2011年7月23日土曜日

コミュニティのための闘い

 現代思想の海賊特集は、一部を除いてたいへんおもしろかった。レディカー『多頭のヒドラ』の邦訳をはじめ、近代思想の黎明期を支えた海賊たちを正当に評価しようという熱気に満ちていた。私はへなちょこなエッセイしか書けなかったのでちょっと反省している。
 この特集で、誰の論文だったかいま雑誌が手元にないので確認できないが、とても感動したのは、海賊のコミュニティ観を端的に表現した一節だ。うろおぼえで正確な引用はできないが、要約すると、自由のコミュニティはいつでも自由に参画し自由に離脱できるコミュニティである、というものだ。うん。言われてみればあたりまえのことなのだが、いや、これは、すごい。「自由」とか「コミュニティ」ということをいい加減に考えていると、こういう原則を打ち立てることはできない。やっぱ命を賭けて権力と闘った人たちは、あらわれはルーズに見えても、どこか厳格さをもっている。


 さて問題は17~18世紀の近代海賊ではなくて、21世紀の日本のどん百姓である。
 いま福島第一原発の原子力公害事件に際して、東北・関東から大量の人口が流出しているわけだが、こういう人たちに対して、敬意をはらうどころか悪しざまに罵る百姓どもがいる。小さい子供を連れて西日本へ退避している母親を、舅や姑が罵るのである。もうね。アホかと。本当なら「困難で不透明な状況だが孫のためにベストを尽くしてくれ」と激励してカネを包んでやるべきところを、逆に、「逃げてないで帰ってこい」と言うのだ。もう、なんなのか。他人の足を引っ張るなよ。こういう弱い人間が社会を腐らせるのだと思う。
 うんざりするのは、退避する者が「利己的」で、なにもせず手をこまねいて放射性大小便を垂れ流している連中が「社会的」な何かを護持しているかのような、まったく逆転した印象がつくられていることだ。あのな。利己的な人間が知らない土地に子供を連れて退避するなんて大変なことできるかよ。退避している人間は、他人の(子供の)運命に責任を強く感じていて責任を果たそうとするから、普通ならやらないようなことをやっているわけ。ところで、退避する母親を罵ったり恨み事を言ったり足を引っ張っている百姓は、なにか利己的でない立派で高尚な動機があるわけ? ないでしょ。

 ポイントは放射性物質の拡散がどのような健康被害をもたらすかではない。弱い人間はそのことで頭がいっぱいかもしれないが、退避する母親たちにとって、健康被害は一つの要素にすぎない。退避行動に賭けられているのは、自由でありコミュニティの護持である。原子力国家が要求する「受忍義務」に対して、絶対に受け容れない、絶対に譲らない、ということだ。コミュニティが一人の人間に暴力を受け容れることを要求するのなら、そんなコミュニティは解体しなくてはならない。家族も例外ではない。いやむしろ家族こそ、そうだ。家族というのは他人の集まりだから、虐待や搾取あるいは裏切りや無関心がデフォルトなのだが、この息をのむような対峙関係のなかでどのように人間的な絆を形成していくかが、家族にとって死活的問題なのである。家族という他人の集まりが自律した論理をもって人間関係を構築できるかどうか、自由を攻撃する権力に対して毅然とした態度で抵抗できるかどうかが問題なのだ。
 5年後か10年後、子供が知恵をつけたとき、2011年の東電公害事件を知ることになる。そのとき親はどう行動したのかが問われることになる。「お前は東大のいいかげんな学者を信じて私を危険な賭けに委ねたわけだな」とか「お前は自分の仕事を優先して私の健康被害に目をつぶったのだな」ということになったら、もう終わりだ。