2012年11月24日土曜日

被曝と性選択




 年明けに『被曝社会年報』(仮題)というアンソロジーを出版する。
現在の「被曝する/させる社会」を考えるということで、30代の書き手を中心に声をかけて論集としてまとめる。もう半分ほど原稿が集まった。版元は、『ゼロベクレル派宣言』でもお世話になった新評論。

 この論集で私は、「受忍・否認・錯覚 ―― 閾値仮説の何が問題か」という文章を出した。
ここでまず確認したのは、被曝線量というものは誰も正確に知ることができないということだ。現在の測定技術では、自分がどれだけ被曝したのかを知る手だてがない。たとえばヨウ素131は、短時間に崩壊して大きな被曝線量を与えるものだが、これは放出から80日後には消えてしまっているので測定できない。ヨウ素131をどれだけ浴びたか(吸い込んだか)は、福島第一の推定放出量と、地域への推定流入量と、各々の行動記録から推定するしかない。また、ストロンチウムは体内に蓄積されて残っているが、これはγ線を放出しない核種だから、ホールボディカウンタのようなシンチレータで測ってもなにもわからない。
放射性物質には、ヨウ素131のような「消えた核種」と、ストロンチウムのような「見えない核種」があって、それらもろもろあわせたトータルの被曝線量は、よくわからない。それらは実測できないため、あやふやな推量に委ねるしかないのである。

 被曝線量が正確にわからないということは、言い換えれば、ある人が被曝したかどうかを正確に判定することはできない、ということだ。これは完全に推測の領域に属している。その推測の領域で、各々の行動記録が反芻される。20113月にどこにいたか、4月にどこにいたか、汚染食品をどれだけ排除したか、居住地域、親の階層、職種やスポーツなどの慣習行動、そして病歴。私たちは自分自身の身体に、疑念を抱きながら生きることになる。

 本文では書かなかったことだが、今後予想される問題は、結婚差別と非婚化である。現在の20代、10代、その次の世代、と代を重ねるごとに、被曝者の結婚は困難になっていくだろう。これまでのような無邪気さは失われ、不安と差別が増大する。それは表立って口にされることではない。水面下で進行するものだ。性選択と再生産の文化は、ほんの少しだけ、しかし決定的に、書き換えられてしまうことになる。