2017年10月11日水曜日

近況報告


 いま、名古屋で新しい試みを準備しています。
 バーではありません。むかし新宿でバーを経営したことは楽しかったし、いまでは良い思い出です。しかし私も初老を過ぎて、体を切る手術もして、いまの体力で酒場をまわしていくのは難しいかなと感じています。
 これから私がやろうとしているのは、作文教室です。
名古屋市の大須に教室をかまえる準備をしています。児童向けの教室ではなく、18才以上を対象にした作文教室です。かっこよく言えば、後進の育成にあたるということです。


 なぜ作文という方法をとるのか。理由は二つあります。

 第一に、情報化社会の発達によって、人々が作文をする機会が広く生まれていて、多くの人が作文力を必要としているということがあります。

 私が文章を書き始めたのは90年代の初め、当時は自主製作のミニコミ、現代風に言えばジンが、流行した時期です。自主製作で雑誌を発行することが、おもしろくて、かっこよかった時代です。そんな小さな雑誌の余白を埋めるために、コラムを書いたり書評を書いたりすることから、私の物書き人生は始まりました。90年代のなかばから、徐々にインターネットが普及していきます。誰でも自分のホームページを作成して、広く公開することができるようになりました。2000年代の反戦運動では、このインターネットによる情報告知が威力を発揮しました。その後、メールマガジンが登場し、はてなブログ、ユーチューブ、ミクシィ、フェイスブック、ツイッター、インスタグラムと、インターネットを基盤にした情報発信が拡大していきます。むかしむかし、ミニコミやFAX通信を利用していた時代からみれば、現代ははるかに作文環境が整っていると言えます。

 情報環境が発達するのと同時に、情報の陳腐化も進行していきます。インターネット通信が普及したことで、誰もが情報を発信することができるようになりました。情報を発信すること自体は、いまでは珍しい話ではないのです。次に問題になってくるのは、無数にある情報の海の中で、自分がどのように差別化・卓越化していくのか、どうやって情報の陳腐化を回避するのか、ということです。このことに、みなさん懸命です。ツイッターをのぞいてみれば、強い煽情的な言葉で議論をしたり、あるいは、挑発的なイタズラ写真を撮ってみたり、危険な場所で“映える写真”を撮影したり、いろいろと工夫しています。急速に発達した情報技術にたいして、いまはまだ内容が追い付いていないのです。
 この四半世紀で人間の習慣は急速に変化していて、それぞれが新しい習慣に対応するために、手探りで方法を模索している状態です。ここで芽生え生長している“一般知性”は、それを支えるための高度な言語能力を要求します。言語能力とは、言い換えれば、概念を概念化する能力、言葉を使って考える能力です。
 こうした私の主張は、一見すると逆説におもわれるかもしれません。現在インターネットの表面で踊っているのは、オーディオ/ビジュアル技術の活用であって、言葉ではないからです。ツイッターでは短い言葉が交わされていますが、インスタグラムでは短い言葉すら書かれず画像だけが交わされているのです。こうした傾向を見れば、インターネットは非言語的、または、脱言語的なコミュニケーションに向かうのだと、結論づけられるかもしれません。しかしそれは、現象の断片を過大に評価したものです。インターネットの歴史はいまだ浅く、われわれ利用者はいまも手探りで模索している最中ですから、その行く末を結論づけるのはまだ早いのです。
 たしかに現在の一部の利用者は、画像を偏愛する傾向があります。それは事実です。しかし、デジタル世代やその次の世代が、画像の交換だけで満足するとはとても思えません。そうした利用法は、ある日あるきっかけから、急速にダサいものになるでしょう。では、オーディオ/ビジュアル表現が陳腐化し、ダサいものになってしまったときに、なにが残るのか。私は作文だと思います。


 さて、作文を教える第二の理由。
 私はかれこれ20年エッセーを書いてきましたが、そろそろ引退に入る時期です。今年でもう46才、若い書き手に場所を譲る年齢です。だから、“矢部史郎+山の手緑”の作文技法を誰かに伝えておきたいと考えました。
 この方法は“秘伝”にしてきたわけではないけれども、誰にも教えてこなかった方法です。もちろん大学では教わらないし、たぶん誰も実践していない特殊な方法です。
私のような学歴のない人間、読書家でも努力家でもない人間が、なぜあれほど抽象度の高い議論とエッセーをものにすることができたのか。自分で考えても不思議なことです。この不思議な経験を、方法化できたらいいな、と。私が山の手緑と共にやってきたこれまでの作業を振り返って、整理して、書くために何が必要なのかを明らかにしていきたい。そう考えています。