2010年9月30日木曜日

たちよみ『愛と暴力の現代思想』

ひとつは、量の問題である。トリアージを実施する際の量的な基準はどこにあるか。トリアージの「必要性」は、多数の負傷者と少数の医療スタッフ(設備・薬品)という量的な不均衡を根拠にしている。であれば、「多数の負傷者と貴重な医療スタッフ」という事態は、具体的にどの程度以上の規模をもったときを指すのかだ。問題が、負傷者と医療体制の量であるならば、まずは、一方の変数である医療体制の量を検討し確定しなければならない。医療体制の現状は、地域によってばらつきがあるだろう。都市部と山間部では、医師や設備の量が異なるし、交通の条件も異なるはずだ。自治体がトリアージの必要を説くならば、まずは、「○○県には現在これだけの医療体制があり、県外からこれだけの支援を得ることができて、これ以上はない」というように、医療体制の量を確定しその多寡を検討しなくてはならない。そうした検討を公にしたうえで、「○○市は、一度に○○人以上の負傷者がでた場合、トリアージを実施する」と言うならば、私はぜったいに承服しないが、とりあえず議論の前提は成立するだろう。それが、自治体と公的機関がはたすべき義務であるはずだ。しかし実際にはそうした検討はなされない。問題は、医療体制の検討を抜きにトリアージという方法だけが採用され、小規模な事故や火災の現場にも無原則に適用されてしまっているということである。たとえば、二〇〇二年九月におきた新宿区歌舞伎町のビル火災のような、大規模災害とはほど遠いと思われるような事件で、トリアージは実施されている。医療機関が不足しているとは考えられない都市部のどまんなかで、たった四七名の負傷者に対してトリアージが実施され、心肺蘇生術があらかじめ断念される。このビル火災で、四七名のうち四四名もの人々が死亡した背景には、トリアージの濫用がなかったか。それが歌舞伎町の雑居ビルの風俗店ではなく、西口の新宿センタービルであったなら、救急隊員はトリアージを実施しただろうか。と、問う必要がある。トリアージは、医療機関と救急現場に、差別とネグレクトを免罪し合理化する論理を与えたのかもしれない。大規模災害という想像の自然に支持された方法が、大規模災害にいたる以前の段階で、すでに暴走を始めている。この知性と倫理を欠いた「グッドアイデア」を法的に制限するものは現在ない。それが根拠にしているはずの量を曖昧にしたまま、「貴重な医療」という教条が医療の現場を支配する。そして、貧しい者、政治力のない者、「手に余る」患者たちは、救急車に乗せられることなく放置されるのだ。

トリアージが孕んでいるもうひとつの問題は、死生観にかかわるものである。
医療機関が、一度に複数の患者をうけいれるとき、そこに優先順位をつけることはあるだろう。そうした事態がありうることは否定できない。そして、ある者は死ぬ。死は突然おとずれて、生きている者たちに衝撃を与える。死は、死者本人にとっても、他の生きる者にとつても、承服しがたい。その死にタグを貼り付けるということは、人間の死生に対するおぞましい挑戦であると私は思う。
想像してみて欲しい。大規模な震災で街が崩壊する。あなたは黄色いタグをつけられ、病院に搬送され、治療を受けたとしよう。建物の窓から震災後の街を眺望すると、そこには黒いタグを付けられた心肺停止状態の人々が横たわっている。そこにあるのは死者と生
者ではない、黒いタグの死者と黄色いタグの生者である。生と死の選別をタグによって明示されたという事実に、はたして生き残った者は耐えられるだろうか。彼は死に彼は生きるという整理券を貼り付けられて、人間の死生が識別の視線にさらされる。医師や看護士や救急隊員が暗黙裡に選別するのではない。識別のタグは、彼は生きる彼は死ぬということを、すべての視線にむけてもっとも見えやすいかたちで明示し、その予約された運命にたいする合意と承認を、見る者すべてに迫る。そしてトリアージが首尾よく実践されるということは、多くの動くことのできる被災者が、そのタグを剥がすことなく受け入れるということなのである。人間に貼り付けられたタグを剥がさずにいうというこの命令に、従うのか否か。タグが発揮するこの命令に、人間は屈服してよいものだろうか。
生きるということは、死に抗い、死んだように生きることに抗う運動である。人間は、死んでいるか死んでいないかという次元で生を構想することはできない。死んでいないことが、生きているということでは、ない。死に抗うこと、死を易々とは承認しないという意志と運動が、生の尊厳を構成するのである。私がここで問題にしているのは、人間が経験する死生の残酷さではない。私が言いたいのは、人問の死生を残酷なものとして感受する条件を手放してよいのか、残酷さを回避したところに人間の尊厳が成立するだろうか、ということだ。私が恐れているトリアージの悪夢とは、ある生きている者が、ある生きられなかった者の死を、タグが発揮する合理性にしたがって唯々諾々と承認してしまうことである。死の残酷さにうちのめされることなく、合意を要求するタグ付きの死体が置かれ
た傍らで、生きる者は、自分自身の生を尊厳のあるものとして生きることができるだろうか。できない。ゴミを分別するようなすっきりとしたやりかたで死や生を受け入れることなど、本当はできないはずなのだ。それを易々とは受け入れないという一点に、人間が「人


(「虐殺・トリアージ・“生きた労働”の管理」『愛と暴力の現代思想』 青土社 2006)