2014年5月30日金曜日

沈黙からなにを引き出すか



 多くの人々が放射能汚染について語らなくなった。ほとんど沈黙している。
 忘却だろうか。ちがう。日本に暮らしていて放射能汚染を忘れることなどできない。
たとえば、『美味しんぼ』という有名な漫画が放射能汚染問題を題材にして、福島県の自治体や日本政府が過剰な反応を見せている。政府・自治体とマスメディアが「炎上」状態になっているときに、その当事者である私たちは沈黙している。これは忘却とは対極に位置する沈黙だ。
 萎縮だろうか。事態の深刻さに恐れおののいているために、黙り込んでしまったのか。そうかもしれない。表面的にはそういうことにしておいたほうが世間的なとおりはいい。
 しかし本当の話をすれば、戦慄は官能を伴っている。人は恐怖で萎縮しているとき、それとはまったく反対に、興奮をおぼえ武者震いをしている。それはあまりあからさまに表明すると事態を喜んで歓迎しているように見えるから隠しているだけで、本当は心のどこかでこの運命を楽しんでいる。絶望している自分と、興奮している自分がいる。


 東京にいた頃、イラク反戦運動の街頭デモが大きく高揚した時期、私は被逮捕者の救援活動ばかりやっていた。私のいたグループは警視庁に狙い撃ちにされていたので、毎月のように逮捕者が出て、救援会活動で休む暇がないほどだった。
 誰かが逮捕されると、それから一週間は寝る暇もない。関係者が集まり、救援会を立ち上げ、弁護士に接見を依頼し、留置場に差し入れをする。被逮捕者の家族に事情を説明し、公式声明を書き、キャンペーンで資金を集め、留置されている警察署へ抗議に押しかける。警視庁は「過激派」とみなした者に対しては必ず家宅捜索を仕掛けてくるから、それへの監視もしなくてはならない。
 そのあいだ毎晩、会議である。我々は政党ではない有象無象の集まりだったから、救援のための対策部門をもっていなかった。いつも全員で救援活動に取り組んだ。だから大きい会議では30人や40人が集まって、議論をし、意志一致をはかり、さまざまな作業を割り振りしなくてはならない。
 こういうスタイルの救援会議は、喧騒と沈黙が入り乱れる場だ。しゃべりすぎてしまう人間と、まったくしゃべらない人間がいる。そのどちらも、初動の段階では恐怖によるものだ。一般的に言って、男は恐怖に駆られるとよくしゃべり、女はまるで硬直したように沈黙する。そしてこの沈黙する女が、救援活動の要である。
 被逮捕者の妻、恋人、母親、あるいは姉妹が、口を閉じたままじっと座っている。突然ふって湧いたような事態に戸惑いながら、考えている。逮捕されたのは何かの間違いだとか、検察と交渉すれば容赦してもらえるのではないかとか、最初はみなそう考える。間違いだったらいいな、と願望するのだ。しかしそれとは反対に、彼女は自身の経験の中からもうひとつ別の一般的事実を引き出してくる。つまり、暴力に正当も不当もなく、すべて不当であることを。本来的に不当である暴力に、交渉や駆け引きが通用するものかどうか。かりに通用したとして、そうやって釈放された人間はそれ以後、警察に脅えつづけるジメジメしたやくざのような者になってしまうだろう。その負の効果を直接おわされるのは家族や恋人なのだ。だから暴力に対しては、非和解的に対決する以外にないのである。
 彼女が警察・司法と対決することを決意したとき、救援会の腹が据わる。こうなると女はテコでも動かない。権力(暴力)への非妥協性・非和解性をあらわにする。だから議論すべきことなどほとんどない。それ以後、無駄なおしゃべりは消えて、全員が静かに、眼光を鋭くする。喧騒と沈黙の弁証法は、沈黙にいたる。それは最初に味わった恐怖による沈黙ではなく、明確な意志をもった沈黙である。

 2011年の事件から3年たって、反原発デモの喧騒はなくなった。いま多くの人々が沈黙している。この沈黙のなかには、意気消沈したものもあるだろうし、建設的な意志をもったものもあるだろう。じっさい声を上げて議論すべきものはそれほど多くない。暴力は本来的に不当で、請願しようが陳情しようが、放射能汚染は譲歩してくれないのである。

黙って腹を据える時期だ。やるべきことはたくさんある。