この新たな環境のなかで、政府が招聘する「専門家」は、しだいに疑わしい職業と見なされるようになっている。原子力の「専門家」、財政の「専門家」、医療の「専門家」、ボランティアの「専門家」は、一時的に耳目を集めつつ、その後、人々の切実な関心から外れていくだろう。そうして、昨日まで放射線のほの字も知らなかった素人たちが、前人未到の公衆衛生学を切り拓いていく。政府が依拠してきた王道科学は信を失い、無数の遊牧科学が生起していくのだ。
近代医療の形成を研究するフェミニストは、19世紀アメリカの公衆衛生運動をふりかえり、次のように書いている。
フェミニスト研究者は公衆衛生運動についてもっと多くの発見をしなければならない。今日の女性運動の見方では、これは多分女性参政権運動よりも関係が深い。運動に関して、我々が最も興味を引かれる部分は、(1)それが階級闘争とフェミニスト闘争を代表していたこと。今日、ある方面では、フェミニスト問題を単に中産階級の関心事であるとして片付けることが流行しているが、公衆衛生運動には、フェミニストと労働階級のエネルギーの合流が見られる。これは公衆衛生運動が当然あらゆる種類の反対者を引き付けたためだろうか? あるいはより深いところで目的が一致していたためだろうか?いま東京で始まっているのは、科学とは何かを審判し再定義する試みだ。
(2)公衆衛生運動は単によりよい医療を求める運動ではなく、根本的に異質の健康管理を求める運動である。それは当時支配的だった医学上の定説、技術、理論に対する実質的な挑戦だった。今日我々は医療の組織化の面に批評を限定したり、医学の科学的基盤は論争の余地がないと仮定しがちである。我々も医療という「科学」を批評的に研究する能力を養わなければならない――少なくともそれが女性とかかわりがあるかぎりは。
(『魔女・産婆・看護婦――女性医療家の歴史』
B・エーレンライク/D・イングリシュ著 長瀬久子訳)
政治なんかにうつつをぬかしてるばあいではない。
もっと深い地層が動き出している。へっへっへ。