2014年1月9日木曜日

「みなし微量」を払拭せよ



 2011年の夏から全国で展開された市民測定所運動は、放射線防護活動の一翼を担ってきた。その重要性は現在も変わらない。
 しかし、測定運動にも功罪はある。その「罪」の部分はなにかというと、「みなし微量」の問題である。

 第一に、生協や流通業者にみられるような、測定機材に依拠した「みなし微量」がある。それは、測定機材の限界からくる「不検出」を「微量」とみなし、さらには「安全」の基準とみなしてしまうことだ。多くの生活協同組合は、当初からこうした誤用ともいえる測定作業を行ってきた。彼らは消費者を防護するためではなく商品を流通させるために、欺瞞的な「測定」を実践した。
 現在の測定技術では、1Bq/kg未満をみることは難しい。市民測定所の簡易的な機材では3Bq/kgまで確認するのがやっとだ。測定作業者はおうおうにして、この検出限界のラインを「微量」の基準であるかのように錯覚してしまう。しかしそれは現在の測定技術のモノサシで「微量」にみえているだけであって、医学的な知見に基づいて微量ということではない。医学者は1Bq/kg未満を安全であるとは言わないし、3Bq/kg未満は確認できていないと言えば顔をしかめるはずだ。
 生協が言う「測定」や「安全」など、ぜったいに信じてはいけない。それは手の込んだやりかたで被爆を受忍させる悪習である。

 「みなし微量」の第二は、数値を比較したときの相対的な位置によって、「微量」の印象が形成されることだ。これは拙著『3・12の思想』でも指摘したことだが、福島市や那須塩原市や東葛地域の空間線量率を見てしまうと、それ以外の地域の汚染はどうしても「微量」に見えてしまう。もちろんこれは錯覚である。空間線量率 0.16μSV/h という数値を見たとき、多くの人は「微量」と感じてしまう。しかしそんな私たちの感覚に医学的根拠はない。0.16μSV/hは安全だという科学者はいない。ただ重汚染地域と比較すれば相対的に低いというだけのことであって、それをもって勝手に「微量」とみなしているにすぎない。

 この錯覚は、ある政治的態度と結合することで揺るぎないものになる。だれも自分が被害者であるとは認めたくないのだ。会津地方の住民は「汚染被害は中通りまでだ」と信じようとするし、首都圏の住民は「汚染被害は東葛地域までだ」と信じようとする。誰もが自分の住む地域を「軽微な汚染」とみなしたいと考えていて、その信念は数値を比較することによってどこまでも可能になってしまう。この錯覚を支えている政治的態度とは、つまるところこうだ。
「放射能汚染の被害にあったかわいそうな人々がいて、それは私ではない誰かだ。」
 自分が被害者であることを認めない態度、これはたんに気休めであるというだけでなく、差別である。おしつけである。これから東京電力との難渋な闘いが始まる。すでに始まっている。この勝機の見えない長い長い困難な闘いを、自分以外の「誰か」に(「福島」に)押し付けて、自分はその戦列に加わらず傍聴席から眺めようとタカをくくっているわけだ。いま「福島」に生じている軋轢や混乱や絶望を、自分とは別の世界の出来事として眺めている。しかしそんな都合のいい特等席は存在しない。仙台も東京も松本も名古屋も大阪も福岡も、福島のように混乱するべきなのだ。

「みなし微量」は錯覚である。
 それは被害者の弱い心につけこんでくる。
 己のうちに巣食う「みなし微量」を払拭せよ。