2017年2月2日木曜日

命が大事


 
 他人の死に接したとき、人は、他人の死と自分の生を照らし合わせる。死と生を対照して考えたときに、ある単純な事実に気づく。
 生きているとは、たんに死んでいないという状態をさすのではない。
 生きるとは、死に抗う運動である。

 人間はいつか必ず死ぬ。生命の時間は最期の死の瞬間に向かって不可逆的に進む。しかし、生きていることとは、まだ死んでいないということではない。死までの猶予期間を生かされているということではない。生きるとは、死に向かっていく時間に抗い、逆向きに進んでいく、運動である。
 だから、他人の死に接したとき、人が恐れているのは、死ではない。そこで畏怖されているのは、死によって照らし出された生、自分自身の生である。人が死に魅了されたり、他人の死に足を取られたりするのは、死それ自体に何かがあるからではない。生が、おそろしいからである。ただ生きているというありふれて見える状態が、ほんとうは、生半可な気持ちでは乗り切れない大仕事であるという事実に気づいたとき、人は生を畏怖し、震えるのだ。

 生命は、熱と力の渦に巻き込まれていて、つねに、表面的には静止して見えるときにも、激しい運動の渦中にある。生理学的なレベルでもそうなのだから、「生命」と言わず「人生」と言うのなら、なおさらそうだ。人生とは、力の渦中にあってもがき続ける、不断の闘争である。

 人々が「放射脳」の存在から目を背けてきたのは、彼らが死を口にするからではない。人々が「放射脳」をおそれるのは、彼らが生を問う者だからだ。いや、直接に口にすることはない。彼女はただ心の中で自問自答しているだけだ。自分の生はどのようなものとしてあるのか、と。
自分の生は、ただ死までの猶予期間を生かされているというだけのものにすぎないのか。
それとも、別のなにか。



 こうしてみると、「命が大事」という聞きなれた標語が、どれほどラディカルで戦闘的な内容を含んでいるかがわかる。「命が大事」とは、「命の闘い」である。これは「命をかけた闘い」ではもちろんないし、また、「命のための闘い」ですらない。そんな平板なものではない。
「命が大事」とは、命自身による闘い、命が命自身を問うていく闘いである。
 すげえんだ。
 命が大事。