2017年2月27日月曜日

塚本幼稚園のために涙を流すことはないのだが


 大阪の森友学園・塚本幼稚園が話題だ。

 昨年の今頃は、「保育園に落ちたの私だ。日本死ね。」というブログ記事の話題が日本中を席巻していたのだが、今年は保育園ではなく幼稚園の問題である。昨年・今年と連続して、再生産領域をめぐる議論が繰り広げられている。

 で、問題の塚本幼稚園なのだが、ほとんどギャグというか、2ちゃん的には「釣りだろこれ」というシロモノだ。事実は小説よりなんとかだ。
 この幼稚園について反応するポイントはおそらく二つあって、
① 教育内容が極端な国粋主義であること
② 教育手法が児童虐待事案であること
である。

 政治的な論点としては①の教育内容が「うわあ」ポイントなのだが、実際に大多数の人が感じている「うわあ」ポイントは、②である。②が、すごすぎて、①を圧倒している。
 まだおむつのとれていない子供が失禁した際に、その糞便をそのままかばんに突っ込んで持ち帰らせている件、とか、まだ漢字も読めない幼児に意味不明な長文を唱和させている件、とか。あの子供たちの唱和の映像を見たら、まるで腹話術の人形である。子供を人形のように喋らせることが、「教育」として堂々と行われている。これはかなり「うわあ」である。

 現代の子育て世代の一般的な感覚で言えば、この園長と副園長は「毒親」と呼ばれるものだ。「毒親」とは、子供の人格と尊厳を認めず、自分の意のままに操ろうとして、けっきょく子供をつぶしてしまう親である。親子関係を小さなカルト空間に仕立て上げてしまうサイコパスである。育児に関わらせてはいけない「壊れている」親だ。そういう毒性をもった人間が、自分の子供を支配しようとするだけでなく他人の子供を預かって幼稚園の経営をしてしまっているという事実が、「うわあ」である。

 おそらく塚本幼稚園と私たちとでは、育児をめぐる実践感覚が根本的に違っている。子供の人格権を認めるところから出発するのか、それとも、子供の人格権を認めないまま「しつけ」をするか。「しつけ」と言えばそれらしく聞こえるが、本質的にはサルの調教である。塚本幼稚園にとって子供とは、制裁を加えながら調教されるべきサルである。
 これは、教育手法をめぐる理念とか思想とかいう高度な問題ではなくて、もっとそれ以前の、実践感覚としてズレているという問題である。彼らは人間とサルとの違いを、感覚として体得していない。幼稚園とサル軍団は違うのだということを、感覚としてわからない。われわれがサルではなく人間であるということ、その喜びを、感じることがない。彼らにとって生とは、たんなる痛みだ。彼は痛みから逃れることに人生のすべてを費やす。痛みから逃れることだけを考えるから、言動に一貫性がうまれず、すべてがその場しのぎのものになってしまう。
 2ちゃんねるの既婚女性板ではこういう種類の人間を「ポンコツ」と表現する。この園長と副園長はまさにポンコツである。ポンコツだから、新宗教や愛国心や政治権力に救いをもとめたのかもしれない。しかし、どんなすばらしい教えを信仰したところで、ポンコツは治らない。権威や権力で身を飾っても、ポンコツはポンコツだ。生の文明化の圧力をまえにして、無慈悲に淘汰されていくだろう。

 私たちが「うわあ」と感じ、私たちが育てる子供たちが「うわあ」と感じることによって、彼らは淘汰されていく。
 おそらく10年後には存在しない人々だ。
 再生産は、どんな暴力にもまして無慈悲だと思う。
 直視することがためらわれる、残酷な現実である。





追記
 放射能汚染後の日本では、再生産領域の問題が焦点化することが増えたように思う。人口流出による地方消滅問題、保育園待機児童問題、今回のイカれた幼稚園問題などがそうだし、安保法制に反対する運動もその主力となったのは若い母親たちだった。こうした傾向の直接の引き金となったのは、言うまでもなく放射能公害事件である。2011年以降、若い主婦たちが政治化する趨勢が顕著にあらわれている。彼女たちはたんに放射能汚染に抵抗するだけでなく、社会のさまざまな制度を再審にかける動きに出ている。私はこうした一連の出来事を総称して、「風評被害」革命、と呼んでみたい。
 「風評被害」革命は、政治革命ではなく、もっと広大な領域にひろがる文化の革命である。「風評被害」革命は、無血であるが、無慈悲である。「風評被害」革命は、無言の不服従によって、社会の血流を止め、壊死させる。「風評被害」は、力学的な働きによって制圧するのではなく、体温を奪うことで衰弱させる。この革命は、対象を破壊するのではなく、虚ろにする。
 「風評被害」革命は、どのようなしかたで作用していくのか。着目するべきは、どんな政策がとられているかということよりも、その政策が活力を持って実行されているか否かである。どんな法がありどんな機構があるか、ではなく、それらがいきいきとした実効性をもってあるか、ということである。法を解釈し運用する人間が、熱をもって動いているかどうか。究極的には、人間が、どれだけいきいきと働いているか、あるいは、虚ろな状態におかれているか、である。
 人間がいきいきとしているかしていないかという視点は、漠然としているが、決定的に重要である。これは再生産労働の効果が如実に表れる領域である。
 「風評被害」革命はまず、「復興」政策に加担する国民運動を包囲し、その血流を止め、この国策に関わるボランティア活動をどこか後ろ暗い虚ろなものへと変えていった。国が進める観光都市政策は、西日本と東日本とで明暗を分ける結果になっている。学校運営は、給食問題を引き金にして、保護者の非協力的な態度にさらされている。「風評被害」革命の進行によって、東日本の汚染地域では、なにもかもがうまくいかない、虚ろな状態に陥ることになる。私たちはこれから、人間がいきいきとしていないという状態が、どれほど過酷なものであるかを、見ることになる。