2014年6月18日水曜日

主体について

 ある男は、飼い犬がしつこく吠えている地面を掘り、宝を手に入れる。これを見た別の男は、この犬を借りて同じことをして、ゴミを掘りあてる。
 ある男は、地下の洞窟にころげ落ち、ネズミの村を発見する。男は猫の鳴き真似をしてネズミたちを追い散らし、そこにあった宝を持ち帰る。この話を聞いた別の男は、洞窟に行って同じことをするのだが、途中で正体がばれてしまい、ネズミたちの襲撃にあう。
 二人の男は、同じことをして、まったく違った結果をひきあてる。この寓話は、何を言おうとしているのか。

 まず、寓話に挿入された道徳的解釈を取り除いておこう。良いじいさんと悪いじいさん、正直じいさんと強欲じいさん、という解釈である。これは正しくない。ある男は宝を手に入れて、ある男は痛い目にあう。このことと、それぞれの男が道徳的にみて善人であるか悪人であるかとは、関係がない。なぜなら一人目の男が良い結果を引き当てたのは、善人だったからではなく、たんなる偶然だからである。
 善人が良い結果をひき、悪人が悪い結果をひくという解釈は、この寓話のもつ深みを捉えそこねている。道徳的解釈は、まず良い結果と悪い結果という結末の部分を捉えて、そこから時間をさかのぼって、それぞれの男が、善人だった、悪人だった、と言っているにすぎない。これは、原因と結果とを差し替えるインチキである。
 ここで見なければならないのは、二人の男が同じ行為をして、まったく違った結果を得たということだ。二人の運命を分けたものはなんなのか。そこを考えなければならない。良いじいさんと悪いじいさんという答えらしきものを用意しても、それは事態が起きたあとから理由をこじつけているにすぎない。まずはこの道徳的解釈を退けておこう。

 あらためて考えてみる。二人の運命をわけたのはなんなのか。
 まず頭に浮かぶのは「柳の下にどじょうは二匹いない」という格言である。二匹目のどじょうを狙っても、良い結果は得られない、と。こういう解釈は正解に近そうだ。しかし少しだけ違う。寓話では、二人目の男は何も得られないのではなく、悲惨な目にあってしまっている。彼はただ空振りに終わったのではなく、まるで制裁を加えられるかのように痛い目にあっている。なぜ二人目の男は痛い目にあわなくてはならないのか。
 良い結果を得た男から話を聴き、自分も真似をしてみる。あいつにできるなら俺にもできるのではないかと考える。そういうことはよくあることだ。ある成功した人のケースを参照して、そこから成功のための一般的な方法を取り出そうとする。たとえば事業に成功した実業家の講演を聞いて、金儲けの秘訣を知ろうとする。成功した人物の体験談を聴いて、真似をしてみる。そういう類の出版物は巷に溢れていて、お金を儲ける方法とか、子供を賢く育てる方法とか、人材活用術とか、異性の気を引く方法とか、とてもありふれたものとしてある。私たちはそうした講演会や出版物を横目で見ながら、「やくにたつかもしれない」と考えたり、「どうせやくにたたないだろう」と考えたりしている。
 しかし二人の男の寓話は、私たちが考えるよりもさらに踏み込んだ主張をしている。あるケースから一般的な方法を取り出そうとする試みは、やくにたったりたたなかったりするのではなく、痛い目にあうのだ。そういうことをやってはいけない、と戒めているのである。これは強烈な主張だ。
 アーティストやアスリートは、このことを経験的に知っている。あるとき抜群の筆致で絵を描いた。観客を総立ちにさせる最高の演奏をした。あるいは、ゲームで最高のパフォーマンスを見せた。彼はもういちど抜群のパフォーマンスを再現したいと考える。うまくいったときのことを思い出し、反芻し、どうすればそれを再現できるのかを考える。うまくやるための方法を探ろうとする。そうすると、うまくいかないのだ。うまくいかないだけでなく、かえって悪い結果をひいてしまう。簡単にできたはずのことまでぎこちなくなって、ドツボにはまる。スランプというやつだ。これもまたありふれたことなのだ。
 もっと日常的な例で知られているのは、恋愛である。恋愛にマニュアルは通用しない。男性が高価な贈り物をすれば女性の歓心をかうことができる、とは限らない。贈り物をされて気持ちが高まる場合もあれば、かえって冷めてしまう場合もある。こうすればうまくいくはずだと頭で考えてやることは、たいてい裏目にでる。方法にこだわればこだわるほど、気持ちの自然な流れが乱され、よこしまな印象がうまれてしまう。彼の目論見はただ空振りに終わるだけでなく、悪い結果をひいてしまうのである。

 二人の男が同じ行為をして、まったく違った結果になってしまう。二人の男を分けているのは、行為の一回性(サンギュラリテ)に忠実であったかどうかである。二人目の男に悪いところがあったとすれば、それは、行為の一回性を軽視してしまったことだ。
 一人目の男は、ある冒険を二度は起きないものとして経験した。彼はどのような結果になるかわからない特異で一回的な冒険に身を投じたのである。それに対して二人目の男は、頭で考えた方法で運命を操作できると信じてしまった。彼は良い結果を得ることだけを期待して、のるかそるかの冒険に身を投じる真剣さを失っていた。彼は実践にたいして斜に構えていた。つまり、運命を舐めてかかったのだ。
 ある人間が、富を得たいとか、痛い目にあうのは避けたいとか、考える。それはとてもありふれたことだ。彼は課題に当たる前に、その構造と機制を把握しようと努める。しかし、人間は事物を空間的に把握することには長けているが、時間を把握することまではできない。決定の瞬間、タイミング、流れの形成、チャンスを、あらかじめ把握できる者はいない。決定はつねに賽の目を振るような賭けを含んでいて、その決定がまずかったとしても、時間を巻き戻すことはできないのである。実践はつねに一回的で、だから、特異なのだ。



 何を言いたいのか。
私は主体の話をしているのだ。

 放射能汚染は取り返しのつかない特異な現実をうみだした。人間を生かしてきた安全な環境は剥ぎ取られ、私たちはつねに死を意識し、生の一回性を意識するようになった。そうした意識はとても不自由なものとして映るかもしれないが、そうではない。
 本当に不自由であるのは、運命に呑み込まれることを恐れて、その手前で立ち止まってしまうことだ。運命と格闘する主体を、自分自身の特異性を、封じ込めてしまうことだ。
強いられた状況の中で、身を投じるべき瞬間は、それぞれにある。良い結果になるか悪い結果になるかは、誰も保証しない。運命を克服するマニュアルは、ない。それが、自由だ。