2022年11月24日木曜日
2022年11月19日土曜日
統一協会新法はいらない
自民党・岸田政権は、統一協会の活動を規制し被害者を救済するための新法制定を議論している。統一協会の反社会性を報道しているメディア各社は、この新法議論にたいして無批判に呑み込まれている。
私は新法制定は不必要だと考えているし、こうした議論そのものが有害だと考えている。
統一協会の問題の肝は、自民党政治家と行政機関が、統一協会の活動を見逃していたということだ。この教団の反社会的活動は、多くの弁護士から告発されていたし、現行法で充分に規制できるものであった。現行法の解釈・運用を、自民党が無理やりに捻じ曲げていたということが、統一協会問題の本質である。「新法を制定しなければ規制できない」などというのは、自民党の苦し紛れのいいわけにすぎない。こんな開き直った言い分を鵜呑みにしていたのならば、どんなすばらしい新法を制定しても、適切に運用されることはないだろう。
新法制定の論議には、複数の野党議員ものっかっているが、たんなる「やってる感」で終わるだろう。立憲主義を掲げる政党が、法解釈の濫用をたださず、新法論議にほいほいとのっかってしまっているのは、非常に嘆かわしい。
追記
嘆かわしいと言っているだけでは論がしまらないので、この問題の構造についてもう少し掘り下げておく。
みせかけの議論、論点ずらしのための議論は、数多くある。現代のメディア産業は、多くの論題を提起し流通させる。ここで私たちに必要になってくるのは、ある論題について是か非かを考えることではなく、その論題が提示された背景を考え、その議論そのものの妥当性を吟味することである。その議論は、何かを明らかにするための啓蒙的な議論なのか、それとも、問題を隠し意識をそらすことを意図した蒙昧に向かう議論なのか。陰謀論の流行が私たちに教えているのは、人間は中味のない議論にこそ没頭するということだ。中味のない議論は、それを論じる主体の内容を問われることがないために、いつでも手軽に楽しめるアトラクションとなっている。
大戦後のヨーロッパに誕生したシチュアシオニストの思想潮流は、早くからこの問題を指摘していた。戦争プロパガンダの技法が、戦後の文化産業と結合し、新しい(アメリカ的な)生活文化を構築していく。戦争への動員を解除された大衆が、新しい大量消費生活へと動員されていく時代だ。シチュアシオニストはこれを、“スペクタクルの社会”と呼んで分析した。
私が“スペクタクルの社会”について考え始めたのは、1990年代の東京の都市再開発に際してだった。だが、問題をよりいっそう強く意識するようになったのは、2011年の福島第一原発事件である。広告産業と行政権力が深く結合し、公害隠しの復興政策へと向かったのである。
東電福島第一原発の爆発事件から3年後、2014年の論考で、私たちは次のように書いている。
…… このことをチェルノブイリ事件と比較してみよう。我々はチェルノブイリ原発の炎上する姿を見ていない。当時のソ連政府は、当初、チェルノブイリの事故を隠していた。スウェーデンのモニタリング機関が異常を指摘するまで、誰もチェルノブイリの爆発を知らなかった。ソ連政府は、事故を見せるのではなく、隠した。いまでは当時の記録映像のいくつかを見ることができるのだが、それはソ連邦内部の国民に向けて、収束作業の動員のためにつくられたプロパガンダ映画というべきものであって、諸外国の報道機関に提供するためのものではない。ソ連政府は、チェルノブイリの姿を国民に見せて、世界に見せなかった。そういうしかたで事故の隠蔽をはかったのである。
東電公害事件をめぐる隠蔽は、かつてのソ連政府の対応を反転させた形式となっている。世界中のメディアが、その日のうちに爆発の映像を報道し、我々の目にやきつけた。そして皮肉なことに、爆心地である福島県の放送局だけは、爆発の映像を報道しなかったのである。事件をめぐるメディア状況は、チェルノブイリ事件とは対照的なかたちをとったのである。
いまから振り返って考えてみれば、すでに3月12日の段階で、この事件をめぐる高度にスペクタクル(ルビ・見せ物)的な性格が決定していたと言えるだろう。日本政府にとって問題となるのは、世界が注視する中でいかにして問題を隠蔽するかである。単純に隠すというだけでは足りない。隠すことによって隠す、だけでなく、見せることによって隠すこと。人々の視線を遮断するだけでなく、積極的にスペクタクルを提供し視線を操作すること。人々の関心と無関心に介入し、意識の流れを誘導すること。ここから、「復興」政策全般を規定するスペクタクル(ルビ・茶番)の政治が要請されることになる。……
(「シジフォスたちの陶酔』矢部史郎+山の手緑、『インパクション』194号所収)
隠すことによって隠す、だけでなく、見せることによって隠すこと。これが、福島「復興」政策の基調となった。私たちは戦争の被害こそ経験してはいないが、国民動員のプロパガンダをいやというほど見せつけられたのである。嘘のデータ、嘘ではないが誤読を意図したデータ、ニセの議論、問題のはぐらかし、中味のないかけ声と空元気、等々。福島をめぐる数多くの出版物がすべて無意味であったとは言わない。だが、問題を明らかにする真に啓蒙的な出版物は、ごくわずかである。ほとんどすべての議論が、被ばくを受忍させる蒙昧へと向かったのだ。
事故から11年たって、福島県の汚染被害はなにひとつ解決していない。
この無為に終わった11年間の責任は、どこにあるか。もちろん政府が悪い。だが、政府だけか。
我々はただニセの議論に翻弄された被害者だと、言えるのか。
出版・報道に携わる人々は、この件について、無罪なのか。
よく考えてほしい。
2022年10月19日水曜日
ゾンビ(1978)を観る
活動の合間に昔の映画を観ている。
1978年公開の『ゾンビ』(dawn of the dead)は、何度みても飽きない。
この作品のヒットによって、ゾンビ映画が多数つくられ、一つのジャンルを形成するまでになっているのだが、やはり、78年の『ゾンビ』が最高傑作だと思う。
最近のゾンビは、たんなるモンスター映画になってしまっていて、ゾンビという存在がもつ哀しみが描かれていない。ゾンビが走ったり道具を使ったりするというのは、最低だ。何もわかっていない。ゾンビを走らせてはいけない。ゾンビは、走る活力を失っているからゾンビなのであって、だから恐ろしいのだ。「ゾンビは走れない」という設定は、この作品が描こうとする状況にとって絶対に必要なものだ。
『ゾンビ』は人間の危機と悲哀の物語である。ある日突然死者の世界が始まろうとするときに(dawn of the dead)、かつて信じられていた人間の尊厳が失われてしまうという危機と、悲哀である。これは歩く死者から身を護るというだけの映画ではない。ここで描かれているのは、人間の信念が崩壊し無効化されていくイデオロギーの危機である。
人間はゾンビの脳を破壊して殺さなくてはならない。ゾンビはただ生者を食らうだけの存在だからである。ゾンビは人間を食らうことで新たなゾンビを生み出し、増殖していく。彼らによって人間の社会活動は崩壊させられてしまう。生産も、消費も、交通も通貨も崩壊していく。こうした状況で人間に残された唯一の課題は、ゾンビを殺戮し、生存のための物資を確保することだ。
ショッピングモールに辿り着いた人間は、バリケードでモールを封鎖し、店内のゾンビを皆殺しにし、建物と物資を占有する。陳列されている食品と水、おびただしい量の商品は、すべてタダで手に入る。彼らは商品経済からも労働からも解放された世界を手に入れる。いや、彼らだけではない。ゾンビが充満する世界では、すべての人間が労働から解放される。人間に残された唯一の労働は、尽きることなく現れるゾンビを殺戮することだ。
終わりのない殺戮によって人間は正気を失っていく。だが、それだけではない。本当の危機は、人間のもつ活力と英知が殺戮と排除に使われる以外にないという状況である。建物を占拠した人間も、駐車場を徘徊するゾンビも、どちらも生産的な労働を失っている。ここで描かれているのは、労働から解放されたディストピアであり、そのイデオロギー的危機だ。
ゾンビは走ることができない、つまり、労働を担うための活力と速度を失っている。その姿は、ゾンビと対峙する人間たちの不能状態を鏡映しにしたものだ。ここで暗示されるのは、産業労働が自動化され大量の失業者がはきだされ、「ポスト工業化社会」に向かっていく時代の、イデオロギー的危機である。
何も買うことができないのにショッピングモールに蝟集するゾンビの姿に、私たちは感情移入する。大衆消費社会の時代とは、誰もが失業しうる時代であり、産業労働者の地位が崩れはじめた時代だ。この転換期の悲哀を描くために、ゾンビは走れないのである。
人々の意図に反して労働が廃絶された世界で、それでもショッピングモールは煌々と光を放ちつづける。そのエネルギー源は、人間の生産活動によるものではない。ハリスバーグの原子力発電所から電力が供給されるのだ。
石炭の時代、炭鉱労働者たちが構築していった民主主義と尊厳は、原子力の時代に過去のものになった。
2022年9月29日木曜日
2022年9月20日火曜日
コスパとか言って喜んでいる奴は死ね
安倍晋三・昭恵夫妻に子どもがいたら、ここまでひどい話にはなっていなかっただろう。
ひどい話というのは、安倍の国葬をめぐる議論である。
国葬賛成派は、国葬が外交の機会になるからやるべきだ、とか、外交政治として「コスパがいい」(費用対効果がいい)などと、堂々と言っていた。
政治家の死があるていど政治利用されるということは誰もが想定している話なのではあるが、ここまであからさまに、あっけらかんと、「コスパがいい」などと言われてしまうと、安倍晋三と遺族が気の毒になる。死者への敬意などみじんも感じられない、純粋に政治の具材にされている。
安倍晋三本人については、生前から具材然とした人間だったので、まあ当然の報いだとして、気の毒なのは昭恵夫人である。夫の死を「コスパ」扱いされるという侮辱を受けても、彼女は頭が弱いので沈黙するしかない。仮に子どもがいれば、子どもの将来と名誉のために奮起するだろうが、残念ながらそれもない。
昭恵には、なにもない。
刈り取り放題である。
まるで残酷な見世物だ。
2022年9月9日金曜日
ペペさんとまったり反戦トーク
だめ連のペペ長谷川氏が名古屋に滞在しているということで、中村区の後藤宅におじゃまして、じっくりまったりとトークをしてきた。
ウクライナ戦争の評価について、東京の運動圏の議論はどうなっているかを聞こうとしたのだが、あまりはかばかしくないとのこと。反戦運動はおろか、戦争をめぐる議論すら充分にできていない状態だという。
おそらくこの現象は日本だけではなく、西欧でもそうだ、とペペさんは言う。北米ではまったく関心をもたれていないとも伝え聞いた、と。
日本も含め「西側世界」の言論は、戦時下の様相である。冷静な分析も自由な議論もできないでいる。分析を試みて口を開けば、単細胞のにわか反戦派が「それはプーチン擁護だ」「ロシア派の視点だ」とカラんでくる。ウクライナ革命政権の正当性に疑念をさし挟もうものなら、全力で議論を阻止してくる。ロシアの軍事作戦を非難することだけが正義だと考えているかのようだ。平板で抑圧的な道徳的反戦派が、戦争をめぐる議論を不自由にしている。
この状況はまるで80年前の日中・太平洋戦争のころと変わらない。
戦時下とは、単細胞の正義漢におびえて必要な議論が自粛され、または封殺される状況なのだ。
私たちの第一の課題とすべきは、自由な議論を回復させることだ。
戦争はウクライナだけで戦われているのではない。ロシアでもウクライナでもなく、いま私たちが日本で経験している抑圧的で不自由な言論状況を自覚し、それを克服すべき課題としよう。
2022年9月2日金曜日
山上徹也氏のなにが素晴らしいのか
運動の事務局作業に追われているが、今週末は完全にオフにすると決めた。休む。
2ケ月前に起きた山上徹也氏の銃撃事件以来、みんな表情が明るくなったように思う。もういい大人だから声をあげてはしゃいだりはしないが、体の奥底から活力が湧いてきている。山上さんありがとう、と言いたい。
山上氏の闘いは、政治的な文法に媒介されない私闘(私戦)であった。
この私闘は、驚くほどすんなりと人々に受け入れられ、社会秩序にかんする私たちの感情を逆なでしなかった。いや逆なでしなかったばかりでなく、反対に、社会秩序の回復を願う多くの人々に希望を与えることになった。
彼は、政治的な意図も表現もいっさい含ませることなく、純粋な復讐として闘いを遂行したのだが、そのことがかえって、人々が共感する普遍的な義を表現することになったのだ。
社会運動にたずさわる活動家の多くが山上氏に共感しているのは、この点である。右翼は混乱して肝心の部分を見逃しているのだが、私たち「左翼」が山上氏に共感するのは、政治的に敵対する安倍を倒してくれたから、ではない。問題は政治の左右ではない。私たちが共感しているのは、山上氏が政治的なお題目を振りかざすのではなく、むしろ政治的言語を排して、私闘をやりきったという点である。彼の反政治的姿勢が、社会運動の根本原理と共振しているのである。
たとえば私が、原発事故の賠償請求訴訟に関わって裁判支援運動に力を注いでいるのは、私が経産省と東京電力に対する報復感情を持ち続けているからだ。こういう人間は特殊な例ではない。たくさん存在している。数えきれないほどいる。社会運動というものは、その起点と核心に私闘的性格を含んでいるのである。
山上氏が放った銃声は、そのことを想い起させてくれた。
私が反原発運動に加わるのは、日本のエネルギー政策がどうのこうのという政策の議論がしたいからではない。経産省の役人を土下座させて詫びをいれさせるために、闘っているのだ。