田教授の研究は、被害者たちが経験した記録・証言に立ち返って、もういちど違った角度から問題を考えなおしてみようという試みである。

 

本書はけっして読みやすいものではないが、議論に値する重要な指摘がある。

まずは、補論(本文257頁)とJAEAの公表資料(カラー図版69頁)を頭に入れてから、各章を読み解いていくことをおすすめする。

 

 

2023年3月4日土曜日

働かないアリの解釈について

  

 アナキスト大杉栄は、ファーブルの『昆虫記』の翻訳に力を注いだ。大杉は、アリの生態観察から集産主義や相互扶助の論理を説き、日本アナキズム思想の始祖と呼ぶべき存在となった。

 

 時代は下って現在、アリの生態研究には新たな発見が加わっている。

日本の研究者が2012年に発表した論文によると、「働きアリ」のうちの2割は、まったく働かずにブラブラしていることがわかったのだという。「働きアリ」集団には、働いているアリと働いていないアリがある。仮にこの集団から働かないアリを除外して、真の「働きアリ」集団に純化してやる。すると、このうちの2割が働かないアリになってしまうというのだ。つまり「働きアリ」集団は、常に2割の働かないアリを保持しながら、働いているというわけだ。

 

 働かないアリの存在をどのように解釈し説明するかについては、まだ定説がない。この2割の働かないアリにどのようなイメージを投影するかは、自由である。

 2割の働かないアリはたんなる怠け者だ、という解釈もありうる。

この2割は予備役であり、不測の事態に備えた補充要員であろうという解釈もある。

この2割は全体の生産力に寄生するヤクザ・棒心・寄食者であるという解釈も成り立つ。

どのような説明が正解なのかは、まだわかっていない。

 

 

 私が働かないアリに投影するイメージは、預言者・批評家としてのブラブラアリである。働かないアリは、ブラブラしながら状況を見ている。彼は働いているアリが見ていないものを見ていて、まったく違う角度から問題を眺めている。働かないアリは、働いているアリが知らないことを、知っているのだ。

 

 

 かつて、首都圏反原発連合の野間某は、だめ連のペペ長谷川を激しく攻撃し、大衆運動からの排除を試みた。

首都圏反原発連合が生まれる以前、だめ連は東京の反戦派青年のなかで敬意をもって迎えられる存在であった。まさに働きアリ集団が保持する2割、ブラブラアリの代表的存在が、だめ連のペペ長谷川だった。私たちはみな、ペペ長谷川が怠け者の役立たずであることを知っていた。その上で彼を愛し、議論を交わし、ときに助言をもとめていた。有名な大学教授の講演よりも、喫煙所で交わすペペ長谷川の言葉に、重きを置いていたのだ。

 反原連の野間某がペペ長谷川を激しく攻撃したのは、たんに怠け者が目障りだということではないだろう。それだけなら、あえて攻撃する必要はない。野間が怖れたのは、怠け者に正当な地位を与えてきた運動文化、怠け者との交流を知の源泉としてきた運動文化に、強い警戒心をもったのだ。素人が陥りそうな誤りである。

 首都圏反原発連合は、2年ほどで雲散霧消してしまった。怠け者の役立たずに敬意を払わないような運動は、知的に後退し、運動の再生産に失敗したのだ。

 

教訓

 社会運動には、怠け者が必要だ。

役立たずを愛し、もっと彼の話を聞くべきだ。