2017年2月16日木曜日

大画面テレビ



今夜は母の家で留守番をしている。岐阜県の温泉に一泊旅行に出かけているあいだ犬と猫の世話をしてほしい、ということで、今夜は実家警備員。45才。

 しっかし、いまどきのテレビというのは、でかいな。大画面がすぎる。何型というのか何インチというのかわからないが、人間のバストショットが、実在の人間と同じぐらいのサイズになっている。やりすぎだろう。最初はレンタルビデオを見ながら「大画面だとなかなか迫力があるなあ」と思ったりもしたが、映画を一本見終わったあたりで飽きる。これは、逆に、うっとうしい。
 現代の高齢者というのは、こういうテレビを普通に見ているのだろうか。地上波デジタルの強制買い替えで、こういう環境が一般的になってしまったのだろうか。仮に、この画面が50平米ぐらいのリビングルームに置かれているのなら、まだ目の逃がし場所もある。しかし、20平米そこそこのこじんまりしたお茶の間に、こんな大画面置いたらダメだよ。ほとんど圧迫面接です。
 想像するに、昼間のテレビ番組というのはけっこう下品であるから、この画面がおかれた空間には、関西弁で右翼的主張をする下品なアナウンサーが人間と同じスケールで侵入してくるわけだ。目の前に現れた人間サイズの首が、ひっきりなしにまくしたててくるわけだ。これはひどい環境だ。メディア社会学のスティグレールなら、いやスティグレールを持ち出すまでもなく、知覚環境が汚染されている。こんな状態に日常的にさらされていたら、感覚がおかしくなってしまう。現代の高齢者の知覚環境は、地上派デジタル強制を境に、ずいぶんとひどい汚染状態に陥っているのではないか。

 私が小さいころ、昭和の終わりごろは、テレビはもっと小さかった。子供はテレビ画面ににじりより、「もっとテレビから離れて見なさい」とどやされるぐらいに、画面は小さく、画面の中の人は小さかった。そこでは、生きている現実の人間と、画面の中で喋っている人間とが、はっきりと区別されていた。画面のサイズの小ささと解像度の低さが、近さと遠さをつくり、現実と放送との遠近感をつくっていたわけだ。
 それに対して、現在の大画面高解像度のテレビは、遠近感を失う。まるで親しい友人を家に招待したのと同じサイズで、宮根誠司や辛坊治郎がお茶の間にずかずか上がり込んできているのだ。毎日。これはやばい。

 人間サイズの首に毎日まくしたてられ、現実と虚構の区別を失った高齢者たちは、十中八九、ネトウヨになる。テレビに教育されたネトウヨは、「北朝鮮の脅威」を現実的なものと感じ、放射線被曝は非現実的なものと感じるのだ。
 大問題だ。