食品による内部被曝問題はかなり多くの人々に共有されていると思う。
食品の産地表示もずいぶん細かくなってきているし、なかには産地偽装もあるだろうが、全体に防護対策は取りやすくなっている。粗食にも慣れた。
しかし防護対策がしやすくなった半面、防護をめぐる議論が表面にあらわれにくくなってもいる。多くの人が放射能を忘れたふりをする。この問題から自由であるふりをする。そうして、公然とではなく隠然と、公的ではなく私的に、防護対策はすすんでいくわけだ。
おそらくここで問題にされるべきは、障害者の防護対策である。
発達障害やアスペルガ―症候群など言語能力の劣る人々は、表と裏のダブルスタンダードを立体的に読み取ることができない。政府が「安全です」と言うとき、それを平板に額面通り受け取り信じている人がいる。「専門家を信じろ」という権威主義的な人格も、障害者ではないかもしれないが、ある意味でそういう弱者のグループである(権威主義者はどんどん被曝して死ねばいいという意見もあるが)。
社会の表面では、社会、国民、絆、といった公的なものが美化されていて、地下では私的な防護対策が進行する。実際に多くの健常者たちはしたたかに自分の身を護っているのだが、表向きは放射能など知らないふりをする。
こうした嘘によって傷つくのは、嘘をついた者たちの精神だ。
社会はもう壊れていて、現実は私的なものに委ねられているのだから、カッコイイ嘘も、自由なふりも、やめるべきだ。