2022年7月9日土曜日

山上氏のようにカーゴパンツを

  政治活動にたいして暴力をもって圧迫を加えることは許されない。

 テロリズムは民主主義にたいする破壊行為である。断じて許されない。


 山上氏の行為が民主主義の破壊へと向かうのか、その反対に、民主主義の再生へと向かうのかは、私たちの今後の行動にかかっていると思う。


 山上氏と同じく1970年代に生まれた「氷河期世代」の我々は、みなカーゴパンツを履いて政治家の前に立とうではないか。反民主主義を極めた日本社会に対して、言論の回復と民主主義の復権を求めて、カーゴパンツで登場しよう。



2022年7月8日金曜日

破廉恥を共有する西側諸国

 

数日前の日本のニュース。

ウクライナのゼレンスキー大統領が、日本の大学生に向けて、オンライン講演会を行った。会場となったのは、東京の東洋大学だ。会場には300人ほどの学生が集まったという。テレビのニュース映像では、数人の学生たちに講演の感想を聞いていた。感想の内容はここではおくとして、異様だったのはその画面だ。インタビューのカメラは、学生の首から下だけを映して感想を語らせていた。一人ではない。インタビューに答えるすべての学生が、顔を映さない状態で感想を語ったのだ。

 なんだろう。まるで、犯罪報道で、犯人を知るクラスメートにインタビューをしているような画面。あるいは、風俗街の話題でストリップ劇場の客にインタビューをしているような。この学生たちは、ゼレンスキー大統領の主張に耳を傾けたにすぎない。しかしその行為は、どこか不名誉で、あるいは破廉恥で、堂々と公言することがはばかられる何かなのだ。

 

 ウクライナ政府の主張と、それを無批判に垂れ流すマスメディアの論調は、破廉恥である。破廉恥というのは、相対的な評価ではなく、絶対的な評価である。その特徴は、ベラベラとよく喋ること、過去の経緯に触れないこと、かわりに嘘や邪推をふんだんに盛り込むこと。この破廉恥さを分析し説明するには、国際政治学ではなく、女性学が適していると思う。

 「価値観を共有する西側諸国」が、この戦争を制御できなくなっている最大の原因は、彼らがロシア政府の主張を字義通りに受け止めることができないからである。「西側」はつねに相手国の声明に解釈を加え、書いてあるものを読まず、書いていないものを読み込む。この誤った解釈の機制は、性差別の場面に頻繁にあらわれるものだ。こういう解釈のゲームに浸りきると、もう自力ではどうすることもできなくなる。彼らは認知の歪みから抜け出すことができない。認知の歪みにまかせて、ゴネるか暴れるかしかないのだ。

これは、 「西側」につくかロシアにつくかというような相対的な評価の問題ではない。絶対的な評価として、「西側」は破廉恥である。

 


2022年6月25日土曜日

最高裁まるでネトウヨ判決

 


 原発事故人権侵害訴訟愛知・岐阜(名古屋高裁)のもろもろの作業がひと段落して、少し休憩できる時間ができたので、手短に書く。

 6月17日に最高裁で下された4訴訟の判決(生業、群馬、千葉、愛媛)は、お粗末の一言だ。

菅野博之裁判長は、数多くの論点を無視し、結論に結び付けられそうな証拠の断片をつぎはぎして、国の法的責任はないとした。

 ここで菅野博之が行っているのは、「チェリーピッキング」と呼ばれる誤謬である。「チェリーピッキング」とは、自分の結論にとって有利なものだけを選別してつまみとる、というやり方である。私たちが日常で目にしているネット右翼連中の常とう手段だ。徳も知性もない、権力を誇示しているだけの駄文だ。小論文なら0点だ。

 

11年もの時間をかけて数万の人々が血のにじむ努力をしてきた裁判にたいする最高裁の応答は、ネトウヨの駄文であった。笑うに笑えない。

この国の司法は、菅野博之というネトウヨに乗っ取られた。

 

 

2022年6月11日土曜日

育児の失敗は残酷だね

 

息抜きにネット掲示板を見ていたら、ある漫画家の児童虐待エピソードが話題になっていて、興味深い。とても残酷な話だが、関心をひく。

 

日本では第二次大戦後一貫して、育児の高度化が進行してきた。男女ともに教育水準があがり、人権意識が高まり、育児の文化は高度化してきた。

私が小学生だったころ、1980年代には、子どもへの体罰が問題視され、子どもの人格を尊重することが議論されるようになっていた。

2000年代、私が親になった頃は、子どもと同じ目線で話しかけるというスタイルが流行した。体罰を避け、怒鳴りつけることを避け、赤ちゃん言葉で話しかけることをやめ、幼少期から子供の人格を尊重するという育児だ。子どもを比較することや差別することを戒め、過干渉にならないように配慮し、塾や習い事はほどほどにしてぼんやりできる時間をつくるようにした。

 2020年を過ぎた現在は、おそらく私の頃よりももっとスマートな育児が行われているだろう。赤ちゃんを抱いている父親の姿も珍しいものではなくなった。育児の文化は急速に進化している。

 

だが、それがすべてではない。

育児の高度化は一般的な傾向として力強く進行しているとしても、その脇には、むごたらしい児童虐待・家庭崩壊の事例が散見される。育児文化の二極化。経済格差とは別の位相で進行する、育児の格差がある。

 経済の格差は、しばしばそれを正当化するために「優勝劣敗」や「淘汰」という言葉で表現される。進化論を曲解した「優生思想」になぞらえて、格差が正当化されることが多い。それに対して、育児文化の格差は進化論に喩えられることはない。崩壊家庭を指して「適者生存の法則だ」と表現する人はいない。

なぜか。なぜなら育児の成否という問題は、喩えるまでもなく、優勝劣敗だからである。育児文化が進化論と無縁だからではなく、反対に、育児が進化の過程そのものだからである。

口にするのもおそろしいほどに、育児の結果は残酷だ。児童虐待は連鎖し、人間を孤立させ、淘汰していく。人権意識が普及するにつれて、それを持たない者への淘汰圧力が強まる。他人の人格を尊重しない者や差別を肯定する者は、非婚化の圧力に押し流され、絶える。

これまで多くの女性が人権や反差別を唱えて活動をしてきたのは、彼女たちがたんに理念的なきれいごとを言いたいからではなくて、それが穏やかな家庭生活の条件になりつつあるからだ。子どもが健やかに成長し、幸せな結婚をし、健やかな孫の顔を見るために、人権意識は必要条件になっている。かつて直立二足歩行の猿人が四足歩行の猿人を淘汰していったように、現代では人権概念が人間の進化を方向付けている。

 

 

 いま話題になっている漫画家の事例は、経済的貧困を伴わない、純粋な文化の貧困を示しているために、人々の関心をひくものだ。

文化の貧困は、経済の貧困にも増して、むごたらしい。

かつて若者にもてはやされた「サブカルチャー」は、急速に、かわいそうなものになった。

 

 

 

 

2022年6月5日日曜日

ノート 映画『ロッキー』を観て

 


 1976年の『ロッキー』から2006年の『ロッキー FINAL』まで、シリーズ6作品を観た。

 シリーズを貫いているテーマは、スポーツによる共同体の構築、あるいは、擬製の共同性を構築する夢だ。

一作目では、30歳になるまで鳴かず飛ばずだった貧しい独身男性ロッキーが、同じく20代後半まで男と縁のなかった引っ込み思案の女性エイドリアンにプロポーズをする。二人はともに貧しく、将来の見通しはない。この映画に登場する人々は、みな貧しい。周辺化された人種の下層プロレタリアである。イタリア系、アフリカ系、アイルランド系、ユダヤ人。アングロサクソン系は一人もいない。それでも白人であるロッキーや義兄ポーリーやコーチのミッキーは、1950年代であれば豊かなアメリカ的生活にキャッチアップできたかもしれない。しかし1970年代の彼らに「黄金の50年代」は無縁だ。ロッキーは結婚をして家庭を持つことを夢見るが、それは簡単なことではない。

二作目『ロッキー2』では、エイドリアンが出産し、ロッキーは父親になる。しかし仕事はなく、収入は不安定で、先の見通しはない。ロッキーは自分の稼ぎで家族を養うという50年代モデルの家庭を夢見るが、それをまかなうだけの収入がない。家族三人で路頭に迷うかという状態のなかで、ロッキーはリングにのぼる。

『ロッキー2』で試合に勝利したロッキーは、世界チャンピオンとなり金持ちになる。だが、チャンピオンとして派手な生活をおくれたのはほんの数年だけ、すぐに若い挑戦者に追い落とされてしまう。30代半ばのロッキーがベルト奪回をかけて闘うのが、三作目『ロッキー3』(‘82)だ。ここでは、ボクシングスタイルの改造が試みられる。これまでハードパンチと耐久力だけで闘ってきたロッキーは、新しいトレーナーの下で、アフリカ系ボクサーのようなアウトボクシングを身につけるのである。「イタリアの種馬」で名をはせたロッキーが、アフリカ系ボクサーと融合する。「人種の違いをこえる」ことで、ロッキーはフィラデルフィア市の共同体を代表するボクサーになる。そして『ロッキー4』(‛85)では、ソ連邦からやってきたロシア人ボクサーとの対決によって、アメリカ合衆国を代表するボクサーとなる。

 

 『ロッキー』シリーズは、回を重ねるたびに、ある神話に収斂していく。

スポーツは、階級と人種を融和させ共同体を結束させる力がある、という神話だ。

ただしそれは、常識をはずれた異常な強度(労働強度)に身を投げ込むことを要求する。トレーニングがハードであるというだけでなく、人体を破壊されながら意識を保ちつづける耐久力が必要だ。ロッキーの忍耐強さは、イタリア的ではない。ロッキーはボクシングによって、プロテスタント以上にプロテスタント的な禁欲主義に改造されていくのである。

階級の克服、人種の融和、新しい共同性の構築は、激しい労働強化によって実現する。この映画は、たんにワークアウトやボディビルを流行させたというだけではない。この作品の基調となっているメッセージは、あらゆる夢を実現する第一の条件は、労働強化であるということだ。70年代の不況と新自由主義の精神を、よく表現していると思う。

 

 

2022年5月31日火曜日

映画『ロッキー』をちゃんと見る

 映画『ロッキー』を精読している。

 3年前に書いた『夢みる名古屋』の続編を書くために、いろいろと郷土史の文献をひろいつつ、サラリーマンとは何か、サラリーマンの生成について、きちんとした視点を持っておかなくては、近現代史を書くことはできないなと思った。

 そこでとりいそぎ、ドイツの哲学者エルンスト・ブロッホのエッセイに導かれて、ジークフリート・クラカウアーの『サラリーマン』を読んでいる。

クラカウアー著『サラリーマン』は、第二次大戦中ナチスによって焚書されたが、大戦後に復刊され、日本語版も刊行されている。この本は、当時のドイツの社会状況だけでなく、第二次大戦後のホワイトカラーを考えるうえで優れた論点を提示している。サラリーマンとスポーツについて。サラリーマンとルッキズムについて。縁故採用と排除について。100年前に書かれた描写がまったく古びていない。まるで現代のホワイトカラー労働者を書いているようだ。


 1958年の王子製紙争議は、総評の三大争議の一つに数えられる大争議だった。総評三大争議とは、日鋼室蘭争議、王子製紙争議、三井三池争議である。私がいま調べているのは、春日井市の王子製紙争議である。

 王子製紙争議について特筆するべきは、これが、労使関係の質的転換をめぐる争議だったということだ。日鋼室蘭争議と三井三池争議は、大量の人員整理をめぐる解雇撤回闘争だったが、王子製紙争議の争点は人員整理ではなく、管理経営の徹底、そのための労働組合の無力化という攻撃だった。ここで経営側は、王子労組の分裂をはかり、第二組合「王子新労」を形成させる。いわゆる「御用組合」のモデルケースとなるものだ。このとき、「王子新労」形成に決定的な役割を果たしたのが、東京の職員たち(ホワイトカラー)だった。職員と工員が一つの組合に結集していた王子労組は、東京のホワイトカラー職員たちを一気に切り崩され、組合分裂という構図にもちこまれていったのだ。このときの切り崩し工作は、戦後日本の「労使協調」、組合無力化の起点となる出来事である。

ジークフリート・クラカウアーは、ホワイトカラー労働者の矛盾に満ちた境遇と生態が、ナチス党を成長させた原動力の一つと見ているのだが、第二次大戦後の日本のホワイトカラーは、その矛盾した生態を何に向けていったのか。御用組合の形成。そう、外形的にはそうだ。だがそれだけでは足りない。ホワイトカラーの内的世界について、もっといろんな肉付けが必要だ。サラリーマンが経験した具体的なイメージ、文化、夢について。

 見なければならないものはたくさんある。まずは映画『ロッキー』から『ロッキー2』、『ロッキー3』、『ロッキー4』へと、滑稽な夢に向かって転がり落ちていく作品の姿を精読しようと思う。



2022年5月28日土曜日

ジジェクのエッセイを読んだので、コメント

 

雑誌「世界」臨時増刊号に掲載されたジジェクのエッセイ「ウクライナと第三次世界大戦」を読んだ。

どうもすっきりしない。奥歯にものが挟まっているのか、状況がクリアーに見えていないのか。まあ、なんでもかんでもジジェク先生に聞けばいいというわけでもないのだが。

 

 このエッセイの欠点は、アメリカ政府の新しい外交・戦争戦略に触れていないことだ。アメリカ政府の新しい戦略は、自国の兵を動かさず、武器供与をするだけで、小国に戦争をやらせるという方法だ。アメリカがNATOを巻き込んでウクライナ政府にやらせている戦争は、こういうものだ。外交交渉に尽力するのでもなく、自らの手を汚すのでもなく、小国の右翼政権をそそのかして、見込みのない戦争をやらせる。まるで、映画『アウトレイジ』に登場する悪人たちのやり方だ。

 

 これは日本にいる私たちにとっても他人事ではない。

 沖縄県の南西諸島(与論島・石垣島・宮古島)に配備された対艦ミサイル基地は、中国海軍への攻撃を想定したものだが、この運用主体は米軍ではなく、自衛隊である。米軍は、日本列島から沖縄・八重山諸島までを、「第一列島線」として、対中国戦争の前線に想定している。この戦略の肝は、有事の際、米軍は兵を退くということだ。米軍はグアムまで兵を退き、戦闘を担うのはもっぱら自衛隊である。アメリカ政府は、自衛隊の後方から兵器と弾薬を供与するのみである。戦争の外部化、アウトソーシングだ。

 いまウクライナ戦争では、アメリカの対ロシア戦略の新しい方法が試みられている。この方法は、アメリカの対中国戦略に援用される可能性が高い。アメリカは中国と直接に事を構えることをしたくないが、日本の右翼政権のケツをかいてやれば、自ら喜んで対中戦争をやってくれるかもしれない。そうなれば、在日米軍は安全な後方に退き、高価な弾薬をたっぷりと売りつければいい。そして、アメリカと「価値観を共有する」国々に呼びかけて、この戦争を正当化するためのキャンペーンを繰り広げるのだ。「中国は危険な専制国家だ」「中国は強欲な覇権主義だ」と。自分は表に立たず、小国の政治家の鼻先に人参をぶらさげて、戦争を代行させる。卑劣なやり方だ。

 

 

 ジジェクはエッセイの結論で、ウクライナ戦争について、第三世界の人々に聞いてみたらどうか、と問うている。この間、ずっと沈黙している第三世界の諸国に、意見を聞いてみてはどうかと。この戦争報道で繰りかえされている「価値観を共有する西側世界」なるもの、その「価値観」なるものが、第三世界の人々に理解されるのか。それは第三世界の人々を説得できる内容をもっているのか。西欧世界はもういちど自問するべきだ、と。

 まあ、大知識人らしい、上品な結論だ。

 私はジジェクのように上品ではないので、はっきり言うが、アメリカ政府の卑劣な戦争戦略を成就させないために、ロシア軍に勝利してほしいと願っている。表立っては言っていない。ただ内心では、ウクライナは早く負けろと願っている。ウクライナ軍の勝利は、アメリカの戦争戦略に成功例を与えてしまうということになるのだから、これは世界中の国々にとって重大な脅威となる。ロシアの脅威よりも、アメリカの脅威の方が、はるかに大きい。ロシアの覇権主義を云々するよりも、アメリカの際限のない覇権主義の方が、我々には優先的な課題だ。