2018年9月27日木曜日

『新潮45』誌、休刊(笑)




『新潮45』という雑誌が休刊した。
きっかけは、ある自民党議員の失言を擁護する特集だった。この間の経緯の説明はかったるいので省略するが、私が考えたいと思うのは、『新潮45』編集長の誤算である。
編集長は会社が雑誌をとめるとは予想しなかっただろう。彼が休刊を覚悟しておもいきった特集を組んだとは考えにくい。会社が雑誌の休刊を決めたことは、編集長にとって誤算だったと考えるのが自然だ。
 では、編集長は何を読み誤ったのだろうか。この点を考えてみようと思う。

 現在の「右翼論壇」の特徴は、議論の質が低いことである。品位もない。右翼にはもともと品位などないと言えばまあそうなのだが、しかし、2010年代の自民党下野以降の右翼論壇は、それ以前とは比較にならないぐらい下品である。デマゴギーの質も低い。すぐに論駁されてしまうような嘘を書いて、自ら墓穴を掘ることもしばしばである。
 もうひとつ見逃してはいけない特徴は、現在の右翼論壇は、中堅所得者の読者層をしっかりと掴んでいるということである。
たとえば、自民党の内外でデマゴギーやヘイトスピーチを繰り返している宗教団体「幸福の科学」は、「お金持ちの信者が多い」ことで知られている。彼らはビジネスで成功した経営者・中堅所得者たちを主体とした新興宗教である。
あるいは、数々の暴論をくりかえし「自民党別動隊」と評されてきた「日本維新の会」も、同様の支持基盤をもっている。貧困層や社会的弱者に対する冷淡さでは、自民党よりもひどい。
また、自民党本体にはJC(青年会議所)というグループがあって、金で苦労したことのない企業経営者の23世たちが極右的主張を繰り返している。
 ようするに整理すると、現在の「右翼論壇」を支えている読者層は、所得水準が高く、かつ、知的水準が低い人々である。所得水準も知的水準も高い人々は、右翼雑誌など読まない。また、所得水準も知的水準も低い人々は、右翼雑誌の主張に共感できない。現在の右翼雑誌は、所得水準が高くかつ知的水準が低い人々に照準を定めている。

 このあたりの機制と力学について、社会学者ピエール・ブルデューは、経済資本と文化資本という概念で説明している。ブルデューが明らかにしたのは、経済的条件と文化的傾向は、それぞれに独立しながら、互いに影響し合っているということである。
このことをわかりやすく示すために、彼は便宜的にある構図を描いている。一つの平面に、縦軸に経済資本の軸をひき、横軸に文化資本の軸をひき、所得水準と文化教養の様態がどのように分布しているのかを描いている。左上のグループ、経済資本が高く文化資本が低いグループには、歴史書に親しむ企業経営者(日本で言えば司馬遼太郎や『プレジデント』誌を愛読するような層)。右上のグループ、経済資本が高く文化資本が高いグループには、外国料理に親しむ大学教授や弁護士(日本ならタイ料理やトルコ料理に親しむリベラル層)。左下のグループはスポーツや賭博に親しみ、右下のグループは映画と喫茶店に親しむ、というように。これはあくまで便宜的で単純化したポンチ絵のような構図なのだが、ブルデューがこれで示そうとしたのは、所得水準と知的水準とは別の軸をもっている、ということである。
 私たちは通常、所得水準と知的水準とを同一の軸で考えてしまいがちである。頭が良く勉強のできる者は経済的に豊かになり、教養のない者は貧しくなる。こうした考え方は一面では正しいのだが、これだけでは見落としが生まれてしまう。所得が高く教養のないグループ、所得が低く教養の高いグループ、この二つのグループを見落としてしまう。

 「ネット右翼」が登場した2000年ごろ、私たちは初歩的な間違いをしてしまった。「ネット右翼」の論じている内容が、あまりにも幼稚で無教養だったために、「ネット右翼とは若年の低所得者層である」と誤認してしまった。実際に調べてみると、「ネット右翼」は若くもなければ低所得者でもなかった。所得水準の高い地主や企業経営者が子供じみた無教養ぶりをさらしているというのが、実態に近い。こうした人々が、例外的にではなくある程度のボリュームをもって存在しているということを、私たちは知った。
 2011年、ツイッターが普及したころ、もうひとつのグループが頭角を現した。所得水準が低くかつ知的水準の高いグループである。これは、主要には女性たちである。修士号や博士号や高度な教養をもちつつ、結婚・出産を契機に主婦となった人々が、かなりのボリュームをもって存在している。彼女たちがツイッターで発言を始めたら、右翼に勝ち目はない。教養の水準が段違いだからである。
 ツイッターが普及して以降、ネット上の論争は、この二つのグループの闘争とみなしてよいだろう。二つのグループは、所得水準の高低と知的水準の高低が交叉した関係にあって、どちらも権威から遠ざけられてきた存在である。どちらも例外のように見落とされ、権威から遠ざけられてきたがゆえに、言論のヘゲモニー・趨勢は、この両者の闘争に委ねられることになる。ここがおもしろいところ。歴史の弁証法っていうかね。わくわくするところです。


 話を戻して。
『新潮45』の編集長は、どのような誤算をしたのか。
おそらく彼は、新しく登場した「右翼言論」がもっている経済力を過信してしまった。
たしかに、金は重要だ。金が動かなくては雑誌はつくれない。しかし、たんに金が動くだけでは、雑誌の存在意義を世間に認めてはもらえない。金の力だけで権威を構築できるなら、とうの昔にそうなっている。現実はそう簡単にはいかない。この右翼言論人たちがツイッターの主婦のつぶやきにすら対応できずブロックしているような状態では、どうあがいても無理なのだ。