2020年5月27日水曜日

ロックダウン化のプリズム




 「左翼が沈黙している」、と新聞社のデスクが言った。今次の新型ウイルス問題で、左翼がほとんど発言をしていない、どうしたことか、と言うのだ。いやいや共産党もその他の諸党派も、なにか言っているでしょう。社会保障を拡充しろとか、医療体制を強化しろとか。反グローバリゼーション運動の中心を担ってきたATTACは、今次の事態が新自由主義グローバリゼーションのもたらした結果だとして、改めて、新自由主義世界政策の廃棄を訴えている。
 だがこのデスク氏は、違うという。彼女の眼には、それらが不充分なものに見えるようで、事態の全体も、核心も、今後の展望も、明らかにされていないというのだ。

 彼女が不満を漏らすのもわかる。批判的知識人は、この事態を総括的に分析・評価することを躊躇している。数多いる知識人が、いま手っ取り早く何かを言うことを避けている。だがそれは彼らが怠けているからではなくて、この事態に誠実であろうとするからだ。
 通常であれば、批判的知識人は政策をざっと見渡して、その中心となる国家意志がどこにあるのかを見定めようとする。だが、今次のウイルス対策では、肝心の国家意志がブレている。国家の諸部門と資本の諸部門と政治の諸勢力が、新たに再編されようとしているのだが、その方向性が定まらない。これは日本一国がそうだというのではなくて、世界の諸権力間で事態が流動化している。権力の体勢が定まっていないのだから、政治分析の方法はしばらく控えようということになる。この慎重さは、ジャーナリズム的には不満がのこることかもしれないが、学術的には成果と言えるものだとおもう。


 新型ウイルスへの対処として、日本でも都市のロックダウンが実行された。ある者は積極的に、ある者は消極的に、行政の自粛要請に従った。
 この50日間の経験を「国民一丸となって」と表現することは、事実として間違いであるし、捉え方として生産的でない。私たちの50日間は、そんな安っぽいものではない。私たちがこの間に学んだのは、社会は一つではないということである。
 例えば、全国の学校が閉鎖されたことで、1400万人の児童とその家庭が自宅待機を経験したのだが、その受け取り方は一様ではない。追い詰められ悲鳴を上げた人々もいれば、解放感を味わった人々もいる。もう限界だという家庭もあれば、もっと継続してもよいという家庭もある。テレワークを経験した人々のなかには、仕事がはかどった人もいれば、まったく仕事にならないという人もいる。家庭内暴力を経験した家庭もあれば、良い意味で関係が変わったという家庭もある。深夜営業のバーが閉鎖されたことで、行き場を失って途方に暮れた人間がいる一方で、自宅で一人で過ごすことの楽しみを発見した人間もいる。ロックダウンがいったん解除されて、喜んでいる人々がいる一方で、持病を抱えた人々やお産をひかえた人々は警戒心を強めている。
 私たちは、一つの出来事を経験しているように見えるとき、実際には、それぞれがまったく違った経験をしている。一つの光から複数の色が放射されるプリズムのように、社会は多数性(多様性)をもっている。ある出来事が何であったのかを、一様にまた一義的に評価することはできないのである。
 この間の経験で私たちが学んだのは、社会にはさまざまな境遇と事情をもった人間がいて、多数多様な社会が存在することだ。人々は自分とはまったく違った境遇にある人間を想像するようになったし、困難を抱える人々にいたわりの気持ちを持つようになった。
 また、出来事を一義的に解釈するのではなく、肯定性と否定性を同時に見るようになった。つまり、両義的に考える習慣をもつようになった。ある人の不合理に見える行為を一方的に断罪するのではなく、それがどういう背景と事情をもって行われているのかを見ること。一般的に良い政策に見えるものが、ある人々にとって危機的な状況を生み出すものであることを知ること。私たちはこの50日間でそうした訓練を積んできたといえる。


 2011年の放射能汚染事件の頃と比較すれば、事態はずいぶん良くなっているように思う。放射能汚染問題に際しては、人々は復興政策に雪崩をうって、政策の是非を議論する余地もなかった。汚染問題を告発する人々は孤立させられ、復興政策の障害物として一方的に断罪された。「復興」、「絆」、「平常通りの経済活動」に疑いを挟むことは、「風評被害」と名指しされ排撃されたのだ。あの悪夢のような民進党政権時代と比べれば、現在はずいぶん風通しが良くなったと思う。
 人々が両義的な思考を身に付けることは、扇動的なデマゴギーを退け、議論を唯物論的に遂行する条件になる。かつて復興政策のデマゴギーに呑み込まれた「左翼」や「知識人」には、もうしばらく沈黙していてもらいたい。