2016年3月2日水曜日

社会は激しく分化する。そのことを嘆くのはもうやめた。


 久しぶりに寿司を食べたくなったので、チリのサーモン、インドのエビ、愛知県の米を使って寿司を握った。この自作の寿司を山の手緑にも食べさせようと思い、名古屋市内まで車をとばして寿司を運んだ。めったに食べられない寿司だから。
 彼女は数ヶ月ぶりの寿司に喜びながら、「まるで戦時下のようだね」と言った。
 五年前までは、回転寿司でも立ち食いそばでも、なんでも無邪気に食べることができた。しかし現在はそうではない。食べられるものを探して、手に入ればわけあい、手に入らなければ我慢するという生活だ。
 すべての人間がこんな生活をしているわけではない。食品を吟味して耐乏生活をおくっているのは、日本社会のなかの一部の人間である。放射性プルームを浴びた初期被曝者、体の弱い者、乳幼児を育てる母親、子供が成人するまで倒れるわけにはいかない親たち。そうした人々はいま、戦時下のような耐乏生活を経験している。

 他方で、政府の「復興」政策に加担することで自分の出世を企む者もいる。放射能の安全神話に加担することが、業績やカネになる時代だ。まったく腹立たしいことだが、いつの時代にもそういう人間はいる。

 おそらく戦争とはこういうもので、時代の苦しみや悲惨さを国民全体が均しく経験することはない。戦争によって命を奪われた者がいる一方で、戦争で出世した者や荒稼ぎした者がいる。戦争によって地上戦に巻き込まれた者がいて、空襲で死にかけた者がいる。一方で、地上戦も空襲も経験せず、安全な場所でラッパを吹いていただけの者がいる。疎開でやってきた子供をいびっていただけの者が、大勢いる。戦争の恐ろしさというものは、国民全体が均しく共有することができないものとしてある。戦争は、社会の一体性を喧伝しつつ、社会を激しく分化させるのである。

 これから放射能汚染公害をめぐって、日本社会は激しく分化する。そこで教育は重要な焦点になる。国民主義道徳を教える学校教育と、人権意識を教える家庭教育とに分化する。私の今年の課題は、家庭教育を充実させることによって、学校が教える嘘を暴露し無効化させることである。