6月2日のワークショップ「誰でもできる! 素人による素人のための放射線計測講座」は、立ち見が出るほど多くの人が集まった。
講座の内容は時間切れで終わってしまったが、学校のプール清掃問題や地方議員ネットワークなど既に行動を始めている人たちに出会えて、とても勇気づけられる集会だった。
この一ヶ月間、土壌の放射線計測の問題を考えて、ようやくわかったことがある。それは、散逸してしまった放射性物質については、通常のサンプル調査という方法が無効であるということだ。
土壌表面の放射線量を調べると、ほんの50センチ移動しただけで数値が違ってしまう。これは高性能の計測器でそうなるというだけではなくて、我々が使う簡易型の計測器でも2倍3倍の変化が出てしまう。放射性物質が堆積した「ホットスポット」というのは、実際には直径30センチにも満たない小さなスポットで、これが無数に偏在しているのである。
ホットスポットの形成には多くの要素がかかわっている。大気の流れ、雨の流れ、土地表面の材質、土地の勾配、排水設備、屋根と植え込みの配置、道路の交通量。建築物があれば、その建物の高さ、構造、壁の表面積、壁の材質も関わってくるだろう。
放射性物質が降り注ぎ、流れにあらわれた土壌表面は、細かく激しく波打っている。ここでは環境のありようを線形のイメージで捉えることができなくなっている。断片的で動的でもある土壌表面は、それを再現する(表現する)ために、何をどれだけ計測したらよいのかわからない、また、どこまで計測すれば計測を完了したと言えるのかわからない、とりとめのない世界なのだ。
我々がふだん慣れ親しんでいる線形のイメージというのは、複雑でとりとめのない世界を把握するためのひとつのわりきりかただ。しかし、内部被曝の想定される汚染地帯では、この「わりきり」は生死にかかわる。
アスファルトを歩きコンクリートのオフィスにおさまる人間は比較的安全だ。田畑を耕す農民、土を掘りかえす土工、ビルの清掃員、植木屋、屋台、ヤクルトおばさん、砂場で遊ぶこども、草むらを這う猫たちは、それぞれにまったく違った強度に触れ、放射線被曝にさらされる。ここでは、「世界は一様ではない」というあたりまえの事実が、深く認識されなければならないのだ。
線形の環境が想定できないとき、つまり何をどれだけ測ったらよいのかわからなくなってしまったときに、では、なにが計測の基準となるのか。計測行為の方法的根拠はどこに見出されるか。
私の解答は、人文主義(ヒューマニズム)だ。
すでに多くの人が口々に訴え、実際に働きかけているのは、「こどもの内部被曝を防ぐ」ということだ。これは「野良猫の内部被曝を防ぐ」でもよい。言わんとしているのは同じことだ。
これらの人文主義が、計測のための視点を与え、計測の主体と対象を定める(主体と対象が生成する)。そして明確な対象を定めたうえで、サンプル調査ではなく全数調査を実行する。東京砂場プロジェクトでは、関東のすべての児童公園の砂場を調査する。
こどものために大騒ぎする我々は、「ヒステリー」と揶揄されるかもしれない。しかし我々の「ヒステリー」をあざ笑う人間は、このカオス化した空間を、どのように把握し再現できるというのか。何を計測すべきかという明確な視点を提示しているのか。不充分なサンプル調査でお茶を濁したつもりになっている奴らは、旧い「科学」の方法にしがみついて世界を捉え逃す劣った反動分子にすぎない。