2014年2月5日水曜日

当事者をめぐる代理/表象の問題



 放射能汚染の被害は、これまでに知られる公害問題をはるかに超えるほど広域で、膨大な人口を包み込んでいる。フォールアウトの被害だけでも日本・カナダ・アメリカの三国にわたり、漁業被害ではロシアも加わる。食品流通ではさらに多くの国が被害にさらされるだろう。
この大規模な被害を考えるためには、思想的に二つの課題があると思われる。
第一は尺度の問題。私たちは日常的な感覚を超える大きなスケールで問題を捉えなくてはならない。
第二は代理/表象の問題。被害を切り縮めたり利害関係を反転させることのない仕方で、問題を表現しなくてはならない。


 今回の事件が起こされる前、代理/表象をめぐって私が思想的に争ったのは、靖国問題だった。
 靖国問題というと、一般的には新聞やテレビで語られる程度の単純な論争に見えるかもしれない。しかし、靖国神社に直接抗議を繰り返していたアナキスト/アウトノミア系の運動にとっては、とても複雑で重要な思想課題であった。私たちはたんに右翼と対決していただけではなく、「遺族」の平和運動とも一線を画し、平和遺族会と歩調をあわせる「左翼」諸派と緊張関係にあった。
 なにが問題だったのか。
 私なりに要約すればそれは、戦没者遺族の「当事者性」を対象化するか否かという問題だった。もちろん私たちは、戦没者遺族が靖国問題の当事者であることを認めている。しかし、靖国問題の議論の中心が、遺族の要求や遺族の想いにあるとは考えなかった。遺族は当事者のうちのひとりに過ぎないし、遺族が正しく問題を認識しているとも思われない。遺族には遺族の想いがあるだろうが、我々には我々の論理がある。だから、平和遺族会とは別の問題設定で、まったく別の行動形態で、靖国神社への攻撃を組織していったのだ。
 反靖国派の内部で、思想的分岐の契機となったのは、90年代のなかば、「犬死に」という表現の問題だった。靖国神社は戦没死者を「英霊」として顕彰し、さらには「彼らの死が日本の繁栄の礎になった」などという完全に転倒したデマゴギーを垂れながしていた。これに対して反靖国派は、「戦争で死んでもなんの意味もない」「戦死は犬死にだ」と言った。正しい。しかし、この「犬死に」という表現に対して、平和遺族会の一部が反発した。「犬死に」とは言って欲しくない、と。彼らが反発するのもわからなくはない。自分の肉親の死が「犬死に」だったと言われて、なんの抵抗もなくそうだと言うのは難しいだろう。この「犬死に」表現の問題は、反靖国派の内部で論争化した。私たちは遺族と歩調をあわせることは難しいと判断し、独自の行動をとっていった。
 靖国神社に参集する「遺族」に対して、我々は攻撃的だった。「死者を弔うなら自分の家の墓でやれ」「お前らの追悼は死者を冒涜する」「追悼が次の死者を要求する」「お前のような人間が若い兵士を殺したのだ」等々。私たちは「戦没死者の英霊化」が、もっぱら軍によって強制されたものではないと考える。「英霊」の実現には、遺族たちの下からの圧力があった。肉親の死を、ただひとりの死として、たったひとりで弔うということをしないで済ますために(それは命がけの壮絶な作業だ)、問題を直視せずごまかしておきたいという遺族の要求が、靖国の誠実ぶった追悼行事を実現させる。そしてそのごまかしの「弔い」が、次の戦死者を要求していったのである。私たちは靖国の黙祷行事を妨害することに専心していたが、それは、ごまかしの「弔い」や「弔いの不徹底」を、人間として憎んだからである。
 こういう問題設定と行動は、平和遺族会と足並みを揃えているうちはできなかっただろう。彼ら遺族の当事者性は、「犬死に」という表現に反発するていどに傷つきやすく、小さなものだったから。



 長々と靖国問題について書いたが、ここから問題にしたいのは、「当事者性」をどのように設定するかという問題である。ある特定の条件を設けて「当事者」を限定するとき、それがどんな人々を排除し見えなくさせてしまうかということに、意識的であるべきだ。
 放射能汚染について、政府は「空間線量率」の数値で被害当事者を線引きするだろう。あるいは、「被曝線量」推定によって健康被害認定の線引きをするだろう。そうして問題をより小さく「個別的な問題」に切り縮めようとするはずだ。
 問題の個別化に熱心な「左翼」は、まんまと政府の策動に乗っかり、それを補完する働きをするだろう。問題を個別的なものにして看板化したほうが、「運動」を形成するのに都合がよい(そのていどの「運動」しかやるつもりがない)からだ。そうしてたとえば、「福島県民こそが被害当事者である」というような印象をくりかえすことで、自分たちの当事者性を忘れさせ、被害を受けた多数の人々を排除してしまうことになる。汚染がれき問題における「左翼」諸党派の対応を見れば、容易に想像がつく。初動で間違えた者たちは、ずっと同じ間違いを続けるだろう。

 私たちは「全員が当事者だ」と言わなくてはならない。
放射能にまったく無縁でいられる者などどこにもいない。

 そして、自分こそ(彼らこそ)第一の中心的な「当事者」だと言う者があらわれたら、関わらないのがよい。そんな人間とは組めない。それは問題の大きさを捉えていないか、なにかをごまかしている者だから。誠実なふりをしたがる者が、自己欺瞞で首が回らなくなっているということは、ある。