2023年5月31日水曜日

混乱はあるが、絶望はしていない

 

日本共産党は、党内の選挙で党首を選ぶべきではないか、党首選挙を行うことで党内の議論が公開され、そのことが党の求心力を高めるのではないか、という議論について。

 私は共産党員ではないので横から口を挟むことはしたくないのだが、傍観者として感想を言うなら、問題は党内民主主義の形式であるよりも、党の科学主義が空洞化しつつあるということなのではないかと思う。党の科学主義が求心力を失っていることが、「民主主義」の形式の問題として表出したのではないか。

私たちのような無政府主義者からみれば、「党首公選制」など議論に値しないまったくナンセンスな提起なのだが、そうした提起がなされてしまう程度に、共産党の科学主義(啓蒙主義)が衰弱してしまっているのだろう、と解釈している。

 

 今回の共産党の騒動は、時代の趨勢をあらわす一つのエピソードとして見るべきだと思う。時代の趨勢とは、反科学主義・反啓蒙主義が、「民主主義」の主張をまとって攻勢を強めているという状況である。

アメリカでは地動説や進化論を否定する宗教右翼が大統領選挙に強い影響力をもち、日本でもやはり反科学的な宗教右翼が政府の政策決定に影響力を行使している。19世紀の宗教右翼は民主主義を抑圧したが、現代の宗教右翼は「民主主義」を標榜し、多数決の議会制度によって科学主義と対抗するのだ。

私たちは古い観念にとらわれていて、科学と民主主義をニアイコールで結んでいる。しかし現代はそうした構図が通用しない。論ずるに値しないような反科学的な主張が、民主主義を要求するという形式で、声をあげているのである。現代は、科学的・啓蒙主義的な態度が「民主的でない」「専制的な態度」とみなされうるのだ。

 

 

 科学の論争も、民主主義をめぐる論争も、すべて裏返ってしまったように混乱している。

科学的には通用しない純粋に政治的な主張が、「科学」を僭称して科学者たちを圧迫する。歴史研究や放射能汚染問題においては、科学的に正当な見解が「非科学的」と論難され、非科学的な専門家のつぶやきが「科学」の権威をまとって喝采を浴びるという、ひどい状況である。

 

 大変な時代だな、と思う。

しかし、絶望はしていない。

科学と民主主義を結びつける確固とした経験を、私は経験したからだ。それは多くの人々の集団的な経験としてあって、そのことを誰も忘れていないからだ。