2011年1月19日水曜日

1/8海賊研報告 「フック船長はなぜフックなのか」

 わが海賊研究会のコモダ研究員が、なんと大学に合格しました。おめでとう。いちど大学を卒業したコモダくんですが、大学院に進むのではなく、もういちど学部生をやるのだそうです。大学が好きなんだね。
 で、コモダくんが受験勉強のついでに用意してくれたレジュメが、『Life Under The Jolly Roger』(Gabriel Kuhn)の抄訳。23ページ。てレジュメ23ページかよっ。多すぎない? ちょっとこれ多すぎない? 受験勉強さぼって海賊の本ばっかり読んでたんじゃないの? ちがうの? べつにいいけどさ合格したから。どんな脳みそしてんだよと。

 さて、1月8日の研究会は『Life Under The Jolly Roger』を読む。ジョリー・ロジャー(Jolly Roger)というのは、カリブ海賊以降に使われた有名な海賊旗。黒地に白く骸骨が描かれたあの黒旗だ。
 著者のガブリエル・クーン(Gabriel Kuhn)はストックホルム在住のアナキスト。1972年生まれというから、もう20年ぐらい経験を積んで脂ののった活動家/研究者だ。スウェーデンには「海賊党」という冗談みたいな名前の政党があって、ユーロ議会に代議員を送り出しているらしいのだが、おそらくそうした社会運動と関わりながら海賊研究が為されているのだろう。
 本書が扱うのは、カリブのバッカニアからパイレーツまでの「海賊の黄金期」。17世紀初頭から1730年までの海賊だ。史料的に目新しい事実はほとんどないが、その分析の枠組みをどう設定するかというところで、試みという以上の成果をあげている。フーコーやドゥルーズ/ガタリの概念を通して、近代海賊の思想史的位置づけをはかる。ちょっと感動する労作だ。
 脳みそのリミッターが切れたコモダ研究員が23ページにもおよぶ長大なレジュメを書いてくれちゃったので、研究会は新年からみっちり勉強することになった。もちろんここではすべてを紹介できない。
 今回も研究会の一部を紹介するのだが、私がとくに感動したのは、海賊と障害についての項だ。

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3.8. Eye Patches,Hook Hands,and Wooden Legs: Piracy and Disability
3章8節  眼帯、フック、棒切れの足

they [pirates] render it [disability] as proof of manliness,courage,and audacity.
海賊たちは障害を男らしさ、勇気、肝っ玉の証拠だとみなした。(81)

While the acceptance of disability itself must be uncompromisingly welcomed,the underlying values must not.
障害を認めること自体は無条件に受け入れられるべきであるが、根底にある価値観はそうなってはならない。(81)

Article number six (...) under Captain George Lowther promised not only compensating payment for "he that shall have the misfortune to lose a limb" but also to "remain with the company as long as he shall think fit." (81) (Captain Johnson)
ジョージ・ラウザー船長下の第6条が約束していたのは、「単に手足を失うという不幸をこうむったもの」に対する補償支払いだけでなく、「とどまりたいと思う限り仲間でいられる」ということであった。

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 片目を失った者、手がフックになっている者、片足を木の棒で支えている者がいる。海賊を戯画化したイラストでは、こうした障害が必ず描きこまれている。そうした海賊が実際にいて、それはひょっとすると女海賊と同じくらい稀なことだったかもしれないが、義眼・義手・義足の海賊は確かに存在して、見る者に強烈な印象を叩き付けたのだろう。
 こうしたばらつきのある不安定な身体は、近代海軍ではありえないことだ。近代の軍隊には兵役検査があって、義眼はともかく義手や義足はまず船に乗れない。人間の規律・訓練を急速に整備していった近代化の過程に沿って言えば、彼らは排除されるべき「不潔な身体」というべきかもしれない。近代海軍が人間の身体を規格化させていたとき、かたや近代海賊は規格外の「不潔な身体」が集まるはきだめであった。障害、巨漢、異様な髭、アル中、黒人、男装した女、異様な大声、入れ墨、変な英語(ピジン語)、盗品をちぐはぐにあわせた奇抜なファッション。フック船長のフックとは、これら「不潔な身体」を象徴するものなのだと思う。
 我々が海賊を現実的なものと考えるとき、あるいは海賊を非現実的なものとして退けるとき、どちらにおいてもこの障害をまとった身体が関わっている。障害は「弱さ」なのか、それとも海賊たちが考えたように「強さの証」なのか。障害が「弱さ」であるとするならば、では「強い」とは何なのか。では、力とはなんなのか。
 ことは人間と生命の本質に関わる重大なものだから、もういちど引用する。

 While the acceptance of disability itself must be uncompromisingly welcomed,the underlying values must not.
障害を認めること自体は無条件に受け入れられるべきであるが、根底にある価値観はそうなってはならない。(81)

これはやばい。涙が出るほど感動した。


追記
 障害が肝っ玉の証拠だとみなされたのは、それが勇敢に戦った結果であるからというだけではない。片手を失ってもなお戦闘に向かうずぶとさあつかましさが、勇気や力ということの定義の核心に関わっているのだ。全体を部分へと分節し部分を全体へと構成する近代的な身体観に対して、海賊フックの身体はそれを否定する。全体は部分の総和ではない。片手をもぎとられようが神の怒りを買おうが、力それ自体は損なわれるものではない。著者のガブリエル・クーンはこれを「野生の身体」と呼んでいるが、私はそれよりも「もうひとつの正統な近代」と呼びたい。無限の空間(海)に対峙した人々は、人間の無限の力を確信していて、海洋的人文主義とでも呼ぶべき新たな身体観を獲得したのだ。あ、言い過ぎた。