2014年4月2日水曜日

たちよみ『閾値仮説のなにが問題か』


たまにはブログを更新しないといけないので、たちよみ資料を公開します。

これから紹介するのは、20133月に発売された『被曝社会年報』に寄せた文章です。
『受忍・否認・錯覚 ――閾値仮説のなにが問題か』と題して、政府が強弁している閾(しきい)値仮説が、日本社会にどのような混乱と恐怖を与えているかを分析しました。
今回も一部分だけの「たちよみ」です。
全文を読みたい方は、本を買ってください。

以下、本文です。



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受忍・否認・錯覚 ――閾値仮説のなにが問題か
矢部史郎


はじめに

 東京電力・福島第一原子力発電所の事故は、IAEA(国際原子力委員会)の事故レベル評価で「レベル7」という大惨事となった。福島第一原発から放出された放射性物質は、東北地方のみならず関東平野全域に降り注ぎ、約四千万人の人口を包み込んだ。地表に落ちた放射性物質は回収されず、現在も東北・関東地域の住民は放射能汚染にさらされている。
 放射能拡散後に多くの人々にとって脅威となるのは、いわゆる「低線量被曝」の問題である。
 ICRP(国際放射線防護委員会)が勧告する一般人の被曝許容線量は、年間1ミリシーベルト、自然放射線を年間1ミリシーベルトとして、あわせて年間2ミリシーベルトである。この勧告の根拠となっているのは、「低線量被曝」の健康影響について示された、いわゆる「閾値なし直線モデル」である。ICRPは放射線による健康被害の「閾値」はないとして、どんなわずかな線量でも健康被害の恐れがあるとしている。
 日本政府はICRPの勧告に反して、一般人の被曝許容線量を20ミリシーベルトから100ミリシーベルトまで引き上げている。また、放射性物質を含んだ汚染食品を1キロあたり100ベクレル未満であれば流通させるとしている。放射性物質を含んだ焼却灰については、1キロあたり8000ベクレル未満であれば通常の処分方法をとることを許可している。法的には回収し密封しなければならない汚染物質について、放置し、食品や物品にのせて拡散させてしまっているのである。
日本政府のこうした政策を後押ししているのは、「低線量被曝」にたいする過小評価である。ICRPの「閾値なし直線モデル」に反して、日本政府は「閾値」があるだろうという立場にたってしまっているのである。
 問題を困難にしているのは、「閾値」という発想が、政府だけでなく市民にとっても受け入れられやすいものであるということである。放射性物質を大量に取り込むのは問題だが、微量であれば健康被害はないだろう、という発想だ。
 事故が起きる以前、政府と原子力技術者たちは、原子力発電所が事故を起こす可能性は地上に隕石が落ちてくる可能性ほど低い、と繰り返してきた。そしてそれは広く市民にも信じられてきた。これは現在では「原発の安全神話」と名指しされ、原子力問題の核心として認識されている。福島第一原発の爆発によって、原発の安全神話は崩壊した。しかし「安全神話」が完全に息絶えたわけではない。福島第一原発からの放射能拡散という事態を前に、政府と技術者たちは「放射能の安全神話」にとりつかれている。チェルノブイリ事件の顛末を参照しても彼らは動じない。まるで「日本の放射能は安全です」とでも言うかのような対応である。1986年、チェルノブイリ原発が炎上した直後、彼らは言ったのだ。「日本の原発はソ連の原発とは違うのだ」「日本の原発は安全です」と。今回もまたその過ちを繰り返すことになるだろう。問題の領域が工学から医学へと変わっただけである。おびただしい被曝と流血のなかで、日本の放射能は安全か否かが議論されることになるのだ。
本稿では、放射能の安全神話がひろく一般に流布され市民に受容されていく過程を念頭におき、「閾値仮説」を批判的に検討する。
まず技術的な観点から、「閾値仮説」のなにが間違いであるかを明らかにする。
つぎに、この仮説が表現するモデルが人々に与える錯視と心理的効果を明らかにする。
最後に、放射能の安全神話を支えるイデオロギーの問題に言及する。


技術的問題
 人体の被曝経路はおおまかに二つの経路が考えられている。外部被曝と内部被曝である。
外部被曝は、体外にある放射線源から放射線を浴びせられた被曝である。
内部被曝は、体内に取り込まれた放射線源が体内で崩壊し、人体が内部から撃ち抜かれる被曝である。
 「閾値」をめぐる論争とは、低線量被曝をどのように評価するかという論争であり、その根幹は、内部被曝をどのように評価するかという問題である。
 ICRPの提示した「閾値なし直線モデル」は、どれだけ低線量であっても、健康影響があるとするものである。このモデルが前提とするのは、内部被曝の影響の有無を証明するデータはないという事実である。内部被曝の調査をしたデータは過去にないし、おそらく将来的にもデータをとることはできないだろう。内部被曝に対する人体の耐性は証明されていない。だから、人々の抱く素朴な閾値感覚は、退けなければならないということだ。
 これに対して、閾値仮説を唱える学派は、これまでの実験と疫学統計によって「閾値」が証明されていると主張している。例えば、中央電力研究所は100ミリシーベルト未満の線量域では健康影響はないとしている。なぜ彼らがこのような主張をできるかというと、内部被曝を無視しているからである。
 閾値派が根拠としている疫学統計は、主要には広島・長崎の被爆者から得られたものである。問題になるのは、この「統計」にどれだけの信憑性があるかということだ。
まず根本的な問題として、どのようにして被曝線量を評価したのかという問題がある。これが統計であるからには、対象となる個々人の被曝線量を定めているはずである。ある人の被曝線量は〇ミリシーベルトであったと記録する。だが、どのようにしてそれを測定したのか。どのような方法で、どのような機材を利用して、被曝線量を定めることができたのか。
 内部被曝がおきる環境は、管理された空間内で放射線源を操作しているのとはまったく違う環境である。どのような経路でどれだけの量の核種が移動・蓄積し人体にとりこまれたのかは、容易には把握しがたい。したがって、ある人が被曝したか否かを知ることすら容易ではない。また、被曝したことがわかったとして、その人の被曝線量がどれだけであるかを測定するのは非常に困難である。
測定の困難さは二点ある。
問題の第一は、放射性物質は消える物質であるということだ。
大気中に放出される放射性核種は複数ある。ウラン、プルトニウム、セシウム、ストロンチウム、イットリウム、トリチウム、ヨウ素、キセノン、銀、等々、書きだせばきりがないほど多様である。それぞれの核種によって崩壊する寿命は違う。プルトニウム239は半減期二万四千年と長寿命だが、ヨウ素131は半減期8日と比較的短命である。ヨウ素131は8日間のうちに半分が崩壊し、次の8日間で四分の一が崩壊し、次の8日間で8分の一が崩壊する。そうして2カ月後には、取りこんだ量の256分の一まで減少していく。ある人がヨウ素131をどれだけ取り込んだかを知るためには、ヨウ素131が崩壊しきってしまう前に調べなければならない。しかしそのような調査を大規模に実施することは実際には不可能である。だから、ヨウ素131のような短命な核種による被曝線量は、推定される拡散量と、人々の行動記録から、どれだけ摂取したかを推測するという以外に方法がない。
 問題の第二は、放射性物質のなかには、測定できない核種が含まれているということだ。体内に存在する核種をもれなく測定する方法がないのである。
現在は、体内にとりこまれた放射性物質を知るために、尿検査かホールボディカウンタが利用されている。いずれの方法も核種の全てを調べることはできない。
尿検査は、尿に排出された核種の量から体内の核種の量を調べる方法だが、これは、肺に取り込まれた核種については充分にわからない。また、ストロンチウム(89Sr,90Sr)という核種は骨に取り込まれてしまい体外に排出されないため、尿検査でこの量を知ることはできない。
ホールボディカウンタは、人体をまるごとシンチレーションカウンタで測定するものだが、これはγ線を放出する核種についてしかわからない。ストロンチウムはβ線しか放出しないので、γ線の検出器(ホールボディカウンタ)では把握することができない。仮に、ガイガーミュラー計数器のようなβ線の測定器を体にあてたとしても、体内で放出されたβ線は人体に吸収されて遮蔽されてしまうから、人体の外部からその量を知ることはできない。現在利用されている測定方法と測定機材では、体内に入ってしまったストロンチウムを測ることはできないのである。だから、ストロンチウムの摂取量については、セシウムなど他の核種の量から推測する以外に方法がないのである。
 現在の測定技術では人体内部の放射性核種を知ることは困難で、ヨウ素131とストロンチウムという代表的な二つの核種に限定しても、それを知る方法は推量しかないのである。科学的データの厳密さを要求するならば、これは「あて推量」と言ってもさしつかえないレベルである。これは、「閾値」という定量的議論を試みるうえでは、はなはだ心許ない「データ」である。閾値仮説は、「データ」を示すことで自らの主張を科学的に見せるように粉飾しているが、実はその根拠とする「データ」なるものがそもそも実体を伴わない机上の空論なのである。
 問題をまた別の角度から概観すれば、広島・長崎の被爆者から得られた「疫学統計」というものは、科学的にみて非常に疑わしいものだ。原爆の被爆者を調査したABCC(原爆傷害調査委員会)は、当時から現在に至るまで一貫して、「残留放射能(放射性物質)は存在しない」と主張してきた。この見解が当時の政策によるものであったのか、それとも科学者たちの無能によるものであったのかは、ここでは措く。いずれの理由にかかわらず、広島と長崎では内部被曝の調査研究は実施されなかったのだから、当時の疫学統計なるものを現在の議論に適用することはできないのである。

以上の技術的問題に加えて、医学的観点から、線量評価という方法そのものの信憑性も問われてしかるべきである。現在は放射線量を単純に積算した値をもって「低線量」とか「高線量」とみなしているが、そうしたアプローチが人体への影響を考えるうえで充分なものかどうかを検討しなければならない。
一般的に言って人体というものは、量よりもバランスに、そしてリズムに支配されがちである。例えば、摂食や睡眠において重視されるのは、量である以上にバランスであり、そのリズムである。人々が健康状態を「体調」と呼び、その異変を「調子が悪い」とか「変調」とか呼ぶのは、人体をある種の旋律(調べ)とみなしているからだ。このありふれた表現は、医学の土台となる観点を含んでいる。
人体の「調子」はさまざまな要素で構成されていて、その要素をどれだけ多く数え上げることができるかが医療活動の要である。人体は何によってあるのか。量か質か、空間的にか時間的にか、濃度、頻度、構造を構造化するしくみ、流れ、等々。医療従事者は人体の複雑さに対面しながら、音楽家のような繊細さ(そして鷹揚さ)を要求される。こうした観点にたつとき、人体と被曝線量をめぐる議論は、問題を充分に捉えていないように思われる。
人体の細胞のいくつかが放射線によって破壊されたとする。このことを、建物を構成するレンガブロックのいくつかが破壊されたと考えるのか、それとも、ピアノの鍵盤のいくつかが破壊されたと考えるのか。人体を建造物のように考えるか、旋律を奏でる楽器のように考えるか、あるいはもっとラディカルな視点をとって、人体を旋律そのものとして捉えるのか。そうした観点のとりかたしだいで影響評価の方法は大きく変わってくるだろう。人体の旋律的性格を重視するならば、「被曝線量」という量的議論だけを絶対視したり自明視したりするのは危険である。それは奥ゆきをもつ人体の表面を眺めているにすぎないのである。
人体をどのようなものとして考えるかという問題はここでは措くとして、話を戻そう。
問題が被曝線量の多寡であるとして、それらを定量する方法がないということを確認しておきたい。すべては推量であると考えてよい。福島第一原発がどれだけの量のヨウ素を放出し、キセノンを放出し、ストロンチウムを放出したかは確定されていない。東京電力が発表する推定と、いくつかの事故調査委員会の推定と、WHOの推定が、大きく食い違っているというのが現実である。二〇一一年三月の下旬に横浜市の公園で砂遊びをしたある児童がどれだけ被曝したかは、誰にもわからない。それは「低線量だからわからない」のではない。それを調べる方法がないのである。




暗示と錯覚 (省略)


暗示される恐怖 (省略)


受忍と否認 (省略)


想像される「社会の不全」 (省略)




閾値のイデオロギー
 これまで、閾値仮説が錯覚・暗示・脅迫によって現実を見えなくさせることを述べた。ではこの錯覚を覆すためには何が必要なのか。
被曝というものをわずかでも受忍しないことである。被曝を受忍するような社会とは縁を切ることだ。
 被曝を受忍する社会とは、被曝を受忍させる社会である。汚染地域の住民が社会を護持するために被曝を受忍するとき、それは現実には自分以外の誰かに被曝作業を強いることで社会を護持するということである。おそらく福島県は今後も「復興」を諦めないだろうが、福島県政が「復興」を試みるあいだ、その関連事業は多くの人間の生き血を要求する。復興事業に関わる作業者は確実に被曝する。彼らの被曝被害は「社会的」に受忍/否認され、この「社会」は人間を生贄にしたことすら忘れてしまうだろう。
 問題はずっと以前から原発労働者によって告発されてきたことである。原子力のある社会とは、人間の生き血を要求しつつ、そのことに無関心であり続けてきた「社会」である。閾値仮説の曲線が閾値未満の線量においても被害を想定しているということを、それが何を意味するものであるかを、我々はいま熟考するべきなのである。原子力産業は神話によって人々を説き伏せ、人間を生贄にすることを正当化してきた産業である。そして原子力のある社会とは、生贄の存在を知りながらそれに目をつぶることで成立してきた「社会」なのである。
 今回の原発事故によって、「原子力の安全神話は崩壊した」と言われている。私はそうは思わない。神話の問題は、彼らの主張する原子炉の安全性が虚偽であったということをもって決着するものではない。それは問題の表面をなぞっているにすぎない。問題の根本は、原子力政策が、たとえ少数であれ人間を犠牲にすることを正当化し、それを受忍させてきたということにある。人権を謳う「民主的」政府が、人権を蹂躙する反民主主義を内包し、それを政策として公然と貫いてきたことにある。
被曝労働者の人権を侵してきた「閾値」の神話は、いま社会の全領域に適用され、胎児や乳児までが受忍を要求される事態を生んでいる。放射能の安全神話は崩壊するどころかむしろ拡大していると言える。そうして我々はこれまで被曝労働者の被害に目をつぶってきたのと同じやり方で、目をつぶるのだ。我々は無関心を装うのだ。なんのために? 社会の護持のために。「復興」と「日本再生」のために。
 我々はここで踏みとどまって考えるべきである。問題を再構成してみよう。ある「少数」の被曝被害について受忍する/させる社会とは、いったいどのような社会なのか、と。
閾値仮説が教えるのは、彼らが閾値に満たない「低線量」の場合でも被害を想定しているということだ。そうしてこの受忍/否認の要求のなかで、「個体差」という魔法の言葉が与えられる。ここで我々は少し安心する。私は乳児ではない。私は妊婦ではない。私は人工透析患者ではない。私は甲状腺を患ったことがない。私は酸素吸入器に頼っていない。「個体差」という言葉は、自分は健康で標準的であると考える人々に気休めを与える。そうした見通しが裏切られて激しい自覚症状があらわれる直前まで、彼は自分の身体の健全さを信じるだろう。彼は自分の身体が「標準的」で「健全」であろうと想像することで、自分が被害者の一部になるかもしれないという恐れから解放され、隣人の被害を容認するのである。
これはすでに社会の体をなしていないのである。ひとりひとりの人間の内部から、社会という理念が放逐されてしまうことになる。
いま我々が何にさらされているのかと言えば、それはたんに放射線にさらされているというだけではない。これまで不充分ながらも築き上げられてきた理念の崩壊にさらされているのである。社会、民主主義、科学、それらを支える人文主義(ヒューマニズム)という理念が、根底から廃棄されようとしている。
そんな崇高な理念などもともと存在しなかったのだ、と言うこともできる。
そうかもしれない。
しかしそんな一見シニカルな反論も、被曝しながら言ったのでは滑稽だ。むしろそのシニシズムを反転させ、こう言ってもいいはずだ。
「日本再生」など俺の知ったことか、と。できもしない「復興」政策に協力する義理はない、と。
我々が被曝を受忍したところで、そこから生まれるものなどなにもない。それはこの腐敗した社会をますます腐敗させるだけなのである。