2010年9月29日水曜日

書評『スラムの惑星』

『スラムの惑星』は、現在の人口統計が示す衝撃的な事実からはじまる。
「1950年には、100万人以上の人口を抱えた都市は86だった。今日においては400であり、2015年までには少なくとも550になるだろう。都市はじつに、1950年以来のグローバルな人口爆発のおよそ三分の二を吸収してきたのであるが、いまなお膨大な数の新生児や移民によって週ごとに増加している。世界の都市労働人口は、1980年以来二倍以上にまで増大してきたが、現在の都市人口ー32億人ーは、ジョン・F・ケネディが大統領に就任したときの世界の総人口よりも多い。その間に、世界の地方人口数は頂点に達し、2020年のあとには縮小しはじめるだろう。その結果として、2050年におよそ100億人に達することが予期される将来の世界人口成長のほとんどすべてを、都市が占めることになるだろう。」(第一章 都市の転換期)
いま世界ではかつてない規模と速度で、都市への移住と都市の移転がおきている。農村から都市へむかう人の流れ、そして、農村のただなかにあらわれる都市開発。人口二千万人を超えて拡張する超巨大都市と、土地の空隙を埋めつくしていく無数の小都市群。「農村と都市」をめぐるイメージは、地と図を反転させなくてはならない。都市は海に点在する島のような特殊な場所ではなくなっていて、都市それ自体が海のようにとりとめなくひろがっているのである。「地球の都市人口が農村人口をはじめて凌駕する」。そうして近い将来、世界人口のほとんど、というよりは、人間のほとんどすべてが、都市に生まれ都市で死んでいく、そういう時代が始まる。著者マイク・デイヴィスはこれを「新石器革命や産業革命に匹敵する、人類史上の分水嶺」として、「スラム」の爆発的拡大を現代社会の一般的傾向・一般的規則として描き出している。ただしここで目指されているのは、危機や不安を煽ったり、環境ビジネスが好んでとりあげるような「地球規模の破局」を描くことではない。著者が目指すのは、「スラムの惑星」と化した世界で、どのようにあらたな資本主義分析を行うか、世界資本主義を見るための視座をどのようにとり直していくか、である。
本書では多くの都市の名が登場する。著名な都市もあれば、聞いたことのない都市もある。ダッカ(バングラデシュ)、デリー(インド)、カラチ(パキスタン)、上海(中国)、ジャカルタ(インドネシア)、バンコク(タイ)、マニラ(フィリピン)、ヨハネスブルグ(南ア)、ラゴス(ナイジェリア)、キンシャサ(コンゴ)、ナイロビ(ケニア)、カイロ(エジプト)、イスタンブール(トルコ)、メキシコシティ(メキシコ)、リマ(ぺルー)、ボゴタ(コロンビア)、サンパウロ(ブラジル)、ブエノスアイレス(アルゼンチン)、モスクワ(ロシア)。これらはほんの一部である。
インターネットに接続できる人は、グーグル・アースというサイトに接続してみてほしい。グーグル・アースは、上空から撮影した世界の地表面の写真が閲覧できるサービスである。都市の名を入力して検索すれば、例えばキンシャサで検索すると、カメラはアフリカ大陸上空に移動して、内陸部の水運に面した都市にむかってズームしていく。写真は無段階で拡大することができて、最大まで拡大すると家の屋根や細い路地まで見ることができる。本書を手がかりに世界の都市を巡ってみてほしい。それらはあくまで上空からの写真にすぎないが、それでも『スラムの惑星』が提示するパーステクティブを感じることができるとおもう。地理的にも歴史的にも異なった都市が、どこも判を押したようにスラムを形成している。新自由主義グローバリゼーションは、世界中で生活の風景を書き換えているのだ。
世界規模で進展する現代の都市化=スラム化は、「農村と都市」をめぐる従来の常識を覆している。なかでももっとも重要だと思われるのは、工業化を巡る常識が覆されたことだ。本書のなかでも強調されているのは、現代の都市はかならずしも工業化と結びついてはいないという事実である。かつてマルクスが描いたところでいえば、まず農村でのエンクロージャー(土地の囲い込み)があり、つぎに排除された農民が工場のある都市に集積し、工業労働者(プロレタリアート)の一群を形成する、というのが基本的な図式である。しかし現在、都市化=工業化(都市住民=工業労働者)という図式があてはまるのは、中国などの一部の地域に限られている。とくにアフリカや南アジアの巨大都市では、工業化による雇用が確保されないまま、ただ農村から排除された農民たちが押し寄せ、もっぱら棄民の群れとして都市外縁のスラムを形成している。仕事らしい仕事はない。社会保障もない。それでも生きていくためには、都市の隙間になんらかの雑業を探して、どんな小銭でも稼がなければならない。そうしてスラムには、多種多様なインフォーマル経済が形成されていく。

ここでちょっと話は脱線するが、現代の海賊について私見を述べたい。『スラムの惑星』では触れられていない、あくまで私の妄想なので読み飛ばしてもらってもいいのだが、現代の海賊は、脱工業化とインフォーマル経済の成長という事態を端的に表現していると思うのだ。
現在ソマリアでは、国家が崩壊し海賊が跋扈している。海賊は、ソマリア沖を通過する船舶を襲い、物を奪って売りさばくか、人間をさらって身代金をとる。想像してほしいのは、いまソマリア沖インド洋で荒稼ぎをしている海賊は、はたしてソマリア人だけだろうか、ということだ。賊に強奪されソマリアに運ばれたとされる物資と人質は、すべて本当にソマリアに運ばれたのだろうか。インド洋はいま、宝の山だ。インド洋に面する国々では、一日1ドル以下でくらす人間が膨大にいる。この海域は、アフリカ東部の沿岸諸国・マダガスカル・インド・パキスタンからは目と鼻の先、インドネシアの海賊にとってもそれほど遠くはない距離だ。彼らが指をくわえて見ているとは思えない。また、ソマリア人海賊が獲得した物資は、なんらかの方法でカネに換えなくてはならない。ソマリアのなかで売りさばけるモノばかりではない。密貿易のネットワークがあってはじめてカネに換えられるというモノもあるだろう。こうして海賊稼業の全体を考えてみれば、インド洋に面する海賊・漁師・密貿易業者の国際的な連携があるだろうことは想像に難くない。こういうことは実際に検証することができないので想像するしかないのだが、構図として捉えておくべきは、ソマリアやフィリピンにあらわれた現代の海賊は、特殊・一国的な出来事ではなくて、新自由主義グローバリゼーションが散布した世界規模の貧困とインフォーマル経済の拡大を背景にしているということだ。別の言い方をすれば、環インド洋に生長したインフォーマル経済の発展が、ソマリア沖で、海賊という表現をもってあらわれたと言うこともできるだろう。
農村を破壊され排除された農民は、その一部は工業労働者になり、その多くは工業労働者になることすらかなわずスラムのインフォーマル経済に呑み込まれていく。巨大都市のインフォーマル経済を背景にして、海賊は成長する。みずから望んで海賊になる者、膨らんだ借金のために海賊をやらされる者、小さな船を維持するために危ない仕事をひきうける漁師がいる。海賊、という言葉には前時代的な響きがあって、アハハと笑われてしまったりもするのだが、世界の現実に照らしてみれば、海賊は、IMF・世界銀行・新自由主義政策が生み出してきた(破壊してきた)地域経済の、もっとも現代的な形式なのである。

さて本題に戻る。いまなんの説明もなく「IMF・世界銀行・新自由主義政策」と書いたが、あらためて簡単に説明すると、IMFは国際通貨基金。欧米日の先進国政府が出資して、通貨管理を行っている。IMFは、貿易赤字等によってドル準備高が不足した政府にドルを融資し、この債権をたてに債務国の政策を評価・介入する。世界銀行は、IMFと同様に先進国政府が出資し、国家規模の開発事業に投資し、債権をたてに債務国の経済社会を評価・介入する。世界の銀行・金融資本は、IMF/世界銀行に導かれ、同時にその利害を代表させてもいる。金融資本による政策介入は、世界の銀行家・官僚・右翼政治家を招聘する「世界経済フォーラム」(WEF、別名ダボス会議)や、主要国首脳会議(G8サミット)といった私的(法定外)諮問機関を通じて行われている。行政の政策決定は、国会のような公開された場所ではなく、エコノミストを交えた密室の会議に依存している。そしてダボス会議やG8サミット、これらから派生した無数の私的諮問機関によって推進されてきたのが、世界政策としての新自由主義政策である。
第三世界における新自由主義政策は、IMF/世界銀行が債務国に要求する「構造調整プログラム」によって実行されてきた。「構造調整」という政策パッケージは、四つの柱で成り立っている。1、関税障壁の撤廃(市場を開放し欧米の商品だけを買え)2、公共サービスの民営化(欧米の企業・資本に参入させろ)3、社会保障費の削減(医療も教育もビジネスにしろ)4、規制緩和(環境や労働権を主張するなら投資しないぞ)、である。
こうした政策は、国民経済を破綻させる。農村は疲弊し、食えなくなった農民は都市に押し寄せる。都市に出ても仕事らしい仕事はなく、教育を受けた公務員ですら首を切られているありさまだ。政策的に棄民化させられた人々は、都市の外縁に不法占拠のバラックを建て、スラムが膨張していく。アフリカにおける「構造調整プログラム」は惨憺たる結果を生み出した。IMFのエコノミスト自身が失敗だったと認めるほど、国民経済は破壊されてしまったのだ。
ここで念のために確認しておくが、こうした国々はもともと貧しかったからスラムがあるのではない。こうした国々は、国際債務をたてに実行された政策介入によって、よりいっそう貧しくさせられ、スラムでの生活を強いられているのである。「開発途上」という表現はねつ造された神話であって、発展の高みに向かって上昇しているように見えるのは都心の都市開発だけだ。都心では銀行や不動産業が華麗なオフィスビルを構え、「開発途上」のあどけない夢を演出している。しかし、一歩都心を離れれば、棄民と海賊と警察がせめぎあうスラムが広がっている。そしてスラムのインフォーマル労働者に寄生して、脱工業化社会の「成長部門」が高い収益性を実現する、という構図だ。
新自由主義政策の下で貧困と野蛮が蔓延していく。こうした構図は、90年以降の日本の状況と照らして見れば簡単に理解できるだろう。生産性・収益性は、賃金や労働権の切り詰めによって確保され、女性・若年労働者を中心にインフォーマル労働者を大量に生み出している。その反面、東京でも地方都市でも、建物だけはますます豪華になっていく。例えば東京都心の大学は90年代以降の再開発を経て、高級ホテルかと見紛うばかりの華やかなキャンパスを建ててきた。しかしその中身はといえば、低賃金の非正規雇用で生活費をまかないつつ卒業後も就職できないのではないかと不安を抱く学生たちが、学生ローンの窓口に並ぶ。4年後の卒業の時点で、彼らの借金は多い者で300万円を超える(授業料だけでそれぐらいになる)。現在の社会人1年生の何割かは、債務奴隷として出発するのだ。もともと昔からそうだったのではない。公共サービスの民営化(私物化)とインフォーマル経済の拡大は、金融資本が主導する新自由主義政策が、かつてあった国民経済を「非効率」と断じて解体してきたからである。この20年、私的諮問機関の提言によって我々が貧しくさせられてきたように、同じ原理で、第三世界諸国は貧しくさせられてきたのである。読み取るべき第一は、先進国と第三世界のそれぞれの都市を貫いている現代資本主義の一般的傾向である。
『スラムの惑星』を読みすすめていくと、聞いたことのない都市について書かれていることが、まるで東京に暮らす自分について書かれているような感覚をおぼえる。はっとして、グーグルアースで東京の写真を検索してみる。上空から見ると、他のスラム都市とひけをとらない大変な密度である。そしてなにより規模が大きい。道路は舗装され上下水道も完備しているが、たしかにここはメガ・スラムかもしれない。東京都内だけで1300万人の人口が集積し、その約60%は借家人だ。不安定な職を一つか二つもち、20平米にも満たないアパートに収入の半分ちかくを費やす。それでもなにかよい仕事にありつくために、都内の細い路地の隙間に出来るだけ安い物件を探していく。いや、東京の話はいい。ようするに何が言いたいかというと、東京の、あるいは大阪の、あるいは小さな地方都市がそれぞれにはらんでいる都市の緊張を、『スラムの惑星』は覚醒させてくれるということだ。
このことは翻訳にもあらわれているように思う。本書『スラムの惑星』は翻訳が良い。焦点がきちんとあっていて、著者の問題意識が明確に伝わってくる。10年前20年前のリベラル風の学者にはこういう仕事はできなかっただろう。おそらくこの緊張感は、訳者たちそれぞれがくぐってきた都市の経験のなかで形成されたものだろう。
あるいはこの緊張感は、本書が出版されるプロセスにも関っているのかもしれない。話は少々こみいってしまうが、版元の明石書店は現在、経営者と労働組合の間で係争が続いている。本書の翻訳を企画した編集者は組合員なのだが、翻訳ができあがる中途の段階で担当をはずされ、いまはデータ入力の仕事に配転されている。経営と組合との交渉はまとまらず、こう着状態にあるようだ。双方の主張はそれぞれビラやウェブサイトで公開されているのでそれを参照してもらうとして、私がここでどちらがどうということは書かない。ただ気に留めてほしいのは、ここにも『スラムの惑星』が描こうとする都市の緊張がある、ということだ。出版社というと高潔なイメージを抱く人もいるかもしれないが、現実はそんなにきれいなものではない。安定したフォーマルな場所の高みから世界を見下ろすのではない、東京のメガ・スラムの緊張のなかで『スラムの惑星』が編集され、印刷され、手渡されていくのだ。版元が労使間で争議をしながらこんなにきちんとした本を出したのだ。熱い。まじめに読みたいと思う。

(『図書新聞』 2010年8月7日号)