ピーター・ランボーン・ウィルソン著、菰田真介訳、『海賊ユートピア』が出ました。昨日、見本が届きました。正式な書名を書いておくので、本屋さんでゲットしてください。
書名 『海賊ユートピア 背教者と難民の17世紀マグリブ海洋世界』
著 ピーター・ランボーン・ウィルソン
訳 菰田真介
出版社 以文社
巻末にある訳者解題「ラバト・サレー海賊の反社会的可能性」が素晴らしい。
歴史に対して真摯に向き合いながら、ただ過去に拘泥するのでなく、未来志向に溢れている。こういう解題を書ける人間は、そうはいない。これは、著者ピーター・ランボーン・ウィルソンの影響ばかりでなく、訳者がその方法(海賊的方法)をしっかりと掴んでいるからだろう。ある意味で訳者は著者以上に本書を読み込み、海賊的方法を習得したのだと思う。
海賊研究は、たんに歴史学や人類学や社会学をやることとは違う。そういう既存の「学」の対象に海賊を選んだというだけでは、はっきり言って何もわからなし、こんなにおもしろいことにはならないだろう。現代の海賊研究が超エキサイティングなのは、海賊を研究するという作業を通じて、研究作業それ自体が海賊化したことにある。研究者がどこか海賊っぽくなってしまうのだ。だから文体がちょっとおかしい。論点はハードコアなのに、どこかキュート。どこを読んでもクスクス笑ってしまう。そんなユーモアが溢れている。このことは「研究」という概念や慣習をまるごと転覆する可能性がある。これからが楽しみだ。
追記
追記
本文がおもしろすぎるので引用してしまおう。
海賊(パイレート)と私掠者(プライヴァティア)を区別するには、それぞれ略奪品をどのように分配するのかをみてみるのが一番早い。たいていの場合、海賊(パイレート)船長が受け取ったのは、割合にすると、わずか1.5か2、航海士は1.5か1.25、一般乗組員は1、非戦闘員(少年や音楽家)は0.5か0.75である。これに対して私掠船長(プライヴァティア)が受け取ったのは、普通の乗組員1に対して40倍である。もちろん私掠航海で大収穫のときの分配1は、商船の賃金に比べれば-あるいは海軍の未払徴収に比べれば-はるかに価値があっただろう。しかし海賊的平等主義との対照性は著しい。純粋状態にある海賊は、共産主義的だったといってもよい。したがって[カリブの]海賊を単なる初期資本家であるとみなす学者は大きな誤りを犯している。たしかに海賊は、「社会盗賊(義賊)」(つまり「原初的革命家」)というマルクス主義的定義には適合しない。なぜなら、海賊には「社会的文脈」がない。つまり、住みついて、レジスタンスを先導するべき農民社会がないからである[ホブズボーム『匪賊の社会史』]。マルクス主義者であるホブズボームは、海賊を真のラディカリズムの「先駆者」としてみとめたりはしない。なぜなら彼らマルクス主義者にとって海賊は、たんに私利私欲か、本源的蓄積を通じてしかレジスタンスに与しないという意味で、個人にすぎないからである。(180頁、強調は引用者)
ピーター・ランボーン・ウィルソンによる、ホブズボーム批判。これを「アナキストによるマルクス主義者への批判」と言ってしまうとつまらない。そんな簡単な話ではない。ここで問題にされているのは、私利・私欲・私闘のなかにラディカリズムを認めるか否かである。「俺がやっているのは私闘ですが、なにか?」と言っているのだ。著者はここではさくっと切り上げて先に進んでしまうのだが、かなり重要な論点である。
ウィルソンとホブズボーム両者を隔てているのは、アナキストかマルクス主義者かということではない。これは私見だが、両者を隔てているのは70年代フェミニズムのインパクトをどのように受け取ったか(やりすごしたか)である。
階級闘争の現場において、「社会的文脈」なんてものはほとんど聞いたことがない。そんな高級な「文脈」などはなから望めない人間がいて、そういう人間にとって、私利私欲と本源的蓄積(への抵抗)こそが闘争の核心なのである。70年代フェミニズムが突き出した「私的なことは政治的である」という号令は、そのように読まれるべきだ。我々は私闘しかできない。一所懸命に私闘をたたかえばよい。ここを是認するか否かが、「海賊ユートピア」と「災害ユートピア」との分かれ目になるのかもしれない。