2022年12月6日火曜日

つれづれなるままにホラー映画

 

最近、近所のレンタルビデオ店の閉店を怖れて、積極的にビデオを借りている。あれこれ忙しいのに、毎日のように映画を観ている。

 

 

日本・韓国・アメリカのホラー映画を観ていてわかるのは、やはり日本のホラー映画は優れているということだ。アメリカや韓国のホラー映画にも、充分に怖いものはあるのだが、物語の構造が平板で、たんに怖いだけだ。深みのない、お化け屋敷映画である。

アメリカや韓国の怪異譚は、キリスト教の影響を受けてしまっているために、さまざまな謎や怪異を悪魔に還元してしまう。結局最後のオチは、悪魔なのだ。悪魔ってなんだよ金返せ、と思う。

 これに対して日本の怪異譚は、キリスト教の影響を受けていないために、悪魔という概念がない。怪異の源泉になるのは、怨霊か、精霊である。彼らは悪魔ではない。善でも悪でもない他者である。

 

 怨霊を描いた作品は、数えきれないほどある。日本の怪異譚の多くは怨霊譚である。日本ホラー映画の古典となった『リング』(1998)も、怨霊譚である。

人間の怨霊は、古くは菅原道真や平将門の時代から語られてきたのだが、怪異史的に画期となったのは、近世に登場した『四谷怪談』や『皿屋敷』だという。近世期になって怨霊譚は身分の低い庶民に拡大していった。「お岩さん」や「お菊さん」といった身分の低い女性が、怨霊の主体になるのである。近世以降、あらゆる人々が怨霊になりうると考えられるようになった。土木工事で亡くなった作業員、戦争で死んだ兵卒、交通事故で亡くなった子供も、ホテルで殺された女性も、すべて怨霊になることができる。その力の源泉は悪魔ではないし、必ずしも邪悪というわけでもない。人間であれば誰しも抱くであろう悲しみや復讐心といった感情の現れなのである。

 したがって、日本の怨霊譚は、キリスト教徒のような排他的な解決を目指さない。アメリカ人であれば一方的に悪魔祓いを試みるような場面で、日本人はまったく反対の行動をとる。怨霊の声に耳を傾け、事情を理解するように努め、供養をすることで死者との和解を試みるのである。供養をすれば何事も解決するというわけではないのだが、まずはとりあえず手を合わせて、畏怖と和解の意志を示すのである。

日本の怨霊信仰は、未開的な汎神論と近代的な人間主義とが結合している。このことが、日本のホラー作品を複雑で深みのあるものにしている。

 

 

 とはいえ、手を合わせて供養をすれば何事も解決するわけではない。怨霊は人間的な道理で理解することができるものだが、その範疇には収まらないような他者がある。理解も和解も不可能な他者。精霊である。精霊は悪魔ではないし、邪悪な意志をもっているわけでもない。そもそも意志があるのかどうかもわからない。

 精霊を描いたホラー映画としては、『ノロイ』(2005)や『来る』(2018)といった作品が挙げられる。特におすすめしたいのは、『来る』である。

『来る』の精霊は、山からやってくる。山の精霊が里に下りてきて、人間の命を奪っていく。精霊には呼び名がなく、正体も解明されていない。ただ圧倒的な力をもった他者である。この作品で描かれるのは、精霊そのものではなく、精霊と対峙する人間の弱さと醜さである。

 邪悪な意志が人間を襲うというのではないし、悪い行いをしている人間だから精霊に狙われたというのでもない。精霊の標的となった人々は、善人でもなければ、特に悪人でもない。みな利己的で、見栄っ張りで、嘘つきだが、それはどこにでもありそうなレベルのこずるさ、卑しさ、醜さである。それは悪と言えるほどのものではない。ただ、彼らは弱いのである。精霊に狙われた人々は、まるで弱い者が自滅するかのように、死にひきずり込まれていくのである。

 この作品が素晴らしいのは、精霊と人間の対決を、純粋に強度の問題として描いていることである。物語の中で観客は、道徳や善悪といった観念を思いめぐらせるよう仕向けられるのだが、最終的にそれは意味のないこととして、棄却される。結論として導かれるのは、強度の問題。力が強いか弱いか、それだけなのだ。ニーチェが観たらのけぞるだろう素晴らしい脚本だ。

 

 

 怨霊においても精霊においても、日本のホラー映画が優れているのは、人間に関心を向けさせることだ。日本における怪異譚は、聖書でも神話でもなく、人間に向かう。歴史学的か人類学的な関心に導かれて、怪異譚が語られる。アメリカや韓国のホラー映画には、こういう視点はない。日本映画に特有のものだと思う。

日本のホラー映画は、ある面で、啓蒙主義的であると言える。

 


追記

 ここで言いたいのは、一口に「オカルト」と呼ばれるもののなかに、啓蒙的なものと反啓蒙的なものがあるということ、そして、キリスト教の影響を受けた「悪魔」概念はけっして普遍的なものではなく、特殊なものだということである。

 理解不能な他者に対したとき、敵対意識をもって非妥協的に戦うという態度は、自然ではないし、普遍的でもない。日本のオカルト文化では、怨霊や精霊といった他者に対して非妥協的な戦いを挑んだりはしない。他者を徹底して排除しようとする「悪魔」や「邪悪」という概念は、私たちにとって異質なものだ。

 もちろん日本にあっても悪魔と戦っている人々は存在する。だがそれは、ごくごく特殊な、カルト的な集団である。統一協会の事例をみればわかりやすい。悪魔(他者)と戦うという発想が、そもそも、頭がおかしいのだ。

 カルトとカルトでないものを分別するために、悪魔概念は一つの指標になる。他者への非和解的・非妥協的な姿勢は、危険である。統一協会もそうだし、大きくとれば、アメリカのバイデン政権もそうだ。彼らは戦争にむけた挑発・動員はできるが、講和をもたらすことはできない。