2017年5月22日月曜日

「復興」破たん後の社会を構想すること



大阪の『人民新聞』紙に、原稿を書きました。今週の号に掲載予定です。
 依頼されたテーマは、復興庁大臣の失言・辞任問題。
 ここで普通に大臣発言を弾劾してもよかったのですが、自分としては物足りなさがあったので、すこし前のめりに問題提起をしてみました。詳しくは『人民新聞』紙を買って読んでみてください。
 以下は、その論旨の要約。と、すこし加筆してみます。


 福島「復興」政策は遠からず破たんする。
ところで真の問題は、私たちは「復興」破たん後の社会を構想できるだろうか、ということである。
 福島の「復興」がうまくいかないことは、誰の目にもあきらかである。そのことにいまさら驚いたふりをするのもしらじらしい。いま私たちが提示しなければならないのは、「復興」破たん後の社会をどうするか、というビジョンである。

 政府と金融資本は、公害隠しの「復興」政策に没入する以外に道はない。彼らは嘘に嘘を重ねながら死体を積み上げていくことになる。私たちはそんな無謀な政策に付き合う義理はない。プランAの「復興」が暗礁に乗り上げるのなら、それにかわるプランBを用意しなければならない。
 ところで、私たちはプランBを構想することができるだろうか。「復興」政策の拒否を貫いた先に、どのような社会を形成するのか。官民をあげた国民動員社会に背を向けて、どのように関係をとりなおしていくか。そこでは、どのような人間が、どのような方法で、どのような社会を、再建していくのか。
 「復興」破たん後、と書いたが、それは、政府や銀行が破たんを認める日を待つという意味ではない。彼らが破たんを認めるのは最後の最後であって、私たちは政府がどうこうする以前に、予示的に、「復興」破たん後の社会を形成していけばよい。政府のペースに合わせる必要はない。時間を先取りし、圧縮することだ。

 と、ここまで偉そうに書いたが、私に「復興」破たん後の明確なビジョンがあるかと言うと、まだ手探りの状態である。まだ考え始めたばかりだ。またこの構想は、私ひとりの脳髄でつくりあげるものでもない。私の娘や、娘の世代の人々と、討議していくべきものだ。

 とはいえ、それほど長い時間はかからない。焦らずとも数年で形がみえてくると思う。
 いまはただ、「復興破たん後の社会」という言葉を口にしただけで、さまざまな着想が湧いてくる、やる気が出るということで、よしとしよう。