2015年3月8日日曜日

放射能汚染と視覚表現



 私の盟友である山の手緑が、絵かきとしての活動を再開する。
彼女はめったに絵を描かない人なのだが、名古屋で一年暮らし、「風景の死滅」を体感し、これはもう描かなければ次に進めない、と確信したらしい。そのモチーフとコンセプトはまだ明かすことはできないが、かなり野心的だ。どんな作品がでてくるのか、いまから楽しみだ。

 さて、視覚表現の陳腐化について。
 それが始まったのは原子力発電所が爆発する以前だったのか以後だったのか、正確には言えない。ただ、原子力発電所の爆発によって、その傾向が明白になったということは確かだ。
 デジタルカメラとインターネットの普及によって、視覚表現はとても手軽になった。同時に、視覚表現は過剰になり陳腐化した。
 例えば、写真つきのブログというものは、登場した当時は画期的だと思われたのだが、しだいにありふれたものになり、いまではちょっとダサいものになった。いや、最新技術というものはつねに陳腐化の脅威にさらされているのだから、写真つきブログの衰退はそのレベルの話にすぎない、と言うかもしれない。うん。たしかにそうなのだが、ここで問題にしたいのはそこではない。インターネットにおける視覚表現の陳腐化は、たんに表面的な手法が飽きられたということにとどまらない、もう少し深い地層の変動と結びついていると思われるからだ。
 インターネットを離れてもうひとつ例を挙げると、「ゆるキャラ」ブームというのがある。いまはもう流行っていないのかもしれないが、全国の自治体がオリジナルのキャラクターをつくって、イラストや着ぐるみで地域のPR活動に利用したものだ。このブームが示したのは、視覚的な表現はそれ自体で自律してしまうことがありうるということだ。つまり、伝える表現方法と伝えるべき内容とが分離してしまって、ひどい場合にはアピールする内容も理由もないのにキャラクターをつくってしまうという、よくわからない現象が起きてしまったのだ。
 視覚表現に訴えなければ伝わらない、しかし、視覚表現があることで伝えるべき内容が失われてしまう。そんな矛盾した事態がうまれている。

 2011年の3月に起きたことを振り返ってみよう。
私たちは、東日本沿岸部の町が津波に呑み込まれる映像を見て、原子力発電所が爆発する映像を見た。このとき報道は極端に視覚的になり、そうすることで、破局的な事態がおきていることを世界に伝えた。同時にそのときから目に見えない汚染は始まっていた。人々が津波と爆発の映像を凝視しているあいだに、視覚的に伝えることのできない放射性物質が東日本に降り注いでいった。私たちは視覚表現の過剰のなかで、見えるものを見ているだけでは充分でないという状況に置かれたのである。

 その後、伝えるべき内容を欠いたままに、視覚表現が勝利する。
福島県の美しい風景。汚染された土地のおいしい食材。その土地で懸命に生きる人々。
あるいは、原子力政策に反対する数万人のデモンストレーション。汚染された街で抗議の声をあげる人々。
 放射性物質が目に見えないものだということは、誰もが知っていた。しかし報道機関は、不可視であるものを伝える努力よりも、可視的なものをてっとりばやく伝えることを優先した。カメラを持ち込める場所でカメラの前にたつ人々を映し、カメラに映すことのできない人々を映さなかった。彼らジャーナリストはこう釈明するかもしれない。ニュースの受け手はつねに視覚的な表現を求めているのだ、と。そう。それもまた事実だ。人々は視覚表現に飢えていて、なんでもかんでも写真を要求する幼児退行に陥っている。たしかにそれはそうかもしれない。
 しかし、こうも言える。
人々はむさぼるように写真を眺めつつ、この視覚表現の勝利によって、伝えられるべきもっとも重要な内容が失われていることを知ってもいる。見えるものだけに目を奪われていてはいけないということを、なかば自覚している。放射能汚染はそのような教育効果をもたらしたのだ。
 2011年の事件以後、見えるものをただ信じるという素朴な態度は終わった。
私たちは以前よりもずっとシニカルで、批評的になった。


2015年3月3日火曜日

汚染後4年間の中間総括

 フランスで出版される論集に向けて、原稿(第一校)を出した。

 外国人に向けて放射能汚染後の日本社会の状況を説明するという作業は、自分自身にとっても有益だった。この作業は結果として、この4年間の論点を整理する作業になった。
 この論集は、まずフランス語での出版が決まっていて、その後に英語版への翻訳が検討されているが、日本語での出版は予定されていない。ということで、私が書いた文章をここで公開してしまっても問題はないと思う。

 私がここで行った問題の整理は、ある種の人々にとっては承服できないものであるだろう。
しかし、誰が承服しようがしまいが、ここに書かれた内容がのちの定説になる。
ここから次の議論を始めよう。

以下、本文。


-----------------

(タイトル未定)

矢部史郎

 2011年3月12日、東京電力・福島第一原子力発電所で核燃料のメルトダウンが始まった。6基ある原子炉のうち4基の原子炉が放射性物質を大気に放出した。このとき大気中に放出された放射性物質は、ヨウ素1311.5×1017乗(150000000000000000)ベクレル、セシウム1371.2×1016乗(12000000000000000)ベクレル。2015年現在も放出は継続しており、現在も1日あたり24千万ベクレルが放出されている。(以下、本稿では大気を通じた汚染についてのみ論じるが、海洋への汚染はもっとおおきく、現在も継続中である。)

 福島事件について書くべきことはたくさんあるが、本稿ではこの事件の5つの特徴を述べることで今起きている事態を説明したいと思う。
 5つの特徴とは以下のものである。
1、巨大都市を包み込む汚染
2、大震災と放射能汚染
3、「復興」政策
4、市民による汚染調査
5、主婦たちの抵抗

1、巨大都市を包み込む汚染
 まず政府が公表した汚染地図を見てほしい(図1)。これは航空機からガンマ線を計測する方法で作成した汚染地図である。大気中に放出された放射性物質は、多くが太平洋に向かったとされているが、それでも広範囲に及ぶ陸地が汚染されることになった。
 日本政府は爆発後に住民の強制退避措置を行っているが、その範囲は爆心地から●km圏内の地域にとどまっている。●km圏より外の地域では、住民の退避措置がまったく取られていない。爆心地に隣接するいわき市(34万人)、福島市(29万人)、北方100kmに位置する仙台市(104万人)などは、汚染された状態にあるにもかかわらず、住民が留め置かれてしまっている。
 しかし問題は100キロ圏だけにとどまらない。この地図では空白となっているが、実際には爆心地から南西300キロの地点でも汚染が確認されている。
 政府発表とは別に、日本の消費者が参照している汚染地図を図2に示す。
非常におおまかであるが、これが実態である。東日本のほとんどの地域で土壌汚染が確認され、消費者はこの地域の農産物に警戒を強めているのである。
 最大の問題は東京圏の汚染被害である。東京圏は、東京都と周辺四県にまたがる巨大都市であり、その人口は約3600万人にのぼる。この世界でもまれな巨大都市は、日本の総人口の約30%を抱えているのである。これだけ大きな人口に対して退避措置をとるということは、政府だけでなく誰もが躊躇することであるだろう。私は事件の直後からずっと東京からの住民の退避を訴えているが、多くの人々はそれを非現実的な提案であると受け止めている。
 東京圏の3600万人、汚染被害地域全体では4500万人が、放射能汚染の脅威に直面した。汚染地域からいちはやく退避した者も少なくない。しかし、ほとんどの住民はいまも汚染された土地に暮らし続けている。ここから、放射能汚染をめぐるさまざまな議論が生まれる。放射能汚染による人体への影響はないとする荒唐無稽な安全論から、東日本は壊滅するだろうという悲観的な予測まで、さまざまな主張が交わされた。それらのすべてを列挙するには紙数が足りない。ただこれらの議論を見る際にその前提として認識されるべきは、今次の放射能汚染が呑み込んだ人口の大きさである。私たち日本に暮らす者にとって、これは局地的な公害事件ではない。日本社会全体を巻き込む巨大な公害事件である。だからこそ、おそろしく非科学的な主張や、荒唐無稽な安全論、通常では考えられないような迷信や精神主義が噴出することになったのである。


2、大震災と放射能汚染
 放射能汚染対策について我々の議論を複雑にし、膠着させてもいるのは、今次の大規模汚染事件が巨大な自然災害と同時に発生したことにある。
この二つの出来事をそれぞれの日付で呼ぶならば、「3・11」と「3・12」である。
3月11日、巨大地震と巨大津波が東日本の都市を破壊した。そして3月12日、被災地をはるかに超える広大な領域に放射性物質が降り注いだ。われわれは被災地の災害復旧と、汚染地からの住民退避という、二つの切迫した要請を同時に抱えることになった。この二つの要請は両立不可能である。「3・11」に対応する行動か、「3・12」に対応する行動か、どちらかを選ばなくてはならない。
 日本政府は「3・12」への対応を切り捨て、「3・11」にのみ対応することを宣言した。それが「復興」(ルネサンス)政策である。

3、「復興」政策
 日本政府は、放射能汚染事件の直後から、「復興」(ルネサンス)政策を号令している。政府も民衆も力を合わせて、国民全体で東日本の「復興」に力を注ごうと言ったのだ。
 日本では、「復興」という言葉は、特別な重みを持っている。「復興」は、たんに被害を受ける前の状態に復旧するという意味ではない。被害を受ける以前よりも大きく発展させ飛躍するという意味である。
 「復興」という言葉がはじめて使われるのは1923年の関東大震災後である。次に使われるのは1945年。米軍による戦略爆撃によって日本の重要都市はすべて焦土となる。日本人はその焼け跡からもういちど都市を再建し、以前よりもはるかに近代的な都市へと発展させたのである。このことはたんに歴史であるという以上の意味を持つ。「復興」は、日本の保守政治を支えてきたレゾンデートルである。
 第二次大戦後、日本の都市は飛躍的に成長する。そのなかでも特に参照されるべきは、広島市の「復興」である。原子爆弾を投下された直後、放射能汚染地帯となった広島市は、もう二度と人間が暮らすことはできないだろうと考えられていた。日本政府は広島市に対して特別な都市計画法を策定し、開発資金を投下し、「復興」を実現させた。これは奇跡の伝説として伝えられている。もちろんこの「復興」の舞台裏では、無数の流血があった。放射性物質による人体汚染は多くの死病者を出した。広島市から離散していった者も少なくない。政府はそうした被害の数々を否認したりうやむやにすることによって、広島市の「復興」を強引に推し進めていったのである。
 今次の放射能汚染に対して、政府はさらに大規模な「復興」政策によって事態を乗り切ろうとしている。
 現在の福島県では、おおきくわけて3つの「復興」事業がすすめられている。
a)除染事業
 福島県では汚染された家屋や道路を洗浄し、表土を剥ぎ取る作業が行われている。このことで空間放射線量はわずかに下がる。しかし法令で定められた安全基準まで回復することはない。これは、チェルノブイリ事件後のウクライナでも試みられ、最終的に意味がないとされた対策である。この事業に政府は一兆一千億円の予算を準備している。除染事業の唯一の効果は、住民を汚染地域に留めおくことであり、自主避難していった人々を汚染地域に呼び戻すことである。
b)汚染食品の流通
 政府と福島県がもっとも早くに取り組んだのは、汚染地域の農産物を流通させることであった。今回の事件は、チェルノブイリ事件に次ぐ二度目の大規模汚染であり、汚染食品の危険性はひろく一般に知られていた。そのため、日本の消費者は事件直後から汚染地域の食品を買い控えた。こうした消費者の動きにたいして、政府はこれを「風評被害」と呼び、科学的な根拠のない不当な防護策であると断罪した。福島県は断片的で不充分な食品検査を行って「安全宣言」を出し、汚染食品を全国に流通させていった。政府とマスメディアは、福島産の食品を食べることが「復興」への協力なのだというキャンペーンを展開したのである。
c)児童の甲状腺検査
 日本ではチェルノブイリ事件の健康被害が広く知られている。なかでも、児童の甲状腺がんはよく知られていた。そのため福島県は県内の児童すべてに甲状腺エコー検査を実施している。検査結果に付けられた医学者のコメントは、「放射線被曝との因果関係は認められない」というものだ。日本の医学者たちは、放射線の健康リスクを調査し住民に説明するという体裁で、今後ありうる被害予測を否認し、住民を汚染地域に留めおくという政策をとったのである。
 
 以上三つの事業を総括するならば、「復興」(ルネサンス)政策とはまず第一に、放射能汚染を住民にうけいれさせる政策である。汚染された地域に住民を留めおき、汚染された食品を食べさせることが、福島「復興」のための第一の条件になるからである。
 とはいえ、現在の高度情報化社会のなかで、人々は福島第一原発の爆発と汚染がどれほど破局的な事態であるかを知っている。また、チェルノブイリ事件によって得られたさまざまな知見と必要な防護策がひろく知られている。政府はこうした一般的な知識を隠すことができないし、正面から論争を仕掛けて論破することもできない。したがって、「復興」政策の主要な作戦領域は、メディア産業を通じた嘘と印象操作になる。
 汚染に対して警戒を強める住民に対して、政府はその場しのぎの嘘を繰り返してきた。「福島第一原発の事故は収束した」「福島の農産物は安全である」「甲状腺がん罹患者の増加は放射線被曝が原因ではない」等々。こうした嘘の発表は、ほとんど批判されることなくまかり通ってきた。これらの嘘を補完してきたのは、「復興」政策が唯一の現実的な解決策であるとする印象操作だ。日本のマスメディアは、「復興」政策によってどれだけの住民が被曝を強いられたかを報じない。住民の被曝は避けることのできない自然災害のように扱われ、「復興」政策がもたらした被曝被害は検証されたことがない。そして、汚染を避けるために移住する人々や、汚染食品の不買をする行為は、「復興」を阻む障害として、克服されるべき悪習のように描き出されてきたのである。
メディア時代の原子力災害は、スペクタクルの災害となってあらわれたのである。

4、市民による汚染調査

 日本政府による住民への統制は、まず放射性プルームの拡散状況を隠すことから始まった。政府は風向や風速などの気象条件から汚染の拡散を予測するSPEEDIという装置を保有していたが、この装置による予測を住民に知らせることはなかった。住民は自ら空間線量計を入手して、自分のいる場所の汚染を計測しなければならなかった。この日から約1年間、政府と住民のあいだで放射線測定をめぐる闘争が始まる。

・空間線量調査をめぐる闘争
 汚染事故の直後から、住民はガイガーカウンターを入手し、自分の暮らす地域で自主計測活動を始めていった。計測された数値は、直後にツイッターやSNSに公開され、ウェブ上で情報が共有されていった。爆心地から220キロ離れている東京圏でも、深刻な汚染があることが明るみになる。市民による計測活動が徐々に拡がっていく。このとき、放射線防護対策の最初のイニシアティブを住民たちが手にした。
 行政による空間線量調査は、あまりにもずさんだった。1300万人の人口を抱える東京都は、たった一箇所のモニタリングポストしか持たず、その数値を発表することで事足れりとしていたのである。住民による自主計測活動は、行政の粗雑さの対極にある繊細さを発揮しておこなわれた。細かくまだらに堆積した汚染状態を把握するためには、丁寧に時間をかけて土地を調べなくてはならない。住民たちは、数箇所のサンプリング調査で満足することはない。彼女たちはひとつの公園について、何箇所も執拗に測り続けた。彼女たちはそこで生活している子供たちの歩幅で、汚染状態を調査していったのである。
 住民による計測活動が始まると、自民党の右翼議員はそれをやめさせるべきだと言って非難した。しかし政府は、住民の計測活動を強権的に禁止することはできなかった。かわりに、測定の基準に介入することで、被曝線量を過小に評価するように働きかけた。そのからくりはこうだ。
 空間線量率を計測するための簡易計測器には、2種類の方式があった。ガイガーカウンターとシンチレーションサーベイメータである。ガイガーカウンターは放射性核種が放出するβ線とγ線を検出する。シンチレーションサーベイメータはβ線を検出せず、γ線だけを検出する。したがって、シンチレーションサーベイメータが示す数値は、ガイガーカウンターの示す数値よりも小さくなるのである。政府は行政機関の計測機材をシンチレーションサーベイメータに統一し、ガイガーカウンターの使用を排除した。このことで、ガイガーカウンターで計測した数値は信用できないという印象がつくられてしまった。さらに国内の企業が低価格のシンチレーションサーベイメータを発売したことで、この印象はさらに強まった。日本では、空間中のγ線だけを計測しβ線は無視するという特殊な方法が普及していった。実際には人体にβ線を浴びていても、日本ではまったく考慮されない。多くの人々はセシウムがβ線を放出しているという事実を忘れてしまったかのようだ。日本政府は、計測方法の基準に介入することで、外部被曝線量の過小評価を行ったのである。


 食品の汚染測定
 事故から半年後、核種分析器(シンチレーションスペクトロメータ)が入手できるようになった。農家や流通業者が食品測定を開始し、それとは別に、日本各地で市民測定所が作られていった。ここでも市民が強いイニシアティブを発揮した。最初の1年間、政府は食品のクリアランス基準を500Bq/kgとしていたが、市民の強い抗議と市民測定所の実践によって、クリアランス基準の変更(100Bq/kg)をよぎなくされた。
 放射線防護対策に取り組む人々は当初、この装置に大きな期待をかけた。政府が測定しないものを、自ら測定し告発することができるからである。しかし、測定作業を自ら実践するなかで、人々は徐々にこの装置の限界を知ることになった。
 問題は三つある。
a)核種の制限による隠蔽効果
 一般的に手に入る安価な核種分析器(シンチレーション方式)は、三種類の核種しか検出できない。セシウム137、セシウム134、ヨウ素131、である。食品の汚染を測定するためには、これでは足りない。
 汚染地域の農産物は、土壌からカリウムを吸収する過程で、セシウムを吸収する。カリウムとセシウムは同じアルカリ金属だから、植物がカリウムを吸収する過程にセシウムが混入してしまうのである。栽培農家は、農産物にセシウムを混入させないために、土壌にカリウム肥料を大量に投与する。土壌中にあるカリウムとセシウムの比率を変えてしまえば、セシウムの混入を抑えることができるのである。
 こうなると、セシウムの数値を指標とする汚染調査は、役に立たなくなってしまう。セシウムの背後に隠れているストロンチウムなどの核種を推量することができなくなってしまうのである。

b)精度不足
 安価な核種分析器は、検出限界が高い。検出限界とは、レンズの倍率に相当するものだと考えてもらってよい。市民測定所が入手した機材では、どれだけ時間をかけて測定しても、5Bq/kgまでしか調べることができない。それよりも低い濃度の汚染は検出することができないのである。この精度を基準にして、人体への安全性を評価することはできない。現在使用されている測定機材は、顕微鏡で調べるべき対象をルーペで覗いているようなものなのである。

c)サンプリング調査の方法的問題
 最大の問題は、サンプリングという方法が役に立たないことである。
 土壌汚染はけっして均質ではない。このことは空間線量の調査をしたときにいやというほど思い知らされた。最初にフォールアウトした時点から、汚染物質は細かいまだら状に分布している。降下した汚染物質は大気や水の流れにのって移動し、分散と集積の特異点を形成していく。汚染された土壌の平面は、疎と密が激しく波打つ特異点の連続なのである。
 だからサンプルを採取する場所をたった1mずらしただけで、汚染濃度が大きく違ってしまうということがある。こうなると、あるサンプルから得られた数値がその周囲にあるどれだけのものを代表できるのか、という問題になる。
ここで私たちは、サンプリング調査という方法の限界にぶつかったのだ。

 測定機材と方法の限界は、検査結果の解釈をめぐる議論を引き起こした。
 そもそも食品汚染の測定は、はじめから二つの相反する要求を同居させていた。ひとつは汚染食品を避けたいという消費者の要求であり、もうひとつは安全性を確認して食品を流通させたいという流通業者の要求である。
 市民測定所による調査は、汚染地域の輪郭と危険性の高い品目を徐々に明らかにしていった。一年後には、消費者は生産地と品目を不買の判断の基準にするようになった。つまり、精度の足りない検査結果に頼るのではなく、予防原則に基づく防護策をとったのである。
 これにたいして流通業者たちは、簡易的な核種分析器の検出限界を事実上のクリアランス基準とみなすようになった。彼らは汚染地域の農産物を検査し、「不検出だから食べられます」と言ったのである。
 検査の解釈をめぐる論争は、「復興」政策のスペクタクル的性格を如実に表現するものだ。スペクタクルの詐術は、単純に隠すことではない。隠すことによって隠すだけでなく、見せることによって隠すのである。「復興」政策の協力者たちは、汚染調査を拒否しない。かわりに、断片的で不充分な調査結果をこれみよがしに示すことで、「安全」な印象を人々に与えるのである。


5、主婦たちの抵抗
 大規模放射能汚染は、日本社会のすべてを混乱の淵においやった。政府、政党、農業団体、漁業団体、労働組合、生活協同組合、科学者、ジャーナリスト、反核運動団体、人権団体。この事態をまえに無傷であったものはいない。すべてが混乱し、機能不全に陥った。
 混乱の中で、原子力政策に対する反対運動は、大規模で力強いものに成長した。しかしそれは、放射能汚染にたいする「運動」の無力さを糊塗するものでしかなかった。彼らは原発の再稼働に反対することはできたが、放射線防護措置を要求することができなかったし、実践することもなかったのである。
 汚染問題にたいして、もっとも非妥協的に対決したのは、左翼政党でも運動団体でもなく、なににも組織されていない主婦たちであった。彼女たちは汚染を調査・告発し、汚染地域から移住し、汚染食品の流通と汚染廃棄物の拡散に抵抗した。多くの左翼が「復興」政策との対決を躊躇しているあいだに、主婦たちは「復興」政策を阻止する直接的な実践に向かっていった。彼女たちはアナキストではないが、誰よりもアナーキーであった。彼女たちはシチュアシオニストではないが、スペクタクルの嘘を精確に告発していった。そして彼女たちは、どれだけひどい非難や中傷を浴びても、まったく妥協することがなかった。
 なぜ主婦たちが強い抵抗をみせたのか。4つの理由を挙げておきたい。

a)知性
放射線防護対策の具体的な実践は、炊事・掃除・洗濯・育児といった家事の領域での作業である。主婦は日常的に家事を担っているから、こうした作業の実際をよく知っているということがある。
主婦は毎日毎日倦むことなく(あるいは倦みながら)食事をつくり、家族の栄養管理を行っている。だから、微小な物質の蓄積が人間を活かしたり殺したりすることを知っている。放射性物質は目に見えないモノだが、これも主婦にとってはとりたてて珍しい話ではない。細菌、ウイルス、食品添加物、農薬、アレルギー原因物質、組み換え遺伝子、紫外線等々、目に見えないモノなど生活のなかにはいくらでもある。もしも「目に見えないから対処できない」とサジをなげてしまうなら、乳幼児の健康管理などとうていできないだろう。

b)責任意識
 主婦は、望むと望まざるにかかわらず、家族の健康に責任を負っている。あるいは、責任を押し付けられている。家族の誰かが病に倒れたとき、あるいは介護が必要になったとき、その作業を担うのは主婦である。主婦とは、家族に不測の事態が起きたときに、その尻拭いのアンペイドワークを予約指名されている者である。
被曝医療の「専門家」あるいはICRPWHOが、放射線による健康被害は「少ない」と予測するとき、その「少ない」患者の世話を彼らが責任を持って担うことは想定されていない。その被害の結果については、患者の家族の誰かが付き添い無償で働くことを予め前提にしているのである。実際に患者が多かろうと少なかろうと、彼ら「専門家」が看護に忙殺されることはない。悲しみもなければ自責の念もない。彼らは「リスク」という言葉を好んで使うが、リスクを引き受けるのは自分以外の誰かだろうとあてにしているから、あんなにヘラヘラした態度をとれるのだ。
 主婦は、家族に何かがあったとき一切を引き受ける者である。彼女は危機を吸収する緩衝材であり、モノにたとえるなら自動車のバンパーである。彼女は、たとえ自分の責任でないことであっても、自責の念を抱きつつ無償で働くことを強いられるのである。この負荷が、主婦たちを防護対策に駆り立てている。

c)差別
主婦は差別に慣れている。これは差別を容認しているというのとは違う。差別を知っているということだ。他人から馬鹿にされたり見くびられたりすることは、主婦にとっては日常である。家族から馬鹿にされることも、傷つくことではあるが、それほど驚きはない。老練な主婦から見れば想定の範囲内だ。
今回の事件で、主婦に対する差別意識をもっとも体現していたのは、広告産業である。もともと主婦は消費者として広告に慣れ親しんできた。美顔、デトックス、アンチエイジングなどの健康・美容情報を発信してきたのは広告会社であり、主婦はその情報を身近において利用してきたのである。その広告会社がある日突然、放射能を怖れず受忍せよ、と言いだしたのだ。これはあまりにも極端な手のひら返しであり、広告という事業の差別的性格を剥き出しにした瞬間であった。広告会社のアドバイスに従うなら、世の女性たちは紫外線についてぬかりなく警戒しなければならないが、放射線については受忍しなければならない、ということなのだ。これほど人を馬鹿にした話があるだろうか。
差別された者は差別する者を信用しない。主婦は差別を知っていて、すぐにばれるような嘘をぬけぬけという人間を見慣れてもいるから、どういう人間を信用してはいけないかを知っている。放射能問題のさまざまな論争の過程で、政府や「専門家」の言説が次々に無効化されてきたのは、主婦が誰の言葉も信じないからである。彼女たちがもつ「人を信じない」というハビトゥスは、さまざまな議論の重しとなり、盾となり、人々の混乱する意識に指標を与えてきた。

d)時間感覚
再生産(労働力の再生産)に携わる者は、意識する時間の射程が長い。賃労働というものが基本的にその場限りの契約であり、商品経済の短期的な売買の一部にすぎないのに対して、再生産に関わる労働はきわめて長期にわたる生活経済のなかに埋め込まれている。一人の子どもを出産し、育て、一人前にするまで、20年前後の時間がかかる。引退した老人の世話をして送りだすまで、やはり育児と同じだけの時間がかかる。再生産労働は、もう嫌になったと心変わりをしても簡単にやめることができず、長期間にわたって関わり続けなければならない労働なのである。賃労働者が時間のないユートピアを生きて時間感覚を喪失してしまっているのに対して、主婦は時間のなかに生きて時間を対象化している。
10年後か15年後かに顕在化するだろう晩発性障害は、時間を忘れた鶏のような意識にとってはまったく見当のつかない話だろう。「そんな先の話は考えてもしょうがない」と。しかし、主婦にとって15年後というのは、充分に手の届く未来なのである。

 以上にあげた4つの理由は、誰にもとっても理解しやすい表面的なものである。
以上を示すことで私は、主婦の活動に向けられた誤解に基づく中傷を退けておきたい。
例えば、主婦たちの防護活動は母性主義に貫かれている、というもの。そんな一面的な話ではない。もし彼女がたんなる母性主義者であったなら、汚染による健康被害の尻拭いを甘んじて受け入れただろう。彼女は我が子を思う母性的な意識を保持しつつ、同時に、余計な手間を押し付けられたくないという反母性主義の意志を保持している。
例えば、彼女たちの要求は生活保守主義(NIMBY)である、というもの。これも違う。汚染地域からの退避とは、自らの生活基盤を放棄することを意味する。東京電力からのなんの補償もないにもかかわらず、彼女は移住を決断し実行する。それはたんに生活を保守するためだけに行われるのではなく、この社会の不正にたいして強い怒りをもつからである。
 偏見や決め付けではなく、単純な事実を見るべきだ。主婦は、たんなる理想主義者でもなければ、たんなる現実主義者でもない。その二つを同居させるキマイラである。
今回の放射能汚染に直面するずっと以前から、主婦はキマイラとして生きてきた。彼女は産業社会の一画で賃労働を担いながら、同時に、再生産(無賃)労働の担い手でもあった。彼女は育児を担う大人として社会的責務を負いつつ、同時に、社会からは子供のようにあしらわれ重要な決定から排除されてきた。彼女は誰にでもできるだろうと考えられているもっとも素朴な家事労働を担いつつ、そのなかで、産業社会が生み出した未知の物質と環境問題に対峙しなければならなかった。
 2011年の夏、日本各地で市民による放射線計測が行われた。専門教育を受けたことなどない素人たちが、ガイガーカウンターで放射線量を計測し、スマートフォンでその数値を交換していった。彼女は片手に放射線検出器を接続し、片手に最新の情報通信機器を接続し、サイボーグの身体を獲得した。高度情報化社会の原子力事故という前例のない事態のなかで、まったく前例のないサイボーグが生まれた。我々はその異形の姿に驚きつつ、同時に、そのことがまったく不思議ではないものに思われたのだ。
 彼女が誰よりも大胆にサイボーグの身体を獲得していったのは、そもそも主婦というものがキマイラ的性格をもっていたからである。彼女はふたつの異なる領域を結合させ、混ぜ合わせる。先端科学と伝統的生活、公的なものと私的なもの、シニシズムとヒューマニズム、便宜主義と原則主義、政治と反政治。その意識は保守的であり、同時に、転覆的である。彼女は、いや、もう「彼女」と言うのはやめよう。女たちも男たちも、自らのうちに眠っていたキマイラを覚醒させた。キマイラは、資本主義が依拠してきた分業社会の外側にあって、その解剖学的な分節化の規則を無効にするのである。
 その意識は、日本社会の全体から見ればまだまだ少数ではある。しかし、この社会が飼いならすことのできないもっとも困難な敵として、それはあらわれたのだ。




2015年2月5日木曜日

栗原康くんの新著をいただきました

献本をいただきました。

 『学生に賃金を』 栗原康著 新評論




 栗原康くんは、日本の初期社会主義(アナキズム)の研究者。
しかし古い文献史料だけでなく、現代のアナキズム理論にも精通している異才です。

本書の内容については、コメントを控えます。コメントするまでもなく、タイトルからもうアレなので。



ところで、ちょっと前の話題を蒸し返しますが、山形浩生という翻訳者が恥ずかしい誤訳をやらかした件について。
 ニューヨークの「オキュパイ・ウォールストリート」に関する書籍を日本で出版する際、翻訳者の山形氏は、“Black block”(ブラックブロック)を“黒人連合”と誤訳して、印刷してしまったのでした。
彼はブラックブロックを知らなかったんですね。あと、編集者も知らなかったんですね。物知りみたいな顔してるけど、けっこうフシアナなんですね。
ブラックブロックとはどういうものなのか、関心のある人は、ぜひ栗原くんの本を読んでみてください。彼はブラックブロックを知っています。

2015年1月27日火曜日

「復興」の呪術的性格について


 オーストラリアから来日した研究者から、放射能汚染問題について私にインタビューをしたいという連絡があった。外国人と話すことは、自分の頭の中を整理するのに役に立つ。こちらから聞きたいこともある。というわけで、名古屋駅の駅ビルでおちあって話をした。

 私がまず彼に確認したかったのは、「復興」という言葉が英語ではどう翻訳されているかである。答えは予想したとおり、“Recovery”(リカバリー)または“Reconstruction(リコンストラクション)だった。
これは以前から気になっていたことなのだが、きちんと説明しないで流してきていたことでもある。細かいことではあるが、日本の政治的文脈を把握するためには、丁寧に説明しておいたほうがいい。この際、「復興」という言葉が正確にはどのような概念であるのかを説明しようと思った。

 「復興」は“Recovery”や“Reconstruction”ではない。「復旧」とか「再建」というのであればその訳語でいいのだが、「復興」はそうではない。破壊されたものを元の状態に戻すのは「復旧」。破壊されたものを、以前よりも大きく成長させるのが「復興」である。「復興」という言葉は、「破壊をバネにして発展させる」「飛躍的に成長させる」という強い意味を持っている。それはReconstruction”という訳語では足りない。もっと重い意味を含んで語られるものだ。

 「復興」という概念の政治的性格を説明するために、関東大震災後の「復興」と、第二次大戦後の「復興」について簡単に話をした。とくに重要なのは第二次大戦後の「復興」である。1944年から45年にかけて、米軍の戦略爆撃によって日本の大都市は焦土となった。多くの日本人にとって戦争の記憶とは、空襲であり、都市が焦土化されたという記憶である。焦土となった都市のイメージは、いまも繰り返し伝えられている。そしてそこから連続して語られる「戦後」とは、焼け跡から近代的な都市を建設したという経験である。それは、「破壊をバネにして発展させる」「復興」の成功物語として、日本史に深く刻まれているのである。
 「復興」とは、日本の保守政治家が誇る最大の成果であり、成功体験であり、彼らのレゾンデートルでもある。「復興」は、「復興せよ」という命令を含むパフォーマティブな政治言語である。「復興」とは、誰も疑いを挟むことのできない号令として、呪術的な性格をもって機能するのである。

 このことは、例えばアメリカの政治家たちが「中東の民主化」というレトリックを公然と批判することができないのと似ている。中東にたいする戦争が民主化にいたるなどと信じている者はいない。しかしアメリカ人とアメリカの政治家たちは、「民主化」という政治言語の呪術的性格から誰も自由ではないのだ。

 日本の政治にとって「復興」は、呪術的な性格を持つ号令である。
 じっさいには、東日本の被災地の「復興」ができるなどと考えている者は少ない。ほとんどいないと言っていい。元の状態に戻すことすら出来るかどうかわからないのに、「復興」などできるはずがない。しかし、政府と政治家はずっと「復興」という念仏を唱えている。そしてこんな非現実的で無責任な政策方針を、誰も少しも批判できないでいるのである。

 この「復興」の呪術から唯一自由であるのは、放射線防護派の人々だ。東日本産食品の不買を続けている主婦たち、また、汚染地帯から脱出してきた避難者たちは、「復興」政策を拒絶し、日本の戦後政治のレゾンデートルに亀裂を入れたのである。


追記

 フランスの講演で通訳をしてくれたS氏から、この件についてメールがあった。彼女も通訳者として同じことを感じていたという。通訳の現場では、便宜的に“reconstruction”という訳語をあててきたのだが、もうひとつニュアンスが違う。「復興」を翻訳するとき、彼女の頭に浮かぶ訳語の候補は、“reconstruction”か、または、“renaissance”(ルネサンス)だという。
 なるほどね。さすが、言葉の職人だ。
 たしかに日本の政治空間の中で、「復興」はルネサンスであるかもしれない。それは人々に主観的な解放感を与えてくれる、擬似的なルネサンス、反転したルネサンスと言える。

 たとえば国策として進められた広島市の「復興」は、その影の部分で、大量の離散者と、白血病による死者、補償から排除された被爆者を生み出した。そうした無数の被害を隠蔽し被害者を切り捨てることが、広島「復興」政策の条件であったわけだ。(このことは福島「復興」政策でも繰り返されるだろう。)
この反転したルネサンスにおいては、神話が打ち破られるのではなく、反対に、神話が現実を圧倒する。見せかけのスペクタクルが、人々に犠牲を要求し、同時に、人々に犠牲を強いたという事実を忘却させる。この忘却は、ただ権力だけが望んでいるのではない。多くの民衆が、被害を忘却したがっている。出口の見えない困難な現実を、想像的に克服したい、イメージの力で解消したい、と望むのだ。
 問題の責任をうやむやにしたい政府権力と、被害を直視することを恐れる民衆とが、奇妙な野合をはたす。両者を結合した「復興」とは、たんに物質的な“reconstruction”にとどまらない、精神的な運動を構成している。福島「復興」政策に翼賛するアーティストやボランティア団体が、福島の現実課題を無視していたとしても、それは驚くに値しない。彼らは福島の人々がうけた被害ではなく、「復興」の精神運動のなかで自らの存在意義を示そうとしたのだから。

 反転したルネサンス “the reversed Renaissance”。
 これもまた「復興」の訳語に妥当すると思う。

2015年1月13日火曜日

流れと視覚



 山の手みどりとともに、名古屋市の東端に位置する東山に行った。
東山のスカイタワーから名古屋市を一望する。南には伊勢湾があり、北には岐阜県の山並みがあり、それらに挟まれた平坦な土地に名古屋の街並みが広がる。海沿いには伊勢湾岸自動車道の高架が東西に伸びて、山側には名古屋第二環状道路の高架が弧を描き、この二つの自動車道が名古屋市の外縁をぐるりと囲んでいる。東山スカイタワーは名古屋を一望するには絶好のビューポイントだ。
 30分ほど時間をかけて、じっくりと街を見た。
 しかし、よくわからない。なにかが見えてくる気配もない。とりつくしまがない、とはこういうことだ。私たちは見ることを諦めてタワーを降りた。
 市街地でクルマを走らせながら、これはいったいなんなのかと話し合った。議論の経過は省くが、結論として出てきたのは、速度の問題である。

 以前にも書いたように、名古屋市は道路網の街である。街、というよりも、道路だ。その流れは強力で、支配的である。ここでは人間が立ち止まったりたたずんだりするのではなく、時速50キロで走る自動車に身をまかせているのである。このことは、都市の空間的編成に作用しているというだけでなく、都市の景観に作用し、人間の視覚に作用していると思われる。端的に言えば、名古屋を展望する最良の方法は自動車に乗ること、時速50キロの流れに身を置くことだ。どこかに座ったり、歩いたりというのでは、この街は見えない。自転車でも速度が足りない。自動車の速度に身を置いてはじめて名古屋を見ることができるのである。

 自動車が空間を浪費することで、都市の密度は失われている。道路と駐車場が空間を貪欲に食い荒らす。この街には密と疎があるのではなく、どこもまんべんなく疎になっている。それらを再び圧縮して見えるものにするためには、自動車の速度が必要になるのである。
名古屋では古典的なパースペクティブの概念が通用しない。視点は固定されるのではなく、動的に、時速50キロで滑り抜けるフローのなかにある。名古屋の街に立ったとき、「途方にくれる」とか「孤立した淋しい印象をもつ」とかいうのは、彼がこの街の速度から取り残され、視点を喪失しているということなのである。


 名古屋についてよく聞かれる決まり文句がある。
「新幹線で通過したことはあるが、降りたことはない」。
そう。それはみんなそうなのだ。地元に暮らす名古屋市民にしても、この街を滑り抜けているだけで、腰を落ち着けて視点を定めることはない。強力な流れに身を置き続けていなければ、誰もが途方に暮れてしまうのである。


おまけ(懐メロ)









追記

 誤解がないようにつけ加えるが、私たちは名古屋の話をだけしているのではない。
 都市の「風景」は古典的なパースペクティブでは捉えられないものになっていて、都市はずっと以前から絵画的であることをやめていた。ここで参照してもらいたいのは、いまから45年前に撮られた映画『略称連続射殺魔』と、松田正男氏らが展開した「風景の死滅」論である。
 『略称連続射殺魔』は、永山則夫という少年の遍歴をたどった映画である。彼は北海道の辺境から京都まで、列島を縦断していく。そこで彼が見たであろう風景を、ひとつひとつ映していった作品だ。
 むかし新宿のバーで松田氏と飲みながら、『略称連続射殺魔』の撮影過程について話を聞いた。彼がこの映画でまずこだわったのは、画面をフィックスで撮ることだった。「足立がカメラをパンしようとするから、俺はパンをするなと言って、カメラについてるパン棒を取り上げたんだ」と。たしかに、映画の冒頭北海道の荷馬車のシーンではレールが使用されているが、そのあと、青森の蒸気機関車のシーンからは、ずっと画面はフィックスになっている。この演出が効いている。
 ときは第二次全国総合開発計画の前夜、田中角栄が「日本列島改造論」を号令する直前の時期にあって、この映画はさまざまな乗り物を映しながら、交通とは何かという問いを暗示する作品となっている。俗に「風景論」の映画と呼ばれるこの作品は、正確には「風景後論」の映画であって、交通網の強化によって「風景」が死滅していく世界を示そうとしている。ここでフィックスの画面とは、ひとつの反語表現であり、つよい異化効果をもたらすものだ。観客である我々は、フィックスで映され続ける画面から、絵画的な「風景」が終わろうとしていること、そして、強烈なフローから逃れらないプロレタリアの運命を知るのである。
 どこかに腰を落ち着けて視点を定めることができないこと、フローにさらされ続ける多動症的性格は、けっして例外的なものではない。それはいまではプロレタリアの一般的規則となっている。


               

 第五次全国総合開発計画以降、日本の道路行政は観光開発に着手した。よく知られているのは「道の駅」の整備である。都市は、一度は死滅した絵画的な風景をふたたび捏造し、観光客のフローを創出しようとしたわけだ。しかし、この試みはうまくはいかないだろう。最大の障害は放射能汚染である。たとえば昨年の話だが、『美味しんぼ』という人気漫画が終了した。地域の観光政策の最大の柱である「食」が放射能に汚染され、『美味しんぼ』が示していた観光開発の展望は、暗礁に乗り上げる。それに換わって、汚染を逃れるための大規模な移住が、フローの核心を占めることになる。権力が設計したフローから、民衆の抵抗のフローへと、方法の大胆な転用が生まれている。


2015年1月12日月曜日

失敗モデルとしての名古屋



 筆休めに、名古屋について。


 深夜12時、母から借りた車に乗り込みエンジンをかける。
名古屋の北側に隣接する春日井市から国道19号線を南下し、名古屋市の南端に位置する金城埠頭に向かう。埠頭に向かって走るのは、今週三度目だ。
 名古屋という街について、遠まわしなほのめかしばかりしていても議論が進まないので、まず単純な事実からおさえておこうと思う。

 よく知られているように、名古屋は道路が広い。片側4車線という道路はめずらしくない。これが、重要な幹線道路がそうだというのならたいした驚きはないだろうが、幹線でもなんでもない普通の道路が片側4車線だったとしたらどうだろう。驚きを通り越して呆れてしまうのではないだろうか。じっさい意味不明なのだ。車を走らせながら首をかしげることがしばしばある。なぜこんな重要度の低い道路が、こんなアホのように広くなくてはならないのか、と。


 自動車は空間を浪費する。道路と駐車場が街区を虫食いにし、街並みの密度を失わせる。店から店へと歩くあいだに、ちょくちょく駐車場が挟まってしまうので、歩行者はその分だけ余分に歩かされることになる。無駄に広い道路は街区を切断し、街並みの連続性を破壊する。名古屋の女性がハイヒールを履いていないのは、また、名古屋の繁華街で若いカップルがデートしている姿を見かけないのは、この街が歩いて楽しい街ではないからである。楽しくないだけでなく、歩きにくいのだ。密度がなくただひたすら歩かされる街で、どうしてデートしようという気分になるだろうか。市内に張り巡らされた片側4車線の道路網は、都市が都市として生成しようとする力学に制動をかけてしまっているのである。


 名古屋の風景からまず端的に見えてくるのは、モータリゼイションのための徹底した都市計画と、その失敗した姿である。この失敗は名古屋だけの話ではない。どの都市でも経験されたモータリゼイションの失敗を、この街はとても見えやすい形で集約的に表現しているにすぎない。
 今後、この社会がモータリゼイションの熱病から覚めて、自家用車がいまほど使われなくなったときに、名古屋の都市計画の失敗はますます異様さを放つことになるだろう。
 そして、名古屋の都心部が現代的な観光商業都市へと生まれ変わるためには、道路のダウンサイジングという前例のない事業を必要とするだろう。




2015年1月4日日曜日

名古屋という問い

 山の手緑氏が名古屋に移住して1年。彼女もようやく名古屋の酷薄さについて口にしはじめた。
 今日は二人で名古屋市内をドライブした。中区から中川区へ、さらに港区金城ふ頭へ。そこから折り返して名古屋港。熱田区。新堀川を北上して中区へと戻る。
 新堀川ぞいにあるコメダ珈琲で、二人で深いため息をついた。

 問題は名古屋ではないし、ましてや、東京や大阪といった特殊な都市圏でもない。世界に拡張してゆくこのありふれたメトロポリゼイション、とりとめなく拡がる冷たい産業都市の風景と、正面から向き合うことである。
 山の手氏と同じころ移住した前瀬くんはかつて、名古屋の酷薄さに触れて、「いくつもの概念装置を用意しなければ、この街を見ることはできない」と言った。
そしていま山の手緑は、「言葉がまったく足りない」と言う。「この街に答えはなく、ただ問いだけがある」と。

 我々は都市について、なんら有効な概念も言葉も持っていない。この認識にたっして、むくむくとやる気が沸き起こってきた。誰も見たことのないハードコアな都市論が、名古屋から生まれる。新しい分析枠組みは、東京でも大阪でもなく、名古屋の酷薄さのなかから登場するだろう。
 我々はいま野心的である。
 名古屋は人を野心的にさせる。