2024年10月28日月曜日

くだらない改憲論議を封じよう

たまには政治について書いてみようと思う。

 

 2024年の衆議院選挙は、自民党・公明党・日本維新の会・日本共産党が議席減、かわりに、立憲民主党・国民民主党・れいわ新選組が議席をおおきく増やした。 自・公与党が議席過半数を下回り、これまでのように数にまかせて押し切っていく国会運営はできなくなった。この意味では「野党勢力の勝利」と言えなくはない。

 しかし野党勢力の内容においては、危機的と言える状態にある。共産党・社民党・れいわ新選組が、あわせて14議席、公示前と変わらない一方で、右翼政党である国民民主党が26議席と大量の議席を獲得した。これはやばい。

 

 少数与党となった石破政権は、各種ある個別法案において野党に譲歩することになるが、他方で、総論における多数派形成、野党勢力の分断を図ることになる。おそらくカギになるのは、選挙後の会見で石破が最後に述べた項目、「改憲問題」である。

石破自民党はこれから、場違いな改憲論議に体重をかけてくるだろう。改憲論議となれば、自民党内の清和会系議員を統制することができるし、維新・国民民主・立憲民主党の多数を議論にまきこみ、手なずけることができる。右翼政党国民民主党などは、ちぎれんばかりにしっぽを振って石破と会談するだろう。なにより改憲論議は、政策の具体性にてらすことなく純粋にイデオロギー的な立場表明に終始することができるので、国会を空転させるにはもってこいの「議論」だ。

 

 これから私たちが目指すべきは、改憲論議を封じることである。顔を紅潮させハアハアしながら護憲派攻撃をするバカを黙らせることである。

 改憲論議を封じるために、私が提案したいのは、防衛論議に原発問題をぶつけることである。SM3やPAC3やイージスシステムをどれだけ積み上げても、原発への攻撃は回避できない。日本の国土と住民を脅かしているのは、中国や北朝鮮の兵器ではなく、自国が建設した原子力発電所である。

この問題を放置しながら、防衛だの危機管理だのを勇ましく唱えるヤカラは、どこまでも空想的で、どこまでも無責任な、でしゃばりである。与野党のでしゃばり右翼議員とそれを支持するでしゃばり野郎を黙らせなければならない。具体的な事実をもって、原発の危機と被害を語っていこう。

 

2024年9月20日金曜日

近況報告

 


https://www.youtube.com/watch?v=VqXUCFYVBKI


↑ いま名古屋でこういうことをやっています。


関連で、ユーチューバーぽいこともやっています。

毎週木曜日夜9時配信↓

https://www.youtube.com/playlist?list=PL4hB-fJ-cHD3NyQssSy38uADnXotkFO9N




2024年9月4日水曜日

排外主義についてのノート

 


 

 最近はYOUTUBEの配信に注力していて、ブログをまったく更新していなかった。

ということを知り合いに教えられたので、ちょっとだけノートを書きます。

 

 

 少し前の話題だが、ある女性アナウンサーがSNS上で「おじさんの臭いががまんできない」旨の発言をし、“炎上”。このアナウンサーが事務所との契約を解除されるという出来事があった。うん。

 また別の場面では、トランスジェンダーの権利をめぐって、公衆浴場や公衆便所での入場規則が議論になっている。これもけっこう大きな論争である。うん。

 また別の場面では、在日外国人に対する悪質なデマゴギ―が流布され、右翼による執拗な排除運動が繰り返されている。

 

 各論における私の見解は別の機会にするとして、いまここで考えたいのは、現代の社会を特徴づける排除イデオロギー・排除型社会の動機についてだ。

 

 排除型社会の構成について、経済学の角度からは二つのことが言えると考えている。

1,  産業資本の後景化

2, 非物質的労働の増大

 

1,  産業資本の後景化

かつて資本増殖の中心は産業資本であった。石炭採掘、鉄鋼生産からはじまり、機械・輸送機械・電機といった工業生産が、資本蓄積の中心を占めていた。しかし産業資本の時代は長くは続かなかった。日本では1970年代から変化が始まり、不動産・情報・観光・文化産業が成長していく。なかでも大きく成長したのが不動産部門である。

不動産は金融商品となって、使用価値よりも交換価値が重視されるようになる。生活領域に人種的・観光的価値が入り混じり、都市のジェントリフィケーションが進行する。清潔で、安全で、人種主義的に「美的なもの」が、不動産収益の条件に求められるようになる。

産業資本が大衆を動員し包摂する性格をもっていたのに対し、不動産(金融)事業は選別・排除の性格を持つ。ここで収益性の要になるのは、動員ではなく排除である。

 

2, 非物質的労働の増大

物質的労働(工業労働)は、分業と分業によって実現した作業の標準化・計量化を基調としていた。これはテイラー主義と呼ばれている。労働は時間によって計測され、賃金は労働時間と対応するように制度化されていた。

 しかし現在増大している非物質的労働は、作業が不定形で、作業量を時間で計量することができない。さまざまな質の労働が入り混じりながら、必要な手間が際限なく増大し続け、それを割り与えられたわずかな人員でこなさなくてはならない。作業手順は標準化できないし、時間で計測することもできない。労働の強度(労働者の疲労)が考慮されることがない。

 こうした労働の態様は、農家や家事労働と似通ったものになる。作業量に対して人員は常に不足していて、予期せぬ問題があらわれては消え、作業は際限なく増殖し、労働者間の作業の押し付け合いが常態化する。これはテイラー主義で秩序づけれていた賃労働とはまったく違う。家事労働に近い環境だ。

 労働者間の作業の押し付け合いとは、言い換えれば、職場の小さな政治が常態化し激化していくということだ。これは、核家族化に至る以前の農家で嫁と姑と小姑が繰り広げていた衝突が、現代的なオフィスで再現されるということである。

現代のオフィスで働く労働者は、他責的で排他的な思考に親しんでいる。「おじさんの体臭がくさい」という発言が、大人が言っていいことなのか、言ってはいけないことなのか、賛否が拮抗するくらいわからなくなっているのは、それだけ労働者が排他的な思考に親しんでいるということだ。

 

 ーーーーーーーーーーーーーー

YOUTUBEの配信はこちら↓

楽人プレゼンツ 「矢部史郎に飲ませる会」

木曜日21時から毎週配信しています

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

2024年3月30日土曜日

カンパを募集します

  今年2024年は、なんだか忙しくなってきました。

昨年末、名古屋高裁の判決が出て、少し自由な時間ができるかと思っていたら、京都で行われる国際集会や、東京での公害調停の申し立て、最高裁を包囲するヒューマンチェーン共同行動など、他地域・他団体との共同行動に首を突っ込むことになっています。

愛知・岐阜・三重だけでなく、京都や福井などに足を延ばしていくと、交通費の捻出に頭を悩ませる日々です。4月には東京に行かないといけないし、京都にも何度か行かないといけないだろうし、余裕があれば広島にも足を延ばしたいです。

 そういうわけで、活動費のカンパを募ります。

 このブログの自己紹介欄に「ドネイション」という項目があるので、そこに振り込んでください。支出の報告はしませんが、絶対に、おもしろくします。

よろしくお願いします。


2024年2月16日金曜日

自由の敵の自由をゆるすな

 


 

 原子力問題以外について言及することは避けたいのだが、一言だけ、メモ程度に、世界情勢について。

 

 イスラエルシオニスト軍がパレスチナ民衆にたいして行っている虐殺を見せられて考えるのは、現代は極右の時代であるということだ。アメリカ・ヨーロッパ・日本で、極右勢力の暴力が席巻している。

しかし現在の国際連合は、極右と極右国家をどのように扱うべきか、足並みを揃えてはいない。

ドイツ政府は国内のネオナチに強い統制をかけてはいるが、同様の思想をもったシオニストにたいしては寛容である。

ロシア政府はウクライナの非ナチ化を目指して戦争を行っているが、シオニストに対しては腕をこまねいている。

アメリカ政府は表面的にはリベラルを粉飾しつつ、実際には極右勢力を支援している。いや、現代の極右の元締めというべきは、アメリカ政府である。

 

ここであらためて検討するべきは、ロシア政府が提起した「非ナチ化戦争」である。「西側」諸国では、これを戦争を正当化するためのたんなる方便と受け流してしまっているきらいがあるが、本当にそれでいいのか。私の眼には、アメリカ政府が言う「対テロ戦争」よりも、ロシア政府が言う「非ナチ化戦争」の方が、よく時代を捉えているし、検討に値するものに見える。

 

 

 

 

2024年1月18日木曜日

ライブ配信の予定

昨年末から試験的にライブ配信をやっています。

毎週木曜21時からという予定でしたが、

今週は機材が確保できないので、ちょっと変更です。


1月20日(土) 21時スタート

 https://youtube.com/live/xo0_zetw9nE


視聴者のコメントを中心に喋っていくので、

ぜひご参加・コメントをください。


おまけ れじゅめのようなもの




2023年12月27日水曜日

新しい運動と年末の放送

放射能汚染問題で、新たな動きが始まりました。

紹介します。




 

ごちゃごちゃ解説するより、観てもらった方が早いです。

東京を舞台にした反公害闘争が始まります。


そして年末最後のオンライン配信です。

これ↓

 

矢部史郎に飲ませる会


2023年12月6日水曜日

判決に不服なので、これからユーチューバーに挑戦します。



 11月22日、名古屋高裁の判決がでた。

 判決内容は最悪のものだったが、原告たちは次の最高裁に向けて運動を拡大させようと、作戦を練り始めている。



 私は、最高裁にむけた全国運動を支援するかたわら、ユーチューブをやってみようと思う。

 ライブ配信で、コメントを読むというスタイルで、放送をやってみる。

 私も敵が多いので、うまくいくかどうかわからないが、よろしくお願いします。

 第一回放送は12月14日、夜9時から、ライブ配信です。



https://www.youtube.com/live/kaPRApGV65s?si=Smd9SIFuiPkzGVcK

2023年11月2日木曜日

『万物の黎明』を読んで、知恵熱

 

 デヴィッド・グレーバーとデヴィッド・ウェングロウの共著『万物の黎明』(酒井隆史訳・光文社)を読んでいる。興奮の内容がこれでもかこれでもかとつづくので、脳髄がグルグルで知恵熱を出した。解熱剤を飲んで休みながら、ゆっくり取り組んでいる。

 今月末11月25日に、訳者の酒井さんを名古屋に招聘してインタビューをするということなので、あんまりゆっくりもいていられないのだが、なんとか間に合わせようと思う。

 


 まず冒頭から、すごい。「なぜこれは不平等の起源についての本ではないのか」と題された第一章は、ルソー批判(ルソー/ホッブズ批判)から始まる。18世紀西ヨーロッパの啓蒙主義思想は、人間の自由を考えるときに、なぜそれを不平等の問題に置き換えてしまったのか。自由の抑圧の問題と平等の欠落の問題とを短絡させた啓蒙主義の思想の背景をみることで、歴史をめぐる想像力の限界、誤解と偏見にまみれたヨーロッパ人の文明観をあぶり出していく。

 問題は、「国家のない太古の昔、万人の万人に対する戦争状態があった」と唱えるホッブズだけではない。ホッブズに対置して、「国家のない太古の昔、人々が助け合う原始共産制があった」と唱えるルソーの思想にも、メスを入れていく。この野心的な議論は、人類学や考古学に携わる人々のマニアックな論争ではない。ここで著者が想定しているのは、現代のラディカリズムが、グローバルなリベラリズム(ネオリベラリズム)に呑み込まれることなく、それと対抗し克服していくための思想的基盤を構築しようということなのである。

圧巻である。冒頭からすごすぎる。

 


 グレーバー/ウェングロウの問題意識を私なりに咀嚼するなら、こうだ。

  放射能汚染された地域からの退避・移住について、日本政府はいっさい支援していない。汚染地域からの住民の退避は、もっぱら私権の行使・自力救済という方法で実践されていく。東北・関東から住民が退避するという傾向は、これから本格化するだろう。福島県だけを例にとってみても、事故当時200万人であった県人口が、この12年間で約24万人減少している。このうち社会的人口減がどの程度寄与したかは一概に言えないが、すべての市町村が社会的人口減の渦中にある。汚染地域からの人口流出は今後も不可逆的に進行する。

 自主避難という行動には、受動的性格と能動的性格が重なっている。「自主避難者」は、好き好んで住処を離れたのではない。どうにもならない土壌汚染によって避難移住を強いられたのである。この意味で「自主避難」という表記にはカギカッコをつけなくてはならない。

だが、自主避難者が、環境の変化に応じて純粋に受動的に行動をしたのかというと、それも違う。私たち自主避難者が、脅威をさけるために逃げ惑う動物のような存在だと考えるなら、それは全面的に間違いである。自主避難者は、過酷な状況におかれた対象・客体であると同時に、状況を克服する主体でもある。  

 問題の焦点となるべきは、自主避難者ではなく、主体の形成である。考えられるべきは、現在汚染地域に暮らしている人々が、どのようにして自主避難者という主体に変化していくのか、そのための条件はなにか、なにが人々の行動を抑止しているのか、ということである。

 人々の行動を決定しているのは、各人の経済的条件だろうか。経済的に裕福な者が避難をして、貧しい者が避難を断念するのだろうか。これは部分的には正しそうだが、総論としては違う。観察された事実を見ても、避難の判断は、その世帯や個人の経済条件に決定されてはいない。自主避難者となるか汚染地に留まるかの分岐を、経済条件に還元することはできない。

 では、文化・イデオロギー・ハビトゥスの問題なのだろうか。自主避難者は、なんらかの文化的特性を有していたから、自主避難をしたのだろうか。これは人類学や社会学にとっては興味深いテーマだが、なかなかむずかしい。少なくとも言えるのは、静的な構造を前提にして現象を説明しようとしても、うまくいかないということだ。自主避難者はさまざまな階級・階層を横断していて、性別も属性も価値観も多様である。そして、避難という行為はその文化(ハビトゥス)を動的に変化させもするのである。

 

 この問題について私の結論を言えば、避難を可能にする条件というものは、ない。自主避難という実践を、経済条件に還元することはできないし、文化的特性に還元することもできない。

 そしてもう一歩踏み込んで言ってしまうと、日本政府あるいは日本社会が自主避難者に脅威を感じとり、口ごもるのは、この点にある。

自主避難者は、自明視され絶対視されている「社会的条件」を、克服し、客体化してしまうのである。意識的にそうする人もあれば、意識せずに結果としてこの社会を客体化してしまう人もある。避難した者も、避難を躊躇している者も、どちらも困難な条件にあることは共通している。しかし、自主避難者たちが違っているのは、汚染被害者たちに生涯付きまとうだろうと信じられていた無力感や罪悪感や閉塞感を、克服しつつあるということだ。なぜなら彼女たちは、社会から疎外された避難生活をとおして、この社会を対象化してきたからである。事故後の日本社会は、自主避難者から目を背けるか、想像的な投影の対象として眼差しを向けてきた。しかし自主避難者は、その数倍の強度と精度でこの社会を観察し、対象化してきたのである。

テレビから浴びせられる「絆」キャンペーンに人々がうっとりし国民精神が動員されているときに、自主避難者たちは、その動員の欺瞞とちょろすぎる国民たちを観察していた。「絆」キャンペーンに込められた道徳的指令、すなわち、無力感、罪悪感、閉塞感を、彼女たちが真に受けることはなかったのである。

 

 私はいま愛知・岐阜に避難した福島県民の裁判運動を支援している。この裁判では、関東からの自主避難者たちのグループが、支援運動の中核に加わっている。この運動に参加した人々が最初に感じる驚き(あるいは違和感)は、この訴訟団のメンバーがやけに明るいということだ。目にじっとりと涙を浮かべて苦しみを語る姿を想像してきた人は、その明るさにひょうし抜けするだろう。みな冗談を言ってケラケラと笑いながら、演説をし、署名とカンパを求めていく。内容は重厚でラディカルな要素を多分に含んでいるのだが、重苦しくもったいをつける態度はない。明るく淡々と、国と東電を弾劾するのである。

この訴訟が勝てるのかどうかは、まったく不透明である。だが私にとって重要なのは裁判の勝敗ではなく、この裁判運動が人々の予想を裏切る新しい態度、新しいノリを生み出したということだ。

原発事故の被害者が永遠に泣きべそをかいていたのなら、日本権力にとってなんの脅威にもならなかっただろう。だが、全国に離散した原発被害者は、多様であり、そのなかには人々の予想を超える強かな人間がいる。彼女は日本社会を観察し、日本の「国民性」や日本の「文化」を知っている。そしてそれとは違う文化をつくろうとしている。

 

 

 

 

 

2023年10月22日日曜日

思考の可否を強度で評価すること

 

 

 8月は、韓国から来日した反核活動家イウォニョン氏と80kmほど歩いた。

へとへとになって高熱も出したが、おおいに得るものがあった。

9月11日の国会前行進に向けた呼びかけの文章で、私は自分でも驚くような大胆な表現をしていた。被曝受忍政策(濃度規制政策)を指して私は、「弱く野蛮な考え」と書いていたのだった。さっき気がついた。

脱水症状につづき高熱でうなされたあとに、ひょうたんからこまというか、一線を越える表現をしてしまった。

これはいい。

道徳的な判断ではなく、また道徳を転写しただけの政治的判断でもなく、強度の審級で問題を考えること。正しいか否かではなく、強い考えか弱い考えかで、議論を評価すること。これは非常に魅力的だ。

 

とはいったものの、これはこれで、大変な道だ。

満身創痍になることは覚悟しなければならない。

しかしまあ、やるしかない。

 

 

2023年9月6日水曜日

9月11日、国会へ

  日本政府が汚染水放出を強行し、韓国政府がこれを追認するなかで、これらに抗議する韓国市民の行動に注目が集まっている。

 ソウルから東京まで1600kmを徒歩で行進する「日韓市民徒歩行進」は、9月10日に東京に到着する。最終日の11日は、新橋駅から国会まで2.2kmの行進をおこなう。

この日は私も上京して、最後の行進に参加しようと思う。

放射能汚染を放置する政府と、被ばく受忍政策を受け入れてきた日本社会に対して、弱く野蛮な考えを改めるように要求しようとおもう。

考えを同じくする人は、新橋に集まってほしい。

9月11日 14時 新橋駅西口SL広場


2023年8月28日月曜日

濃度規制ナショナリズム、又は、被ばく受忍ナショナリズム

 


 

 東京電力が放射能汚染水を放出する計画があると聞いて、韓国の市民、李元栄(イ・ウォニョン)氏が、東京に向けた行進を行っている。6月18日にソウルを出発して韓国を徒歩で縦断し、7月16日、山口県下関市に上陸。その後、中国、近畿を歩き、愛知県に入ったのは8月20日だった。

 8月20日の午後、岐阜駅を出発して、木曽川を渡り、一宮市に入った。岐阜県・愛知県では、李氏をサポートする実行委員会が作られ、反原発運動の人々が李氏と共に歩いた。

私は8月20日の岐阜駅から24日の岡崎市本宿駅まで同伴したが、ここで脱水症状を起こし、翌25日の朝には高熱を出して、リタイアした。豊橋駅まで歩きたかったが、体がついてこなかった。

この後、9月11日に東京の国会へ向かうべく、李氏はいま静岡県を歩いている。

彼の訴えはとてもシンプルだ。放射能汚染水の放出をやめろ。水で希釈する濃度規制などなんの意味もない。この問題に適用すべきは総量規制である、と。

 


現在、日本のマスメディアは、汚染水放出問題の本体を見ないで、もっぱら中国政府との外交問題として報道をしている。

ここまであからさまなナショナリズム報道は見たことがない。

問題は汚染水放出の是非であるのに、すべて中国敵視報道に置き換えてしまっている。特にみなさまの公共放送NHKが、最悪だ。日本と中国との敵対を煽るような、蔑視と敵視に満ちた報道だ。日本の濃度希釈が科学的で、中国の主張は非科学的だと、記者たちは本当に信じているのだろうか。NHKの科学部は全員バカになったのか。

いまのNHKは、国内の矛盾を国外に転嫁する見本のような、非常に危険な報道だ。

 

このナショナリズムは、昨日今日はじまったわけではない。スタートは2011年の原発事故である。政府は原子力緊急事態宣言を発令し、被ばく受忍政策へと舵を切った。次いで、福島復興キャンペーンに大量の予算を投じ、全国の人々に「食べて応援」を推奨した。福島復興の基礎となるのは、被ばく受忍であり濃度規制である。1kgあたり100Bq未満の汚染食品は流通させる、年間20mSv未満の汚染地域には住民を住み続けさせる、というものだ。この基準を我慢して受忍することが、福島復興の必要条件なのだと、政府とマスメディアは宣伝したのである。

 

問題をさらに深刻にしたのは、反原発運動の変質である。2011年以後に急速に膨れ上がった反原発運動は、その多くが被ばく受忍政策を容認した。原発再稼働に反対する市民が、同時に、「食べて応援」キャンペーンに協力するという、異常な事態が生まれたのである。被ばく受忍を容認する反原発運動とは語義矛盾に聞こえるかもしれないが、これは実際に起きたことだ。

もちろん、「食べて応援」を拒否する人々、汚染地域からの自主避難を敢行する人々は、少なからず存在した。だがそれは社会的に孤立させられた。私たち避難者は極端な考えを持つ異端とみなされた。市民運動のなかでも、なかば歓迎され、なかば腫れ物である。あるいは右翼からは「非国民」と罵られることになる。この2011年の時点からすでに、被ばく受忍ナショナリズムは始まっていたのだ。

 



韓国からやってきた李さんと5日間歩き、言葉を交わしながら、私はこの12年間を振り返っていた。

やっぱり、どう考えても、日本は異常だ。

放射能汚染は、社会をズタズタにしてしまったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2023年7月5日水曜日

偽善を組み込んだ権力

 


 

 言葉には流行りすたりがあって、ある時期さかんに口にされていた言葉が急に使われなくなるということは、よくあることだ。流行語がある時期を境に死語になってしまうというのは、特に珍しいことではないのだろう。

 

 私がいま記憶をたどりながら考えているのは、「偽善」という言葉だ。

私がまだ若かったころ、高校生や大学生が交わって青臭い議論をしていたころ、「偽善」という言葉は生きていた。自分の信じる行いが、真に善行といえるものなのか、たんなる主観的なものにすぎないのか、わりと真剣に議論したものだ。30代になって、イラク反戦運動に加わったころも、「偽善」という言葉は使われていた。当時、無名の市民による平和活動やボランティア活動が注目を浴びるたびに、「偽善」という非難が飛び交っていた。ボランティアグループのリーダーは「やらぬ善より、やる偽善」などと言って反論していたものだ。

私の記憶では、2009年の民主党政権成立時には、まだ、「偽善」という言葉が使われていたように思う。

ところが現在は、「偽善」という言葉をまったく耳にしなくなった。口汚く論争することで有名なネット掲示板を見ていても、誰も「偽善」という言葉を使わない。「偽善」は、死語になっている。

この10年ほどの間に、どのような変化があったのか。

 

日本人の全体が知的に成熟し、善悪という概念から解放されたのだろうか。そうなれば喜ばしいことだが、残念ながらそうではない。おそらく起きている事態は、善悪からの解放(善悪概念の揚棄)ではなくて、善悪の陳腐化である。善は信じられていて善行は行われているのだが、それが重みを失っているのだ。

 陳腐化の兆候はすでに2000年代にはあらわれていた。ボランティア活動の中心的なグループが、「やらぬ善より、やる偽善」といった功利主義的な論理をもっていたわけだから、ボランティア活動の意義と正当性は、その方針であるまえに、動員力・実行力にかけられていたわけだ。だから、その行為の意義がほとんど信じられていないのに人や資金が動員されるという事態も、起きうるのである。

 

 2010年代の出来事として決定的であったのは、東日本大震災にかかわる復興ボランティア活動だ。ここで民主党政権がおこなったのは、災害復旧のためのボランティア動員を、福島県や宮城県の放射能汚染地域にも適用したことである。ボランティア活動が含み持っていた翼賛的性格が、このときむき出しになった。政府の号令に呼応したボランティアグループは、自ら被ばく地帯に赴き、福島県・宮城県の被ばく受忍政策を支援したのである。

  このとき、放射能汚染の事実が知られていなかったわけではない。誰もがそれを知っていて、福島「復興」の非現実性を指摘する人々も少なからず存在した。私も、福島に向かおうとする友人に向けて、考えを改めるように強く警告した。

私が我慢ならなかったのは、若者たちの自己犠牲的行動が、東京電力と日本政府と原発推進派の福島県政を助けるような方向に操作されていることだった。原発事故の後始末は原発を推進してきた連中だけでやるべきなのに、なぜ責任のない若者たちの命が削られなければならないのか、ということだ。原発推進派はどさくさに紛れて責任の付け替えを行い、福島「復興」を全国民の責務にしようとしたのである。

 こうした権力の策動を積極的に受け入れたボランティア団体は、たんなるお人よしでは済まされない。ただのマヌケでもない。権力に迎合して人々を動員する戦争機械である。「復興」ボランティアは、原子力官僚制という国家装置の全体に活力を与える戦争機械になったのである。(※1)

まったくおぞましい光景だ。

 

 

 2011年以降のボランティア活動の変化をみれば、なぜ私たちが「偽善」という言葉を使わなくなったのか、ひとつの説明がつく。

そもそも「偽善」という批判が成立するためには、批判者がその対象をあるていど善だと感じ取っていることが前提となる。ある行為が善行だと信じられているからこそ、その批判者は「偽善」という言葉を使わなければならないのである。もしもボランティア活動に「偽善」という批判が向けられないのだとすれば、それはその活動が批判者にとって善行だと信じられていないのである。

善悪は陳腐化し、行為の正当性が真剣に議論されることはなくなった。

福島「復興」政策においては、誰も自信をもって正当だと言えない状態のまま、「食べて応援」キャンペーンが続けられたのである。

 

※1 ”戦争機械”と”国家装置”の概念については、ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリの著書『アンチ・オイディプス』及び『千のプラトー』を参照。

2023年6月10日土曜日

原発問題をめぐる抵抗感について

 


 

 原発事故の賠償請求訴訟に支援者としてかかわって、5年ほどたつ。

全国に30ほどある賠償請求訴訟のなかでも、名古屋の訴訟団はとくに明解な運動方針を打ち出し、注目を集めている。しかし、裁判闘争への支持がひろく集まっているかというと、まだ端緒についたばかりという段階だ。

原発問題について人々は積極的に関わろうとはしない。事故から12年たって問題が風化したから、というのではない。争点が複雑で理解が難しい、というわけでもない。争点はむしろ単純で、説明する余地がないほどだ。

ではなぜ人々は原発問題に触れようとしないのか。問題は、政治やイデオロギーよりも深い地層にあって、これを理解するには社会学的な分析を必要とするだろう。あるいは、精神分析を援用した「分裂分析」(ガタリ)のような手法が必要になるのかもしれない。おそらく現在の日本社会を覆っているのは、複雑な政治対立ではなく、対立の不全である。

 


2011年3月から現在まで、日本は原子力緊急事態宣言下にある。原子力緊急事態宣言下では、原子力基本法は死文化している。原子力基本法では、一般公衆の放射線被ばくは禁止されているが、緊急事態宣言下では公衆の被ばく受忍が容認され、推奨されてもいる。政府は年間20mSV未満の放射線被ばくを認め、重汚染地域への住民帰還政策を進めている。また、1kgあたり100Bq未満の汚染食品は流通可能になっていて、これを拒否すると「風評加害だ」といって論難されるのである。

こうした被ばく受忍の基準(実際には基準なき被ばく放任だが)について、国会で議論されたことは一度もない。政府は被ばく防護を被ばく受忍へと書き換える、決定的な方針転換をしたのだが、国会でこれが議論されたことは一度もない。すべては内閣府の権限で、一方的に、上意下達に、被ばく受忍の政令が発せられているのである。緊急事態宣言下では、これは「合法」となっている。そして内閣府が宣言を解除するまで、「緊急事態」が続くのである。

 

 自民党政権の安保政策を批判する集会に行って、この話題をふってみるといい。驚くほど無反応である。安保の「緊急事態条項」の違憲性について精密に論じている人々であっても、原子力緊急事態宣言の違憲性については、口ごもる。「緊急事態」と称した行政権力の暴走を批判するにあたって、原発問題はこれ以上ない事例だと思うのだが、人々はなぜかこの問題を避けようとするのである。

問題は、この緊急事態宣言が福島「復興」政策と一体であるということだ。福島「復興」は、被害地住民と全国民の被ばく受忍を前提に組み立てられている。原子力緊急事態宣言を解除してしまうと、福島「復興」というプランは根本から再検討する必要に迫られることになるのだ。


 

2012年、民主党・野田政権が号令した福島「復興」政策は、問題だらけである。

問題点を三つあげる。

問題の第一は、放射性物質を蓄えた福島第一原発の封じ込めが完了しないまま、福島「復興」という目標を掲げたことである。事故から12年たった現在も、福一の封じ込めはできていない。汚染地域の除染作業をおこなっても、再び福一の崩壊が起きれば元の木阿弥である。

第二に、「復興」事業の達成期限がない。何年までに復旧を完了させ、事故前の生活に戻るというゴールが、まったく示されていないのである。だから、事故から12年たった現在でも「復興は途半ば」という状態で、今後おそらく数十年は「途半ば」を言い続けることになる。

第三に、最大の問題は、「復興」事業の責任主体が限定されていないことである。放射能汚染を被った地域を元の状態に復旧させるというのは、非常に危険で困難な作業なのだが、政府はこれを東京電力ではなく被害住民にやらせてしまっている。また、全国から復興ボランティアを動員し、あたかも国民全体が福島復興の主体であるかのような構図をつくりあげてしまった。野田政権は、災害復旧に取り組んできたボランティア活動の手法を、原子力公害の復旧作業にも援用したのである。それがもたらした効果は、復旧への寄与ではなく、復旧の責任主体を曖昧にすることであった。全国民が福島再生に取り組むという美しい物語によって、政府と東京電力の責任は曖昧にされ、誰も彼もが無責任になってしまった。結局、土地を離れることのできない被害住民だけが、いつ完了するかわからない「復興」にむけた自助努力を強いられているのである。被害住民は12年もの間、がんばろうがんばろうと応援され続け、危険で無謀な試みを引き受けさせられてきたのだ。東京電力の不始末の尻拭いを被害住民にやらせることが、美談になったのだ。本末転倒な話だ。

 

話を冒頭に戻そう。安保法制の緊急事態条項に鋭く反応する反戦派(あるいはリベラル)の人々が、なぜ、原子力緊急事態宣言の問題には口ごもってしまうのか、だ。

原子力緊急事態宣言を批判することは、すなわち同時に、福島「復興」政策の異常性を議論の俎上にあげるということである。そして人々が本当に避けているのは、「復興」政策の是非を議論することなのである。

もう少し踏み込んで別の言い方をすれば、福島「復興」政策を信じているか信じたふりをしている人々の社会的合意を基礎にして、原子力緊急事態宣言下の行政権力の暴走が可能になっているのである。この構図は、「復興翼賛体制」と呼ぶべきものだとおもう。

福島と原発をめぐる国の政策は、問題だらけである。批判的に検討すべきものが山ほどある。しかし福島「復興」への翼賛が、あるべき議論を抑制し、結果として不問にしてしまうのだ。

 

私たちが権力との対立の焦点とするべきは、ここである。

被ばく受忍を美談に仕立て上げた福島「復興」政策に、正面から対決しなければならない。

 

 

2023年5月31日水曜日

混乱はあるが、絶望はしていない

 

日本共産党は、党内の選挙で党首を選ぶべきではないか、党首選挙を行うことで党内の議論が公開され、そのことが党の求心力を高めるのではないか、という議論について。

 私は共産党員ではないので横から口を挟むことはしたくないのだが、傍観者として感想を言うなら、問題は党内民主主義の形式であるよりも、党の科学主義が空洞化しつつあるということなのではないかと思う。党の科学主義が求心力を失っていることが、「民主主義」の形式の問題として表出したのではないか。

私たちのような無政府主義者からみれば、「党首公選制」など議論に値しないまったくナンセンスな提起なのだが、そうした提起がなされてしまう程度に、共産党の科学主義(啓蒙主義)が衰弱してしまっているのだろう、と解釈している。

 

 今回の共産党の騒動は、時代の趨勢をあらわす一つのエピソードとして見るべきだと思う。時代の趨勢とは、反科学主義・反啓蒙主義が、「民主主義」の主張をまとって攻勢を強めているという状況である。

アメリカでは地動説や進化論を否定する宗教右翼が大統領選挙に強い影響力をもち、日本でもやはり反科学的な宗教右翼が政府の政策決定に影響力を行使している。19世紀の宗教右翼は民主主義を抑圧したが、現代の宗教右翼は「民主主義」を標榜し、多数決の議会制度によって科学主義と対抗するのだ。

私たちは古い観念にとらわれていて、科学と民主主義をニアイコールで結んでいる。しかし現代はそうした構図が通用しない。論ずるに値しないような反科学的な主張が、民主主義を要求するという形式で、声をあげているのである。現代は、科学的・啓蒙主義的な態度が「民主的でない」「専制的な態度」とみなされうるのだ。

 

 

 科学の論争も、民主主義をめぐる論争も、すべて裏返ってしまったように混乱している。

科学的には通用しない純粋に政治的な主張が、「科学」を僭称して科学者たちを圧迫する。歴史研究や放射能汚染問題においては、科学的に正当な見解が「非科学的」と論難され、非科学的な専門家のつぶやきが「科学」の権威をまとって喝采を浴びるという、ひどい状況である。

 

 大変な時代だな、と思う。

しかし、絶望はしていない。

科学と民主主義を結びつける確固とした経験を、私は経験したからだ。それは多くの人々の集団的な経験としてあって、そのことを誰も忘れていないからだ。

 

 

 

2023年5月10日水曜日

嘘つきの戦争報道

 


ウクライナのバハムートの戦いで、民間軍事会社ワグネルを統率するプリゴジンがトリッキーな動きをしている。プリゴジンはSNS上で、弾薬の供給が足りないとか、ワグネルの撤退を示唆するような発信をしている。

ウクライナのゼレンスキーは、プリゴジンの言うことはでまかせだと断定している。

だが、アメリカの戦争研究所は、このプリゴジンの言葉を真に受けて、ロシア軍内部に対立と統率の乱れがあるなどと的外れな「分析」をしている。

 

 普通に考えれば、プリゴジンがやっているのは「苦肉の策」である。

 「苦肉の策」とは、赤壁の戦いで呉軍が用いた計略で、部隊が忠誠心を失って敵に投降するという芝居をうって、敵を欺く方法だ。

話は中国の三国時代にさかのぼる。魏と呉が正面からぶつかった赤壁の戦い。呉の将軍黄蓋は、指揮官の周瑜に従わなかったとして鞭打ちの刑にあう。これを恨んだ黄蓋は、部隊を率いて魏軍に投降する。黄蓋の投降を信じた魏軍は、黄蓋の部隊を陣中深くに招き入れてしまう。陣中に入った黄蓋は、魏軍の船に次々と火をかけ、壊滅的な打撃を与えた。赤壁の戦いは呉の勝利となった。これが有名な「苦肉の策」だ。日本では、ゲームばっかりやっている男子中学生でも知っている、有名な故事だ。

 いまプリゴジンが狙うのは、ワグネルがロシア軍本体と対立し弱体化しているという芝居を打って、バハムートに敵軍をおびき寄せることだ。戦況の有利な土地にポーランド人部隊やアメリカ人部隊をおびき寄せ、決定的な戦果をあげたいのだ。

 ゼレンスキーは、これが見え透いた芝居であるとわかっている。

しかしアメリカの戦争研究所は、どうにもトンチンカンな見立てをしている。プリゴジンに騙されているのか、騙されたふりをしているのか。それともたんに「ロシア軍は弱い」と言いたいだけなのか。

 なにより不可解なのは、日本の戦争報道で解説者として登場する防衛省の分析官である。彼は日本人なのだから、赤壁の戦いも「苦肉の策」も知っているはずだ。なのに、英米の分析の間違いにまったく言及しない。英米の大本営発表に、右に倣えだ。

彼はものを知らないのではなく、嘘つきなのだ。

嘘つきが戦争を解説しているのだ。

 

2023年4月16日日曜日

白色テロル

  岸田首相の演説に殺傷力のない爆発物が投げ込まれた。

 犯人は24才。取り調べに対して黙秘しているという。

 犯行の様態と動機から考えて、統一協会の手の者に決まっている。

 統一協会は、朝日新聞阪神支局の殺傷事件とともに、中曽根首相(当時)に脅迫文を送りつけた疑惑がある。

 警察庁は、統一協会の壊滅作戦をやるだろうか。

 注視したい。


2023年4月10日月曜日

酒井さんの新刊『賢人と奴隷とバカ』

 


 献本をいただきました。ありがとうございます。

 


『賢人と奴隷とバカ』 

酒井隆史 著 

亜紀書房

 

 酒井隆史さんが過去10年に書いたエッセイをまとめたものです。

ラフに書かれたものとはいえ、当代一流の知識人が書いた「ラフ」な「メモ」です。毎月大量生産されているくっちゃべり新書の類と一緒にしてはいけません。彼が経験したこの10年の思索と懊悩が伝わってくる、非常に緊張感の高いエッセイ集です。

 どうせあれだろう、左翼知識人が世界の右傾化を嘆いてけしからん云々ってやつだろうと予断をもって読むと、やけどします。彼の懊悩はそんな表面的なものではありません。ざっくりいえば、「大学人も新聞記者もみんな死ねばいいのに」というレベルの話をしています。(こんな直接的な言い方はしていませんが)

 

 初めて読む読者にとっては、彼が何を問題にしているのかわかりにくいかもしれません。

しかし、こういうものは、慣れです。ゆっくりと時間をかけて何度か読みかえしているうちに、酒井氏(ら)の視座と、問題を扱う方法が、わかってきます。論じる際の手つき、空気感が、体にしみこんできます。

 人文科学というものがどれほどの奥行きをもっているのか、その一端を垣間見ることができます。

 

 

 

2023年3月29日水曜日

書評『核分裂・毒物テルルの発見』

 

 『核分裂・毒物テルルの発見 ―原爆/核実験/原発被害者たちの証言から』

山田國廣 著  藤原書店

 



 著者の山田國廣氏は、福島第一原発事故後のデータを解析し、核物質による健康被害を研究してきた科学者である。とくに、爆発直後に生成され短期間に壊変していった放射性物質(テルル・ヨウ素・キセノン)に強い関心をもって研究を続けている。

  本書で主張されているのは、放射性物質による内部被ばくとは別に、原子炉から放出された金属の化学毒が健康被害の要因になっているのではないか、という説である。初期被ばくの急性症状として報告された頭痛・めまい・吐き気・異常な倦怠感・鼻血・異常な皮膚症状は、有害金属に暴露・吸引したことによるものではないか、というのだ。この説は、放射線被ばくの影響を排除するものではなく、放射線被ばくと化学毒(鉱毒)が複合して、住民の健康被害を生み出したとするものだ。


 原子炉は核分裂反応を繰り返すことで、さまざまな物質を生成させている。放射性同位体が生成し、それらが壊変して安定同位体になり、さらにそれらが中性子を浴びて放射化する。原子炉に堆積していた代表的な物質をあげるだけでも、クリプトン(ガス)・キセノン(ガス)、放射性ヨウ素、安定ルビジウムと放射性ルビジウム、安定セシウムと放射性セシウム、安定テルルと放射性テルル、放射性アンチモン、安定ストロンチウムと放射性ストロンチウムがある。


著者の山田教授が特に注目するのは、安定テルルと放射性テルルである。

テルルは、原子炉に堆積していた質量としては、セシウムやストロンチウムには及ばない。セシウムが約200kg、ストロンチウムが約160kgにたいして、テルルは約30kg程度である。しかし、化学毒の強度において、テルルは最悪である。セシウムやストロンチウムの化学毒性が比較的無害とされるのにたいして、テルルの化学毒の半数致死量(LD50)は1~10mg。体重1kgあたり10mgを投与すると半数が死亡するという毒性を持つ。これは、カドミウムやクロム、鉛、水銀と同等の強い毒性である。

福島の原発事故では、テルルの化学毒によって死亡したというケースは考えにくいが、吐き気・異常な倦怠感・鼻血・皮膚の異常を引き起こすというのは充分にありそうな話だ。


ここで誤解がないようにくりかえし言っておかなければならないのは、この研究は放射線被ばくの影響を否定するものではないということだ。放射線被ばくによる健康被害はある。それに加えて、化学毒の被害もある、という主張だ。 私たちは、放射性物質と有害金属の複合汚染を経験しているということだ。



 原発事故後、東北や関東の各地で、子どもが大量の鼻血を出したとか、異常な疲労感ですぐに眠ってしまう、といった報告があった。こうした健康被害の証言は、「気のせい」、「心理的なストレスが要因」、あるいは、「反原発派によるデマ」といって頭ごなしに否定されてきた。否定派いわく、関東のような低い放射線量では人体に急性症状が出るわけがない、と。たしかに、放射線被ばくの効果だけでは、これらの症状は説明がつきにくいものだ。しかし、説明がつかないからといって、被害がなかったということにはならない。「気のせい」ではないし、「デマ」でもない。これらの症状には何か理由があるはずだ。

山田教授の研究は、被害者たちが経験した記録・証言に立ち返って、もういちど違った角度から問題を考えなおしてみようという試みである。

 

本書はけっして読みやすいものではないが、議論に値する重要な指摘がある。

まずは、補論(本文257頁)とJAEAの公表資料(カラー図版69頁)を頭に入れてから、各章を読み解いていくことをおすすめする。