2016年10月21日金曜日

特異なものを恐れるのではなく、むしろ讃えよ


 東京のある活動家が、名古屋に遊びに来てくれた。誰ということは書かないが、精力的に動くことで知られている30代の活動家だ。
 彼は東京を離脱して、海外に退避するという。日本を離れる前に名古屋に立ち寄って、私に会いに来てくれたというわけだ。

 放射能汚染を逃れるために移住するという一般的な解決策は、事故直後には激しい抵抗を生んだものの、しだいに人々に受け入れられつつある。きっかけは体調不良によるものかもしれないし、隣人の死かもしれない。あるいは、隣人の死を顧みないこの社会の酷薄さを目の当たりにしたからかもしれない。この5年間、退避措置も防護対策も取らず従業員を被曝させるままにしてきた経営者が、若い部下の葬儀に参列する。彼が沈痛な面持ちをしているとしたらそれは、部下の死を悼むという素朴な感情であるよりも、自分の責任を追及されたくないという防衛機制が働くからだろう。そんな破廉恥な場面に遭遇したことで移住を決断するということは、ありそうなことだ。

 さて、いまさらむしかえして問うてみたいのだが、汚染地帯から退避するという単純で一般的な解は、なぜ「一般的に」受け入れられることがなかったのだろうか。
 人間と放射性物質は共存できない。放射能汚染からは退避する以外に方策はない。そのことはみなわかっている。しかし多くの人々は移住という解決策を避けてきた。
いろいろな理由が考えられ、口にされる。移住資金がない、借金がある、仕事を失いたくない、学校を替えたくない、東京以外に身寄りがない、老いた親の世話をしなければならない、等々。だがそれらの「理由」は、自分の生命と天秤にかけて考えるほど重要なものではない。だから人々が口にする「理由」は、正確には理由とはいえない。
 実際のプロセスはこうだ。人々は、自分の生命とその他の要素とを天秤にかけているのではなく、そもそも自分の生命を考慮の対象にすることを避けているのである。
いやそんなことはない、誰だって自分の生命を第一に考えている、と言うかもしれない。違う。自分の生命を第一に正面から考える人間は、実際には多くない。

 生命は、具体的であり、卑近なものである。それぞれに特異で、一回的なものである。かっこいいフランス語の概念で言えば、“サンギュラリテ”だ。いや、かっこいい言い方はやめよう。生命とは、卑近なものである。生命を第一に考えるということは、卑近なものを思考の中心に据えるということである。
 たとえば体調不良の話をしたとする。自分の体調でもいいし、子供や親の体調でもいい。体調とは、個別的で、具体的である。それらは病気によるものや、老化によるもの、事故や労働災害、先天的な障害、さまざまな要素が複合し絡まりあっていて、とりとめがない。けっしておもしろい話ではない。話している人間も聞いている人間も、どちらもうんざりするような話なのである。生命は傷つきやすく不可逆的に老いていくものだから、生命を正面から考えるということは、おもしろくない課題を次から次へ何度も何度も考える、ということだ。
 現在のわれわれの知性にとって、これは苦手な領域である。学校で何年も勉強をしてきたわれわれが「これが知性だ」と信じている「知性」は、一般性や再現性に依拠している。一般的でない特異なもの、再現できない一回的なものを、思考の対象にするということができない。そういう訓練をしていないのである。
 教養のある人々が移住を決断できなかったり、教育のない主婦が移住を成就させていたりするのは、われわれが「知性」だと信じているものが、生命を思考の中心に据えるための基本的な枠組みを持たないからである。学校で教わった「知性」を頼りに、一般性や再現性にこだわればこだわるほど、生命を考えることから遠ざかってしまう。自分が壊れやすい肉塊にすぎないという単純な事実を忘れてしまう。こうした錯誤は、観念論ではないが、充分に唯物論的でもない、中途半端な何かだ。

 私は幸いなことに、フランスの現代思想をかじって「特異なものにこそ普遍性がやどる」みたいなこじゃれたことを言っていたから、助かった。こういうフランスっぽいこじゃれた主張は、文学的にすぎるといって敬遠する向きもあるが、誤解である。これは唯物論的思考なのである。

そう。特異なものを忌避するのではなく、思考の中心に据えよ。


 特異性を恐れるのではなく、むしろ讃えよ。